平生釟三郎
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平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、慶応2年5月22日(1866年7月4日) - 昭和20年(1945年)11月27日)は、明治、大正、及び昭和初期に活躍した実業家、教育者、政治家。1942年勲一等旭日菊花大綬章。
昭和初期、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が訪伯経済使節団長としてブラジルに渡るなどした。その功績により、1935年ブラジルコメンダトール勲章。
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[編集] 経歴
1866年、美濃国加納藩(現岐阜県岐阜市加納)で田中時言の三男として生まれ、平生家の養子となる。1879年旧制岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)入学も中退し上京、1881年東京外国語学校(のちの一高の源流、及び現東京外国語大学の前身)入学、1890年高等商業学校(現一橋大学)を首席で卒業。1937年如水会理事長。
1890年高等商業学校付属主計学校助教諭、1893年兵庫県立神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)校長。
1894年東京海上保険入社、1917年同社専務取締役、1933年川崎造船所(現川崎重工業)社長、1937年日本製鉄会長、1938年日本鉄鋼連盟会長、1939年日鉄鉱業会長、1940年大日本産業報国会会長、日本製鉄社長、1941年日鉄鉱業社長、鉄鋼統制会会長、日本商工会議所顧問、1942年重要産業統制団体協議会会長。
1910年甲南幼稚園設立、1912年甲南尋常小学校設立、1918年甲南中学校設立、1923年旧制甲南高等学校(現甲南大学・甲南高等学校・中学校)設立、1926年甲南学園理事長、1931年甲南病院設立。
1935年貴族院議員、1936年広田弘毅内閣で文部大臣、1938年親任官待遇、1943年枢密顧問官。
灘購買組合(日本初の生協)の設立、大阪ロータリークラブの設立にも尽力。
[編集] カナモジ論
平生釟三郎はカナモジカイの会員であった。彼は1930年に講演をおこない、その講演をもとに『漢字廃止論』という本を出していた。
彼は1936年3月25日、広田弘毅内閣の文部大臣となった。5月の貴族院本会議において、『漢字廃止論』について質問されて、現在でも漢字廃止を信念としていることをあきらかにした(『官報』号外1936年5月10日「第六十九回帝国議会貴族院議事速記録第四号」の第30から36ページ、『官報』号外1936年5月12日「第六十九回帝国議会貴族院議事速記録第五号」の第46ページ)。
[編集] 関連
[編集] 参考文献
- 平生釟三郎『漢字廃止論』(第4版、カナモジカイ、1936年)
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