小坂善之助
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小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、1853年12月 - 1913年12月21日)は、長野県長野市生まれの政治家・実業家である。信濃毎日新聞の基礎を確立し長野県マスメディアの礎を築いた『長野県における新聞の父』である。
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[編集] 来歴・人物
嘉永6年(1853年)に水内郡里村山村(上水内郡になってから村山村、のち柳原村、現:長野市)に江戸時代代々里正(名主)をつとめた家に生を受ける。幼名を覚太と称し、若くして四代目善之助を襲名。以来政治家・実業家として活躍し1913年12月21日に8年前に発症した劇症の脳溢血が元で60歳で死去。生前の活躍は多岐に渡るため要約が不能。従って細かく分けて述べることにする。
[編集] 政治家として
1878年に故郷の里村山村の戸長(今でいうところの首長)に選ばれた事が政治家の道に進むキッカケとなる。1881年に上水内郡選出の長野県議会議員となり1883年には更級郡・埴科郡の郡長に抜擢され、次いで北安曇郡の郡長に抜擢され道路の改修と橋梁の建設に心血を注いだ。1890年の第1回衆議院議員総選挙で長野一区から衆議院議員に初当選し以降3期連続で当選。一旦政治活動から身を引くが1902年に政友会に入党、1904年の衆議院議員総選挙で4度目の当選を果たし復活する。しかし翌1905年6月15日に劇症の脳溢血で倒れたのを機に引退した。
[編集] 実業家として
1881年に信濃日報社の社主小野憶之進から経営に参画せよとの要請を受けたのを機に実業界にも顔を出す。1889年に信濃銀行を設立して頭取となり1897年には長野電灯会社を設立し長野市郊外の上水内郡茂管村(現:長野市)に水力発電所を建設して電力史の一ページを飾る。彼の実業家としての方針は「地域の発展に終生尽くす」であり実際日本勧業銀行(のちに第一銀行と合併して第一勧業銀行、現在は富士銀行・日本興業銀行と合併してみずほ銀行)が設立された際副総裁に推薦されたものの辞退していたほどであった。
[編集] 信濃毎日新聞の父として
小坂が歴史に名を残しているのはとにもかくにも信濃毎日新聞の基礎を確立したからである。
彼が経営に参画したのは上記の通りだが当時は題号が「信濃日報」でライバル紙「信濃毎日新報」との苛烈な販売合戦の影響から経営が悪化していた。そんな中で経営を引き受けたわけだが彼はライバル紙を吸収合併させ、信濃新聞社が発行する『信濃毎日新聞』として再刊行させるというアイディアで廃刊の危機を乗り越え、秩父事件で初の号外を刊行させるまでに回復させた。
1883年に経営の一切を岡本孝平に譲ってからは信濃毎日新聞の経営からは手を引くが1898年12月に岡本の後を受け二代目の株式会社社長に就任(1890年5月1日に株式会社として発足、初代社長は岡本だった)。山路愛山を初の主筆に迎えて編集の独立を確立。「社長といえども紙面に干渉せず」の方針で紙面の近代化を図った。
1902年に取締役の前島元助に社長の座を譲るが1904年(通算四代目として)社長に復帰。しかし劇症の脳溢血で倒れてからは1903年から取締役の長男小坂順造が社長代行として経営にあたるという状況が続き、1911年に回復しないまま順造に社長職を禅譲している。
1913年12月21日に逝去した際信濃毎日新聞は第二面を逝去の記事に当てていたがそれほど信濃毎日新聞にとってなくてはならない存在であったかが伺える。小坂善之助がなかったら信濃毎日新聞は存在しなかったといっても過言ではない。
[編集] 家族構成について
- 小坂順造(長男):信濃毎日新聞の社長・社主を勤め、日本発送電総裁・衆議院議員・貴族院議員を歴任。
- 小坂武雄(三男):信濃毎日新聞の社長を(公職追放によるブランクを含め)死去まで、信越放送顧問・長野放送相談役を勤めた。
- 小坂健介(孫、武雄の子):2007年現在、信濃毎日新聞社長。
- 深井はる(次女):第13代日本銀行総裁の深井英五と結婚。