浦野烋興
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浦野 烋興(うらの やすおき、1941年11月3日 - )は、日本の政治家。
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[編集] 概要
自由民主党所属(衆議院旧愛知4区)。自民党内では宮沢派に所属。 故浦野幸男元労働大臣の女婿。結婚前の旧姓は伊藤。
[編集] 経歴
- 1941年 愛知県西加茂郡猿投町(現・豊田市)に生まれる。
- 1964年 学習院大学政経学部経済学科卒業。警察官となり、警視庁に勤務。
- 1970年 警視庁を退職。愛知県に戻り、豊田通商に入社。
- 1975年 衆議院議員浦野幸男の長女和千代と結婚。
- 1976年 第34回衆議院議員総選挙で義父が6選。
- 1977年1月16日 義父が死去。
- 1977年 豊田通商において総務部総務課長に昇進したが、義父の後継者となるため退社し、政界へ。「浦野やすおき事務所」を設立し、選挙準備。上京し、自由民主党衆議院議員の秘書となる。
- 1979年10月7日 第35回衆議院議員総選挙に義父の地盤を継いで自由民主党公認で立候補しトップ当選を果たす。
- 1986年 第2次中曽根内閣第2次改造内閣の時外務政務次官に就任。
- 1986年3月3日~3月5日 福田赳夫・鹿野道彦・土井たか子・扇千景らとともに第2回人口と開発に関するアジア国会議員代表者会議に出席。
- 1987年 竹下内閣の時通商産業政務次官となる。
- 1995年8月8日 村山改造内閣において科学技術庁長官兼原子力委員会委員長に就任(初入閣)。
- 1995年8月14日 現職閣僚として靖国神社参拝。
- 1995年12月8日 高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏洩事故が発生し、日本原子力研究開発機構への指導を行う。
- 1995年12月11日 もんじゅの現場視察を行う。この際、事故を受けてマスコミ等で高速増殖炉開発計画の見直しが取り沙汰される中、計画を引き続き堅持する方針を示し、村山富市首相もこれに同意した。
- 1996年 オーストリア・ウィーンで開かれた第39回IAEA総会政府代表演説の一番目に演説を行う。
- 1996年10月20日 第41回衆議院議員総選挙で小選挙区でも比例区でも落選。政界引退を表明。
- 1998年7月12日 第18回参議院議員通常選挙でも落選。再び政界引退を表明。
[編集] 人物
- 労相を務めた義父ともども地元の全トヨタ労働組合連合会と良好な関係にあった。豊田通商OBでもあることからトヨタ自動車グループ企業社員の後援者が多く、全トヨタ労働組合連合会にとっては組織内議員ではなかったものの自民党側のパイプ役であった。このため自民党議員ながら労働組合関係者に顔が利いた。
- 警察官時代から柔道に勤しみ、黒帯である。
- 妻との間に一男一女があるが、いずれも政界には関わっていない。
[編集] 小選挙区制の下で
- 1994年の選挙制度改革によって衆議院議員選挙に小選挙区制が導入されると、これまで比較的楽な選挙を戦ってきた浦野を取り巻く状況は一変する。中選挙区制下の旧愛知4区の区割りが変更され、浦野の選挙区はトヨタ関連企業に勤務する有権者が多い愛知県11区となり、新進党に移った伊藤英成との一騎打ちに臨むことになったのである。迎えた1996年第41回衆議院議員総選挙では8万5千票と得票が伸びず、全トヨタ労連の組織票に支えられた伊藤に3万7千票の差をつけられて大敗。惜敗率69.5%となり、比例代表復活当選もならなかった。浦野は政界引退を表明したものの、年齢が若かったため自民党や後援会から慰留された。
- 豊田市幹部からも「豊田市には全トヨタ労連の議員と自民党の議員の二議席が必要」と国政復帰を求める声が上がった。
- 1998年、第18回参議院議員通常選挙に出馬を要請され愛知県選挙区から自民党公認で立候補。しかし自民党苦戦の流れの中、愛知県選挙区のもう一人の自民党公認候補で現職の大木浩と共倒れ落選。議席を獲得できず、政界引退を表明した。
- 1999年、引退を表明した加藤正一豊田市長の後継者に名前が挙がり、自民党・民主党などから2000年2月の豊田市長選挙出馬を要請されるも辞退。市長選には鈴木公平助役が立候補し当選。
- 2003年、第43回衆議院議員総選挙に際し自民党では民主党の組織票が強固な愛知県11区の候補者擁立が難航していたが、伊藤英成が引退を表明したこともあり「知名度や実績がある」候補として浦野の再出馬を要請した。しかし浦野は既に何度も政界引退を表明していることや健康状態等を理由に固辞。自民党は候補者を擁立できず、不戦敗となった。
[編集] 引退後
- 政界引退後は妻とともに自宅で読書や碁、野菜等の栽培をしながら過ごしているが、隠遁生活をしているわけではなく、豊田市四郷町下古屋自治区顧問や豊田市柔道会顧問を務め、引き続き地域のリーダーとなっている。
- 自邸敷地内に「道満さんの祠」(陰陽師蘆屋道満を祀る塚)があり、地域住民により毎年供養が行われ、自身も毎年祭礼の世話に当たっている。
- 中日新聞による引退後の取材では「選挙制度改革に翻弄され、政治家としては不完全燃焼だった」と語っている。
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