伏見宮博恭王
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伏見宮博恭王 | |
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1875年10月16日 - 1946年8月16日 | |
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生誕地 | 東京 |
死没地 | 東京 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
最終階級 | 元帥海軍大将 |
戦闘 | 日露戦争 |
賞罰 | 大勲位・功一級 |
伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう、明治8年(1875年)10月16日 - 昭和21年(1946年)8月16日)は、日本の皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将・大勲位・功一級。初め名を愛賢(なるかた)王といい、華頂宮相続に当り名を博恭と改めた。
日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。また艦長や艦隊司令官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。
目次 |
[編集] 生涯
華頂宮博厚親王薨去に際して、華頂宮の家督を継承し名を博恭と改める。当初実系である伏見宮の家督は弟宮の邦芳王(くにかおう)が継承するはずであったが、邦芳王が病弱との理由から伏見宮に復籍し貞愛親王の継嗣となった。
昭和6年末(1932年)、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、昭和7年(1932年)2月、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である軍令部長に就任させた。海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化について「私の在任中でなければできまい。是非ともやれ」と軍令部次長に指示するなど、皇族の威光を利用して艦隊派寄りの政策を推進し、日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持っており、特攻戦術も推進した[要出典]。
海軍軍令部長を、陸軍「参謀総長」と対応させて「軍令部総長」(「海軍」とつけない)改めたのも伏見軍令部総長宮[1]の時代である。北原白秋作詞、海軍軍楽隊作曲による国民歌「伏見軍令部總長宮を讃え奉る」も作られている。
[編集] 家族
元征夷大将軍・公爵の徳川慶喜九女経子を妃とし、王子も海軍軍人となる。第一王子博義王は海軍大佐に昇り、一条実輝公爵の娘朝子と結婚するが、昭和13年10月に死亡する。第二王子博忠王は博恭王の後を継ぎ華頂宮を継承し海軍中尉となるが、大正13年3月に若くして死亡し、華頂宮は断絶。第三王子博信王は大正15年に華頂姓を賜り臣籍降下し、華頂博信侯爵となり兄王の華頂宮の祭祀を継承し海軍大佐に至る。第四王子博英王は伏見姓を賜り臣籍降下し伏見博英伯爵となり階級は海軍少佐になるが、昭和18年8月に戦死。
博恭王の三人の王女恭子女王、敦子女王、知子女王はそれぞれ侯爵浅野長武、伯爵清棲幸保、久邇宮朝融王と結婚する。なお伯爵清棲幸保は真田幸民伯爵の三男で伏見宮邦家親王王子の清棲家教伯爵の養子。
[編集] 評価
当時の皇族軍人は実質的権限を発揮しないのが通例になっていたが、実戦・実務経験豊富な博恭王は、お飾りの皇族軍人ではなく「潮気のある」一流の海軍軍人としての風格を持っていた。自ら率先して最前線に立ち、常に部下将兵を鼓舞し苦楽を共にするのを厭わない姿勢や、操艦の名手として下関海峡のような「船の難所」でも難無く艦を操るその実力は海軍内でも非常に尊敬されていた。
海軍での生活や習慣が身に付いていた博恭王には皇族らしからぬエピソードが残っている。入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが普通であるが、博恭王は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞り、パンパンと払い伸ばしてから体を拭いていたという。下着の洗濯などは自ら行うこともあり、周りの者が「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。また嶋田繁太郎の日記によると、艦内では握り飯と漬物という簡易な食事を好みよく食していたという。
軍令部総長として絶大な権力をふるい、所謂条約派・欧米協調派を海軍中央から追放し、太平洋戦争開戦の遠因を作った事については、戦後歴史家や戦史研究家から厳しい評価を受けている。博恭王自身は「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という考えを持っていたとされ、[2]「早期決戦・早期和平」という考え方は、欧米協調派であった山本五十六に近い物があったといえる。
井上成美は軍務局第1課長時代には、軍令部による軍令部令及び省部互渉規定改正案に職を賭して激しく抵抗した。その結果軍務局第1課長を追われ、井上が横須賀鎮守府附として待命予備役編入の辞令を待つなかば左遷状態の時に、当時練習戦艦であった比叡艦長の辞令を得ている。伏見宮軍令部長が敵であったはずの井上に対し、「男としてまた軍人として、まさにああでなければならない。自己の主張、信念に忠実な点は見上げたものである。次は良いポストに就けてやるとよい」と称賛したことが原因であるという。
[編集] 経歴
- 明治8年(1875年)10月16日、誕生
- 明治16年(1883年)
- 4月23日、華頂宮継承
- 6月11日、博恭と改名
- 明治19年(1886年)4月5日、海軍兵学校予科生徒
- 明治22年(1889年)
- 9月17日、海軍兵学校退校
- 9月28日、ドイツ留学
- 明治24年(1891年)10月5日、ドイツ海軍兵学校通学
- 明治25年(1892年)4月8日、ドイツ海軍兵学校入校
- 明治26年(1893年)3月30日、海軍少尉候補生
- 明治27年(1894年)
- 4月20日、海軍少尉
- 10月3日、ドイツ海軍大学校通学
- 明治28年(1895年)
- 明治29年(1896年)4月20日、巡洋艦「松島」乗組
- 明治30年(1897年)
- 明治31年(1898年)11月14日、第一王女恭子女王誕生
- 明治32年(1899年)8月26日、装甲巡洋艦「浅間」分隊長
- 明治33年(1900年)10月13日、砲術練習所教官兼分隊長
- 明治34年(1901年)6月10日、装甲巡洋艦「出雲」分隊長
- 明治35年(1902年)
- 明治36年(1903年)
- 明治37年(1904年)
- 明治38年(1905年)
- 明治39年(1906年)
- 明治40年(1907年)
- 2月15日、海軍大学校選科学生
- 5月18日、第三王女知子女王誕生
- 12月18日、イギリス駐在
- 明治43年(1910年)
- 明治45年(1912年)
- 大正2年(1913年)8月31日、海軍少将・横須賀鎮守府艦隊司令官
- 大正3年(1914年)
- 8月18日、海軍大学校長
- 8月29日、兼軍令部出仕
- 大正4年(1915年)12月13日、第2戦隊司令官
- 大正5年(1916年)12月1日、海軍中将・将官会議議員・軍令部出仕
- 大正7年(1918年)5月29日、恭子女王、侯爵浅野長武に降嫁
- 大正8年(1919年)
- 大正9年(1920年)12月1日、軍事参議官
- 大正11年(1922年)
- 8月、社団法人帝国水難救済会総裁
- 12月1日、海軍大将
- 大正12年(1923年)
- 2月4日、父・貞愛親王薨去し伏見宮を継承する
- 10月27日、議定官
- 大正13年(1924年)
- 2月5日、佐世保鎮守府司令長官
- 3月24日、博忠王薨去
- 大正14年(1924年)
- 大正15年(1925年)
- 10月27日、敦子女王、伯爵清棲幸保と成婚
- 12月7日、博信王、臣籍降下し華頂博信侯爵
- 昭和7年(1932年)
- 昭和8年(1933年)10月1日、軍令部総長
- 昭和9年(1934年)4月29日、大勲位菊花章頚飾受章
- 昭和11年(1936年)
- 2月24日、敦子女王(清棲敦子)薨去
- 4月1日、博英王臣籍降下し伏見博英伯爵
- 昭和13年(1938年)10月19日、博義王薨去
- 昭和14年(1939年)8月18日、経子妃薨去
- 昭和16年(1941年)4月9日、議定官・軍令部総長辞職
- 昭和17年(1942年)4月4日、功一級金鵄勲章受章
- 昭和20年(1945年)11月30日、退役
- 昭和21年(1946年)3月、社団法人帝国水難救済会総裁を退任
- 昭和21年(1946年)8月16日、薨去
[編集] リンク
- 伏見宮家御家族の写真アルバムhttp://miyake.yaekumo.com/Fushimi.html
- 国民歌「伏見軍令部總長宮を讃え奉る」http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/fushimi.html
[編集] 脚注
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