寺内正毅
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寺內 正毅 (てらうち まさたけ) |
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在任期間 | 1916年10月9日 - 1918年9月29日 |
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生年月日 | 1852年2月24日 (嘉永5年2月5日) |
出生地 | 長州藩 (現・山口県山口市) |
出身校 | |
学位・資格・称号 | 伯爵 元帥 陸軍大将 従一位 勲一等旭日大綬章 功一級金鵄勲章 |
前職 | 朝鮮総督 |
世襲の有無 | 無 |
選挙区 | |
当選回数 | |
党派 | |
没年月日 | 1919年(大正8年)11月3日 |
寺内 正毅(てらうち まさたけ、嘉永5年2月5日(1852年2月24日) - 大正8年(1919年)11月3日)は、日本の陸軍軍人(元帥)、政治家。第18代内閣総理大臣(在任: 大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)9月29日)。元帥陸軍大将従一位勲一等功一級伯爵。
目次 |
[編集] 経歴
1852年、現在の山口市に長州藩士宇多田正輔の三男として生まれる。後に母方の寺内家を継いだ。
明治元年(1868年)、御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦した。その後山田顕義の推薦によって陸軍士官として累進し、西南戦争最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。
閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学(駐在武官を兼務)後、明治20年(1887年)陸軍士官学校長に就任。日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を務めた。明治31年(1898年)教育総監、同33年(1900年)参謀次長などを勤め、第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相をつとめた[1]。明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将・子爵に相次いで任じられた。
明治42年(1909年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監曽禰荒助(在任: 1909年6月14日 - 1910年5月)が辞職すると同43年(1910年)5月30日陸相のまま第3代韓国統監となり、同年8月22日の日韓併合を断行した。10月1日、朝鮮総督府が設置されると陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任し、武断政治によって朝鮮支配を確立した。なお、陸相兼任は第二次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。朝鮮総督は天皇にのみ直隷し、朝鮮における軍事権、立法権、行政権、司法権を掌握する絶大な権限をもち、寺内は憲兵に警察を兼務させる憲兵警察制度を創始した。むき出しの軍事力による支配が武断政治の要諦であった。この功績によって明治44年(1911年)に伯爵に叙せられる。
大正5年(1916年)6月24日、元帥。10月16日に総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任。朝鮮総督としての功績を認められてのことである。寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。時は第一次世界大戦の最中であり、寺内首相は大正7年(1918年)8月2日シベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって9月21日総辞職した。だが、この内閣末期には既に病気がちであり、翌年に病没する。
[編集] 備忘録
- 西南戦争で右手を負傷して以来、挙手の敬礼を左手によって行っていた(俗に左敬礼と呼ばれている)。
- 陸軍士官学校校長時は、徹底的に生徒の管理を行い、仕事を終えても、職場と目と鼻の先にある自宅から望遠鏡で生徒の行動を見ていた。士官学校の表札がピカピカに磨かれていないことをひどく叱ったとされる。
- ゴーストップ事件等に関係した元帥陸軍大将寺内寿一は息子。皇族以外で、日本の陸海軍で親子二代の元帥は寺内親子だけである。
- 韓国併合の祝宴で「小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と得意満面に詠んだという。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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