小坂憲次
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生年月日 | 1946年3月12日 |
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出生地 | 長野県長野市 |
出身校 | 慶應義塾大学 |
学位・資格 | 法学士 アマチュア無線の免許 |
前職 | 日本航空 自由民主党総裁秘書 |
所属委員会 内閣役職 |
災害対策特別委員会理事 (2007年 4月 2日現在) 教育再生に関する特別委員会理事 (2007年 4月18日現在) |
世襲 | 4世 曾祖父・小坂善之助 祖父・小坂順造 父・小坂善太郎、叔父・小坂徳三郎 |
選出選挙区 | 長野1区 |
当選回数 | 6回 |
所属党派 | 自由民主党(津島派) |
党役職 | 党国会対策筆頭副委員長 |
会館部屋番号 | 衆・第一議員会館220号室 |
ウェブサイト | 小坂憲次オフィシャルウェブサイト |
小坂 憲次(こさか けんじ、1946年3月12日 - )は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員(6期目)。 2006年9月に自民党の国会対策委員会筆頭副委員長に就任し現在に至る。所属派閥は津島派。
目次 |
[編集] 人物
- 北京オリンピックを支援する議員の会幹事。
- 日韓議員連盟常任幹事
[編集] 経歴
長野県長野市出身。1968年、日本航空に入社。1984年に退社し、長野市に帰り政治活動を開始。1986年に自由民主党総裁秘書となり、当時の中曽根康弘総裁に仕える。
1990年2月、父・善太郎の引退を受けて、衆議院議員選挙に自民党より出馬し初当選。以後連続6期当選。渡辺派に所属。衆議院議事進行係に就任した。1994年7月には、当時自民党を離党するか否かで迷っていた渡辺美智雄の先兵として自民党を離党し、新生党結成に参加した。その後は同じ長野県選出の羽田孜元首相の側近として、新進党、太陽党、民政党と行動を供にする。しかし、1998年の民主党結成には労働組合との政治理念の違いを理由に不参加。同年に社会民主党が連立内閣を離脱すると同時に自民党に復党。
2001年1月 に第2次森改造内閣の初代総務副大臣就任。同年4月26日の小泉内閣発足後も留任。その後は、2002年10月に衆議院財務金融常任委員長、2004年9月に自民党国会対策委員会筆頭副委員長など歴任し、2005年10月に第3次小泉改造内閣の文部科学大臣に就任し初入閣。 2006年9月に自民党の国会対策委員会筆頭副委員長に就任。その他、党政務調査会筆頭副会長、党電気通信調査会長、党長野県支部連合会長、党長野県第1選挙区支部長などを務める。
2007年8月、党国会対策筆頭副委員長に就任。
[編集] 小坂家
小坂家は信州の名門で曾祖父の小坂善之助は小坂財閥の創業者で政治家としても活躍。
祖父は信濃毎日新聞社主や電源開発総裁を歴任し、善之助同様政治家として活躍した小坂順造。大叔父は元信濃毎日新聞社長の小坂武雄。
父は元衆議院議員で外務大臣を務めた小坂善太郎で、叔父は元運輸大臣の小坂徳三郎。大叔母のはる(善之助の次女)は第13代日本銀行総裁の深井英五に嫁ぎ、その長女・結子(憲次の父・善太郎の従姉にあたる)は天体力学の権威で文化勲章受章者の萩原雄祐に嫁いだ。
元日本テレビ放送網社長で2005年現在日本テレビフットボールクラブの会長兼社長を務める萩原敏雄は萩原雄祐の三男で、憲次の又従兄。そして讀賣テレビ放送アナウンサーの萩原章嘉は萩原雄祐の孫で、憲次の又従兄の子息にあたる。
[編集] エピソード
- アマチュア無線家としても知られており、情報技術政策に精通している。また楽天社長・三木谷浩史とは親交が深い。
- 2006年4月7日の記者会見で、石原慎太郎東京都知事が国語力の低下を理由に小学校段階での英語必修化を「全くナンセンスだ」と批判。これに対して「日本語をしっかり勉強することが基本だが、柔軟な頭脳を持っている児童が英語に親しみ、英語教育に取り組むのは決して否定すべきことでない」と英語教育の必要性を訴えた。
- 2006年2月28日にトリノオリンピック・女子フィギアスケート金メダリスト荒川静香が文部科学省を訪問の際、「ロシア選手(イリーナ・スルツカヤ)がコケた時は喜びましたね」と発言。この模様はTBSテレビのブロードキャスターで放送され、メインキャスターの福留功男をはじめ番組出演者は文部科学大臣の発言としてはいかがなものかと批判。文部科学省にも批判が多数寄せられ、6日後の3月6日に荒川、スルツカヤ両選手に対して謝罪。その後、小坂は自身のホームページで、「ブロードキャスターでは、「コケタ~」発言のみが指摘されて、健闘を称える発言は放送されなかった」という趣旨の意見を掲載した(のちに、この文章は削除)。
- 2006年6月に、統一教会の集団結婚式(天宙平和連合祖国郷土還元日本大会)に祝電を送った事実が報道され、小坂憲次事務所も祝電送付の事実を認めた。
- 第21回参議院議員通常選挙後の自民党代議士会で、選挙で大敗を喫した安倍晋三自民党総裁の目の前で「国民はピッチャーの交代を求めている」として総裁退陣を迫った(安倍おろし)。その後小坂は、園田博之らと反安倍色が鮮明な勉強会を旗揚げしたが、メンバーのほぼ全員が離党歴のある議員で、大きな広がりを見せることはなかった。
[編集] 著作
- 2006「認定こども園に関する国の指針(2006.8.4)-就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律の規定に基づき、文部科学大臣と厚生労働大臣とが協議して定める施設の設備及び運営に関する基準-」『保育情報』(358) 、 9~16ページ、川崎次郎と共著。
- 2002「これが小泉改革を救う道だ-民主党若手の経済再生構想への対抗提案-」『論座』(通号86)、68~77ページ、伊藤 達也、鴨下一郎らと共著。
[編集] 外部リンク
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