三島彌太郎
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三島 彌太郎(みしま やたろう 慶應3年4月1日(1867年5月4日) - 大正8年(1919年)3月7日)は鹿児島県出身の日本の銀行家。子爵。三島通庸の長男であり、三島彌彦は弟。最初の妻は大山巌の娘信子、離別後四条隆謌侯爵の三女加根子と再婚。長男は三島通陽、娘梅子の夫は土方与志。
[編集] 経歴
鹿児島高麗町上の園(現・鹿児島市)出身。7歳のとき東京神田の小川町学校入学、その後すぐに同人社分校に通い、9歳のとき近藤真琴の塾で学ぶ。13歳のときに山形県師範学校へ。15歳のときに同校卒業し、17歳のとき駒場農学校入学。18歳のとき成績首位により官費生として渡米、西フィラデルフィア中学を経てマサチューセッツ農科大学(現・マサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、農政学を学ぶ。同大学卒業後、コーネル大学大学院で害虫学を学び修士の学位を受けるが、神経痛を発症し退学。
帰国後、1897年(明治30年)貴族院議員に当選し、桂太郎の後押しで貴族院最大会派研究会の代表者を務めて、桂の主唱する鉄道国有化を実現させた。また議員生活の傍ら金融業に深く関与。横浜正金銀行頭取を経て、1913年(大正2年)2月28日第8代日本銀行総裁に就任。日本で初めての市中銀行の預金金利協定の成立にも尽力した。第一次世界大戦戦中戦後の激務をこなすも、1919年(大正8年)急病により現職のまま逝去。
徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルでもある。
[編集] 参考文献
- 三島義温編『三島弥太郎の手紙―アメリカへ渡った明治初期の留学生』学生社、1994年
- 横田順彌『明治おもしろ博覧会』、西日本新聞社、1998年、168-171頁
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