井上準之助
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濱口内閣の蔵相時代 |
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生年: | 1869年5月6日 |
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没年: | 1932年2月9日 |
職業: | 政治家、財政家 |
井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、大正~昭和初期の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。
目次 |
[編集] 来歴・人物
浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き、血盟団事件で暗殺される。
金輸出解禁政策は失敗であったが、当時としては異例の全国各地を歩いて国民に政策の理解を求めるPR活動を行うなどの真摯な態度や、当時の経済学において正統な経済のあり方とされた金本位制を維持しようとしたのは常識的判断であり世界恐慌の深刻さがそれを上回ったと擁護する向きもある。しかし、金融界の意向に配慮した旧平価解禁の強行やその後のドル買事件に際しては一転して金融界と過度な全面衝突を起こすなど、井上の政策判断の過ちによって一層の恐慌の深刻化と金輸出解禁の失敗を招いたとする意見もある。 夫人は、華族・毛利子爵家の出。子息、井上四郎は日銀理事を務めた。
[編集] 井上の経済政策
第一次大戦特需の冷え込みにより、高騰していた株価が急落し、また関東大震災の発生によって、大量の不良債権が深刻になっていた。井上蔵相はこの経済低迷の原因を構造問題の結果であり、経済を再生させるために財界整理と緊縮財政を実施することになる。
こうした清算主義の実現のために旧平価での金解禁が不可欠であると考え、積極的なデフレ政策を採り、1920年代には平均して1.6%の穏やかなデフレであったのが、一挙に10%を越えるデフレにまで落ち込み、井上財政は昭和恐慌の大きな原因の一つになった。
[編集] 略歴
- 明治2年(1869年):現在の大分県日田市大鶴町に造り酒屋を営む家に生まれる。教英中学中退[1]、上京後、成立学舎などを経て、第一高等中学校入学。
- 明治26年(1893年):東京帝国大学英法科入学
- 明治29年(1896年):東京帝大卒業後、日本銀行入行
- 大正2年(1913年):東京ゴルフクラブ創設
- 大正8年(1919年):日本銀行総裁就任(初の日本銀行生え抜き総裁)
- 大正13年(1924年):貴族院議員に勅選。財団法人東洋文庫の初代理事長に就任
- 昭和7年(1932年)2月9日:選挙運動中に血盟団員小沼正に暗殺される
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
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