永野修身
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永野修身 | |
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1880年6月15日 - 1947年1月5日 | |
元帥海軍大将 永野修身 |
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生誕地 | 高知県 |
死没地 | 東京都 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1900年 - 1947年 |
最終階級 | 元帥海軍大将 |
指揮 | 第三戦隊司令官 第一遣外艦隊司令官 練習艦隊司令官 横須賀鎮守府司令長官 海軍大臣 第一艦隊司令長官 連合艦隊司令長官 軍令部総長 |
戦闘 | 日露戦争 太平洋戦争 |
賞罰 | 正三位・勲一等・功五級 |
廟 | 靖国神社 |
永野 修身(ながの おさみ、1880年6月15日 - 1947年1月5日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校28期。最終階級は元帥海軍大将・正三位・勲一等・功五級。A級戦犯として東京裁判中に獄中死。1978年に靖国神社に合祀される。
目次 |
[編集] 経歴
高知県士族永野春吉の四男として誕生。山下奉文や参謀本部次長であった沢田茂と同じく、藩主・山内豊範が明治初年に設けた高知海南中学を卒業。1900年、海軍兵学校を105人中次席(首席の波多野貞夫中将が海軍火薬廠の技官に転向したので事実上首席)で卒業した後、海軍大学校に入学・卒業。
大尉時代、日露戦争には旅順工作部員名義で重砲隊に所属。旅順港に逼塞するロシア太平洋艦隊の撃滅に参加した。艦隊を直接狙う高地を占領できなかったため、山越えの目算砲撃を強いられた。この時、永野は着弾観測と照準補正連絡のために最前線で陣頭指揮を執り、砲撃を成功させた。重砲隊指揮官の黒井悌次郎大佐(のち大将)には部下の手柄を横取りする悪癖があり当初は永野の実績も伝えられなかったが、引退後は「永野君の砲座が最もよく撃った」と永野を絶賛するようになった。
戦後、巡洋艦厳島の砲術長になる。1908年の練習航海で僚艦の松島が馬公港で爆沈した際にパニックに陥った港内は混乱を極めた。永野は冷静に短艇を派遣し、真っ先に救助に着手した。
1910年に海軍少佐に昇任した後、1913年から1915年まで米国駐在武官としてハーバード大学に留学。1920年から1922年まで再び在米国大使館付武官として米国駐在、ワシントン会議にも全権随員として参加。
1923年、海軍少将。軍令部第三班長や練習艦隊司令官を歴任。1927年に海軍中将となった後は海軍兵学校長・軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官を務めた。
兵学校長時代は自学自習を骨子とするダルトン式教育の採用や体罰禁止など、抜本的な教育改革を推進した。ダルトン教育の導入は永野が軍令部次長に転じた後に消滅したが、太平洋戦争に駆逐艦長・潜水艦長・隊司令として活躍した55期(吉田俊雄によれば58期から60期)を中心とする永野の教え子たちからは、永野校長時代の兵学校の校風を絶賛する声が大きい。一方、他律的な型嵌め教育を受けていない為に任官後他の期の士官からは理屈っぽく意見が多いと評判が悪かったと言う。
1935年12月からのロンドン軍縮会議には全権として出席し、翌年日本の脱退を通告する。1936年3月9日、広田弘毅内閣の海軍大臣に就任し、「国策の基準」の策定を推進する。この時に山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢している。
1937年2月2日、連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)となり、海上勤務に出る。後に再び軍事参議官。1941年4月9日、伏見宮博恭王の後任として軍令部総長に就任(在任期間は1944年2月21日まで)。開戦前には病気を理由に辞職を考えたが後任に避戦派の百武源吾が就任する恐れがあったため、開戦派の圧力を受けて続投した。石油が枯渇するのを恐れて対米早期開戦を主張し太平洋戦争勃発の一因をつくった(詳細は下記)。また、その手段として連合艦隊司令長官となっていた山本五十六が真珠湾攻撃作戦を薦めていった際には、投機性の高さを理由に軍令部の課員がこぞって反対する中、永野はこれを許可した。
1943年6月21日、元帥。永野自身は予想外の名誉に感激したという。もっとも、海軍省と軍令部の一元化を推進する嶋田繁太郎海軍大臣が永野から軍令部総長の座を禅譲してもらうためのご祝儀とする見方がある。
1944年2月21日、トラック島空襲の余波で陸海軍統帥部(軍令部・参謀本部)両総長の更迭が断行され、以後陸海軍共に軍政を司る大臣が軍令の長を兼任することとなった。これにより軍令部総長を辞す。しかし、大井篤によれば同時に辞任した陸軍の杉山元参謀総長と合わせ、既に長老ぶりの弊害を自認していたかのような状態だったという[1]。副官の吉田俊雄にも「年をとり過ぎていたよ」と述べた。
戦後、アメリカをはじめとする戦勝国によってA級戦犯に指定され、極東国際軍事裁判に出廷するが裁判途中の1947年1月5日、肺炎のため巣鴨プリズン内で死去した。享年66。
帝国海軍の歴史上、一人で海軍三顕職(海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長)を全て経験したのは永野のみである。
[編集] エピソードなど
[編集] 軍令部総長就任頃まで
吉田俊雄によると若い頃は侠気に満ち、清水次郎長に弟子入りしようとした。海軍内でも常に指揮官先頭で、創意と意欲の塊と言われていたという。また、後年のぶっきらぼうと評された発言に通じる屈託の無さなどは、秀才型の官僚軍人的な海軍大将たちとは肌合いが違っていたという。
新物好きでも有名で、ダルトン式教育の他、海相に就任した際には、海軍の制度と人事を刷新すると意気込んで部下にその検討をさせた。高木惣吉は軍務局でこの時の制度調査会に参加させられており、岡敬純、神重徳等と共に作業にあたり11月に兵備局の新設や海兵、機校の統一などを提言した。また、高木は山本五十六を無理矢理海軍次官に起用したことは評価している。ただし腹切り問答の際には民政党と陸軍の仲裁を試みたものの陸軍は国会を解散に追い込もうと意気込んでいたため先手を打たれ、広田内閣は総辞職に追い込まれると共に、永野は就任10ヶ月余りで連合艦隊司令長官に転出した。高木はこれを「大ブロシキのひろげっぱなしで連合艦隊司令長官に逃げ出した」と評している。
制度改革も提言の際に守旧派の反対に遭ったまま進展は無いままであったため失敗した。しかし、1940年に高田利種少将が制度改革に手をつけた際にはこの時の経験を参考とし、類似した内容の改革が行なわれた[2]。
軍令部総長に着任すると実務は次長以下に任せた。
[編集] 帝国国策遂行要領他での強い開戦への姿勢について
1941年6月初旬は日蘭会商との石油買い入れ交渉が暗礁に乗り上げ、独ソ戦必定の情報も届くなど、日本にとっては受難の時であった。そのような中、11日の連絡懇談会で杉山元は南部仏印進駐に慎重な姿勢を示したが、それに対して永野は「仏印、タイに兵力行使の基地を造ることは必要である。これを妨害するものは、断乎として打ってよろしい。叩く必要のある場合には叩く」と述べ周囲は呆気にとられた。これを陸軍参謀本部が記録していた大本営機密戦争日誌は、「永野総長はときどき突拍子もない発言をする」と評し、吉田俊雄はこの評を採り上げ「随分とみくびられたものである」と述べた。吉田は、アメリカの国力を知るからこそ、その戦力が強大化しないうちにタイミングを見計らった行動をとるべきと考えていた旨を推測している[3]。この時期以後、永野は開戦派的な発言が目立つようになる。
永野は渡米経験を含め海外勤務の経験が豊富であり、アメリカの底力を良く知っていた。従って、この種の強い開戦決意の姿勢は元来からのものではなく、亀井によれば上記のように1941年6月頃から表出してきたものであったという。吉田、亀井等によればこれには(1)「バスに乗り遅れるな」といった言葉に代表される欧州の戦局と日独伊三国軍事同盟などの国際関係、(2)軍令部内の作戦課の意向と詳細な分析結果、(3)陸軍との調整役として重宝され、その結果大陸での駐兵を譲らない陸軍強硬派の影響を受けていたとされる海軍省軍務局の石川信吾やドイツ駐在組(或いは渡米経験のない高級士官全般)の報告、(4)それらによる下からの突き上げ、などが影響しており、奉答の際も部下の用意した書面を読み上げている際と、永野個人の意思で述べている際とではニュアンスが大きく違っていたこともあった。また、国内での軍事革命への胎動を警戒していたと言う[3][4][5]。
1941年7月のアメリカの対日全面禁輸決定の頃の7月30日の上奏では、戦争決意について述べたにもかかわらず、勝算を問われ、永野は自己の見解として「書類には持久戦でも勝算ありと書いてありますが、日本海海戦のような大勝はもちろん、勝てるかどうかも分かりません」と述べ、悲観的な見通しを示した。そのために昭和天皇の目には永野は余り信頼できない人物に映り、永野も信任を得ていない旨を自覚していたと言う。この原因には健康状態が優れないこともあり、永野(と海軍大臣であった及川)の更迭が秋口まで水面下で画策され、首相の近衛文麿、岡田啓介などがそれを支持した。そうした密議に関わった豊田貞次郎は軍令部総長が国策に関わるのは大本営政府連絡会議のときだけで閣議への出席はしない事を示し、「海相さえしっかりしていれば総長など物の数ではない」と述べ海相更迭を重視したが、実際は統帥権の独立により総長の政治的影響は大きいものがあった。結局永野に総長の座を禅譲した伏見宮博恭王の了解を取り付ける見込みがたちそうにないことや軍令承行の制約などから、総長・海相更迭案は共に消える事となった[5]。
8月頃には陸軍の北進論は完全に影をひそめ、対米英欄開戦を視野に入れた『帝国国策遂行要領』が陸海軍中央の折衝を重ねて起草され、1941年9月3日、大本営政府連絡会議にて決定された。この時期、永野は開戦派であり、会議の冒頭で提案理由を次のように述べた。
- 「帝国は各般の方面において物が減りつつあり、すなわちやせつつあり。これに反し敵側は段々強くなりつつあり。時を経れば帝国はいよいよやせて足腰立たぬ。また外交によってやるのは忍ぶ限りは忍ぶが、適当の時機に見込みをつけねばならぬ。到底外交の見込みなき時、戦を避け得ざる時になれば早く決意を要する。今なれば戦勝のチャンスあることを確信するも、この機は時と共になくなるを虞れる。戦争については海軍は長期短期二様に考える。多分長期になると思う。従って長期の覚悟が必要だ。敵が速戦即決に来ることは希望する所にして、その場合は我近海において決戦をやり、相当の勝算があると見込んで居る。しかし戦争はそれで終わるとは思わぬ、長期戦となるべし。この場合も戦勝の成果を利用し、長期戦に対応するが有利と思う。これに反し決戦なく長期戦となれば苦痛だ。特に物資が欠乏するので之を獲得せざれば長期戦は成立せず。物資を取ることと戦略要点を取ることにより、不敗の備をなすことが大切だ。敵に王手と行く手段はない。しかし王手がないとしても、国際情勢の変化により取るべき手段はあるだろう。要するに国軍としては、非常に窮境に陥らぬ立場に立つこと、また開戦時機を我方で定め、先制を占める外なし、これによって勇往邁進する以外に手がない」[6]
その後9月6日の御前会議にて上記『帝国国策遂行要領』は付議され採択されたが、その際、昭和天皇は杉山の奉答を聞いて立腹した。その際、永野は例え話を交えて次のように発言し、天皇をなだめたとされる。吉田によれば永野のとっさの例え話は永野が海相であった時代から有名であったと言う。
- 「時機を逸して数年の後に自滅するか、それとも今のうちに国運を引き戻すか、医師の手術を例に申上げれば、まだ、七、八分の見込みがあるうちに最後の決心をしなければなりませぬ。相当の心配はあっても、この大病を治すには大決心を以て国難排除を決意する外はない。思い切るときは思い切らねばならぬと思います。」
天皇が「絶対に勝てるか?」と尋ねた際には
- 「絶対とは申し兼ねます。事は単に人の力だけでなく、天の力もあり、算があればやらなければなりませぬ。必ず勝つかときかれても奉答出来かねますが、全力を尽くして邁進する外はなかるべし。外交で対米妥結といっても、一年や二年限りの平和では駄目で、少くも十年、二十年でなければなりませぬ。一年や二年の平和では、第一国民が失望落胆すべし」と述べたという[7]。
この際、枢密院議長原嘉道その他から、「二年以後のことはわからないでは明瞭を欠く。何かもっと具体的に言えぬか」との指摘がなされたが、永野は同じ言葉を繰り返すのみであったと言う。亀井宏はこれを「韜晦するつもりはなく、彼独特の無駄をはぶいた簡潔な表現であって、当人としたらかけ値のないギリギリのところを明かしたつもりであったろう」と評した[4]。
一方、大井篤は戦後、この発言について「わからぬ」という点が曖昧であり、「アイマイな言葉しかあの際使えなかたっとしても、他の方法で「二年以後は負け戦になる」ことは説明すべきであった」と評した(ただし大井は御前会議の日付を9月8日としている)[8]。
会議後、永野は統帥部を代表する形で次のように「亡国」という言葉を交えて語ったという。
- 「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」[4]
吉田によれば永野個人は軍人は極力政治に関わるべきでないと言う考えを持っており、高度な政治性を持ちえる海軍三顕職にあってもそれは変わらなかったという。更に、吉田は永野が長期戦を第一次大戦のような限定戦争と甘く見ていたと推測している。
[編集] 真珠湾攻撃について
昭和天皇から真珠湾攻撃について「どうして12月8日に真珠湾を攻撃するのか?」と尋ねられた際、ハワイ現地時間では日曜日であるにも関わらず永野は「月曜の朝ですと、日曜日にアメリカ軍将兵は遊び疲れてぐったりしていますので」と返答したことから、永野は海軍部内で「ぐったり大将」とあだ名されたという(阿川弘之『山本五十六 下』)。一方、実松譲は著書にて12月2日に参内しZ作戦他の作戦開始日を12月8日とする裁可を得た際に次のように述べたと書いており、若干の食い違いも見られる。
- 「武力発動の時機を十二月八日と予定しました主なる理由は、月齢と曜日との関係に因るもので御座いまして、陸海軍とも航空第一撃の実施を実施を容易にし且つ効果あらしめますためには、夜半より日出頃まで月のあります月齢二十日付近の月夜を適当と致します。また海軍機動部隊のハワイ空襲には、米艦艇の真珠湾在泊が比較的多く且つその休養日たる日曜日を有利と致しますので、ハワイ方面の日曜日にして月齢十九日たる十二月八日を選定致した次第で御座います。もちろん八日は東洋におきましては月曜日となりますが、機動部隊の奇襲に重点を置きました次第で御座います。・・・」[9]
また、事前には「伝統的戦術」に固執し真珠湾攻撃に反対していたが、「大戦果」を耳にして一転気を良くし「戦争はやってみなければわからぬものだ」と語ったという。一方、吉田俊雄は、ハワイ奇襲は南方進攻と連動した第1段作戦であって、第2段作戦では従来型の艦隊決戦を行なうつもりであり、研究の第一人者が自信をもっていたからこそ認めた旨を述べた[3]。
[編集] その後
戦中(特に軍令部総長時代)は、実務は次長以下に任せ、戦死者の墓碑銘を書く日が多かったと言われている。
ただし、1943年9月、陸軍の押しで絶対国防圏構想が陸海統帥部の間で纏まろうとしていた際(同30日御前会議で裁可)には、参内した折、同構想の後方要線の防備が手付かずであることを理由に、従来通りマーシャル沖での決戦方針を堅持することを主張した(ソロモンに大量の戦力をつぎ込んでいた事もあって、絶対国防圏構想への反発は古賀峯一連合艦隊司令長官などをはじめこの時期の海軍内では一般的な見方のひとつであった)。昭和天皇は永野の意見を陸軍との調整が取れていないものとみなし、それまで陸海軍で会議を重ねた事を指して「なんのために、あれだけやったのか」と立腹した[3]。
戦後アメリカ戦略爆撃調査団が永野に質問を行なった際、その中には潜水艦の用兵に関するものもあった。永野は戦争中海軍の軍令の最高責任者を長く努めたにも関わらず「私は潜水艦については何も知りません」と陳述した。吉田俊雄は「信じられないような答え」と評した[10]。
居眠りの名人として知られ、会議中でも目を盗んではウトウトとうたた寝をしていたと云う。あまりにも居眠りが多く、総長時代には目から出血することもあり、1941年、南遣艦隊司令長官として出征する平田昇中将の歓送会で記憶力減退や職務について自嘲的な発言をしている[5]。周囲には、歳の離れた若い妻をもらったせいだと揶揄する声もあった。
私生活は家庭に恵まれず、次々と妻、子息を病気・空襲で亡くした。結婚は4回、戦後まで生存した子どもは5名である。4回目に結婚した京子夫人は永野の獄死直後に、脳出血により病没している。墓は東京都世田谷区九品仏と高知県高知市筆山(分骨)にある。九品仏浄真寺は浄土宗の寺であるが永野本人は神道信者として埋葬されている。
[編集] 評価
永野の評価に関して、吉田俊雄は下記のように評価が2つに分かれている旨を述べた。
- 艦隊長官など、幕僚組織に担がれるのにのっかり、悠然としていればよいポストでは評判がよい
- 緊迫した時代の軍令部総長として自身でリーダーシップを取り、主体的に行動しなければならない場面では言う事がくるくる変わり、頼りなく悪評が増える
また吉田によれば、永野の下で作戦部長として働いた事のある中沢佑は、普段は部下に委細を任せ責任を取るような政将であったことを絶賛しているという。吉田自身は是々非々の評価を行っているが、指導力の不足と開戦への経緯については「責任回避」「ナリユキ任せ」として、昭和天皇や山本五十六などを除いた他の首脳部一同と同様に厳しく批判している。
亀井宏は「海軍部内のイケイケ・ムードを抑えることをせず、むしろそれにのっかって、開戦に難色を示さなかったというところから、どちらかというと軽く見られている」と指摘しつつ、当時の海軍将官と比べ特別劣っていたと言う事実は無いことや、ぶっきらぼうな物言いで損した面、永野以外でも統帥部の頂点にいた人物が、戦争に反対することは不可能であった旨を述べ、永野に同情的である。一方で上記の諸処の当事者、評者に見られるように批判的な見解も多い。
[編集] 年譜
- 1900年12月13日 - 海軍兵学校卒業(28期)。同期に、左近司政三。
- 1902年1月18日 - 海軍少尉に任官。
- 1903年9月26日 - 海軍中尉に進級。
- 1905年1月12日 - 海軍大尉に進級。
- 1909年5月25日 - 海大甲種学生
- 1910年12月1日 - 海軍少佐に進級。
- 1913年1月10日 - アメリカ駐在(ハーバード大学留学)。
- 1914年12月1日 - 海軍中佐に進級。
- 1915年5月 - 日進艦長。
- 1918年10月1日 - 海軍大佐に進級。海軍省人事局第一課長。
- 1919年11月1日 - 防護巡洋艦平戸艦長。
- 1920年12月1日 - 在アメリカ合衆国大使館付武官。
- 1921年10月7日 - ワシントン会議全権随員。
- 1923年12月1日 - 海軍少将に進級。
- 1924年
- 1925年4月20日 - 第一遣外艦隊司令官
- 1926年 - 軍令部出仕
- 1927年
- 1928年12月10日 - 海軍兵学校校長。
- 1930年6月10日 - 軍令部次長
- 1931年12月9日 - ジュネーブ会議全権。
- 1933年11月15日 - 横須賀鎮守府司令長官。
- 1934年
- 1935年11月4日 - ロンドン会議全権。
- 1936年3月9日 - 海軍大臣を拝命。
- 1937年2月2日 - 連合艦隊司令長官 兼 第一艦隊司令長官。
- 1941年4月9日 - 軍令部総長。
- 1942年 興亜工業大学の顧問に就任
- 1943年6月21日 - 元帥。
- 1944年2月21日 - 軍令部総長辞職。
[編集] 脚注
- ^ 大井篤『海上護衛戦』「15 トラック異変とその波紋」(初出1953年、以後数回に渡り出版社を変え再版)
- ^ 高木惣吉 「第四章 大陸に戦火ひろがる」内「政党政治の崩れ去る日」『自伝的日本海軍始末記』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2097-6 (初出1971年、文庫化1995年)
- ^ a b c d 吉田俊雄 「第一章 永野修身」『四人の軍令部総長』文春文庫
- ^ a b c 亀井宏「人物抄伝 太平洋の群像2 永野修身」『奇襲ハワイ作戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ1)』 学習研究社 ISBN 4-0560-0367-X(1994年)
- ^ a b c 野村實「実らなかった山本五十六海相案」『山本五十六再考』中公文庫 ISBN 4-12-202579-6 (初出1988年、文庫化1996年)
- ^ 瀬島龍三『大東亜戦争の実相』「第七章 東条内閣の登場と国策の再検討」PHP文庫 ISBN 4-569-57427-0(1972年11月のハーバード大学での講演を出版、初出1998年、文庫化2000年)
なお、瀬島が紹介したこの発言には脚注で出典が示してあり、次のようになっている。
参謀本部第二〇班(戦争指導)保管『大本営政府連絡会議議事録』(戦後防衛研究所所蔵、当時参謀総長だった杉山元がメモしたものを同班がまとめたもの) - ^ 瀬島龍三『大東亜戦争の実相』「第七章 東条内閣の登場と国策の再検討」PHP文庫(2000年)
なお、瀬島が紹介したこの発言には脚注で出典が示してあり、次のようになっている。
参謀本部第二〇班(戦争指導)保管『御下問奉答綴』(戦後防衛研究所所蔵、当時参謀本部第一部長だった田中新一中将の日誌に基づく手記に拠る) - ^ 大井篤『海上護衛戦』「2 船はそんなに沈まない」(初出1953年)
- ^ 実松譲『海軍大学教育』「第三章 真珠湾作戦と海大」 光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2014-3 (1993年、初出1975年)
- ^ 吉田俊雄 「序章」『四人の軍令部総長』文春文庫
[編集] 文献(脚注以外)
他
- 半藤一利「永野修身と杉山元」『指揮官と参謀 コンビの研究』文春文庫 ISBN 4-1674-8302-5 (初出1988年、文庫化1992年)
- 吉田俊雄 「序章」「第一章 永野修身」『四人の軍令部総長』文春文庫 ISBN 4-16-736004-7 (初出1988年、1991年文庫化)
- 永野の名を関してはいないが永野について200項近くと多くの分量を割いている。著者は副官を務めた。
- 片岡紀明 「「われ開戦の責を負う」 軍令部総長・永野修身の胸中」『正論』産経新聞社(1998年6月号)
- 半藤一利、 秦郁彦、 横山恵一、 戸高一成「永野修身」『歴代海軍大将全覧』中公新書ラクレ177(2005年)
- 永野美紗子 『海よ永遠に 元帥海軍大将永野修身の記録』南の風社
- 著者は実子
- 山岡兼三真珠湾への道 日米開戦65年(6)『日本戦略コラム』内
[編集] 関連項目
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