寺内寿一
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寺内 寿一(てらうち ひさいち、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日は、日本の陸軍軍人、元帥陸軍大将、政治家。伯爵。第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。山口県出身。
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[編集] 経歴
東高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、成城学校を経て
- 1899年(明治32年)11月 陸軍士官学校(11期)卒業
- 1904年(明治37年)3月 日露戦争に出征
- 1909年(明治42年)12月 陸軍大学校(21期)を卒業
- 1919年(大正8年)7月 大佐に昇進
- 1919年(大正8年)12月 伯爵を襲爵
- 1924年(大正13年)2月 少将に昇進
- 1926年(大正15年)9月 山陽本線特急列車脱線事故に遭遇。34名も死亡した事故であったが、寺内は無傷であった。
- 1927年(昭和2年) 朝鮮軍参謀長
- 1929年(昭和4年)8月 中将に昇進
- 1930年(昭和5年) 第5師団長
- 1932年(昭和7年)1月9日 第4師団長
- 1933年(昭和8年)6月17日 ゴーストップ事件
- 1934年(昭和9年) 台湾軍司令官
- 1935年(昭和10年)10月 大将に昇進
- 1936年(昭和11年)3月9日 広田内閣において陸軍大臣に就任
- 1937年(昭和12年)1月 政友会の代議士浜田国松と腹切り問答
- 1937年(昭和12年)2月 教育総監
- 1937年(昭和12年)8月 北支那方面軍司令官
- 1938年(昭和13年) 勲一等旭日大綬章
- 1941年(昭和16年)11月 南方軍総司令官
- 1943年(昭和18年)6月 元帥に昇進
- 1945年(昭和20年)5月10日 ビルマで降服
- 1946年(昭和21年) シンガポールのレンガムで拘留中に病死
[編集] 性格
二・二六事件の後、陸相として皇道派の追放(粛軍)を主導し、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍部の影響力を増大させている。また、「腹切り問答」後に議会解散を要求して結果的に広田内閣を総辞職に追い込んでいる。さらに元帥就任後は無謀なインパール作戦を強行して失敗、ルソン島からレイテ島への作戦転換も多大の犠牲者を出した。
また、山田風太郎の著書『人間臨終図巻』の寺内を扱った項目によると、寺内と永井荷風とは同窓であったが、いわゆる軟派な学生であった永井の存在を看過出来なかった寺内は、在学中に永井に鉄拳制裁を加えたことがあったという。
皇族以外で陸・海軍を通して唯一、親子2代で元帥になった。また、東条英機内閣瓦解後の後継首班に目されたが、南方軍司令官として前線指揮官の寺内は動かせないということで、朝鮮総督であった小磯国昭に大命降下することになったが、状況によっては最初の親子2代の内閣総理大臣の可能性もあった。しかし、これは上記に記す作戦・参謀の失敗等を考えると、実力によるものではなく、親の七光り的な要素が強い。
また、育ちがいいためか、細密な気配りができ下士官兵に人気があった。ただ、幼少時は同級生に鉄拳を振るうなど荒っぽい性格だったとも言われている。
ホテルのマネージャーをやってみたいと語ったこともある。なお、最後の軍歌『壮行譜』は寺内が収監された時に寺内に贈られた曲である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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