松島 (巡洋艦)
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艦歴 | |
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発注 | |
起工 | 1888年2月17日 |
進水 | 1890年1月22日 |
就役 | 1892年4月5日 |
その後 | 1908年4月30日沈没 |
除籍 | 1908年7月31日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:4,217トン |
全長 | 89.9m |
全幅 | 15.6m |
吃水 | 6.4m |
機関 | 石炭専焼円罐6基+横置式3気筒三連成レシプロ蒸気機関2基2軸推進 |
機関出力 | 5,400馬力 |
最大速力 | 16.0ノット |
兵員 | 360名 |
兵装 | 32cm(38口径)単装砲 1基1門 アームストロング製12cm単装速射砲 12門 47mm単装砲 6門 37mm5連装機砲 2基 36cm水中魚雷発射管単装 4基 |
松島(まつしま)は日清戦争及び日露戦争で活躍した旧日本海軍の軍艦である。軍艦種別は巡洋艦(建造時は「大艦」)。防護巡洋艦、二等巡洋艦に類別された。
清国が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻に対抗する軍艦として建造された「三景艦」のネームシップ。日清戦争時の連合艦隊旗艦である。同型艦は厳島、橋立。
目次 |
[編集] 概要
明治維新後の混乱の時期を過ぎると、世界的な帝国主義の波の中で、日本は国土防衛と海外進出のために朝鮮半島を生命線とする国家戦略を立てていた。これに対抗するのが、歴史的に朝鮮の宗主国をもって任じていた清国であり、次第に日清両国の衝突は避けられないものと認識されるようになった。
明治18年(1885年)、日本海軍に衝撃を与えたのが、清国北洋艦隊に配備された戦艦鎮遠と定遠の2隻であった。両艦とも基準排水量が7,220t、主砲に30.5cm連装砲を2基4門備え、舷側装甲の最大厚は305mmで当時の列強海軍が極東に配置していた大型艦のどれよりも凌駕する巨艦であり、当時の日本海軍から見ると化け物のような巨大戦艦であった。
焦った日本海軍は、せめて主砲口径だけでも凌駕できる軍艦をつくり、鎮遠・定遠に対抗しようとした。この設計思想に基づき製造されたのが、松島型防護巡洋艦、いわゆる「三景艦」である。
その最大の特徴は、鎮遠・定遠の主砲口径を上回る32cm(38口径)単装砲であり、松島には後部甲板、他2隻には前部甲板に据え付けられた。そのため、同型といえども松島の艦形は他2隻とだいぶ違って見える。
しかし、32cm砲という巨砲を積むプラットフォームとしての船体は当時の日本の整備ドックや港湾の施設からして4,000トン台が限界であり、そのため4,000t級の艦体に無理やり積み込む羽目となった。
設計技師士官エミール・ベルタンは当時のフランス海軍の防護巡洋艦と同じように船体の大きさに見合った中口径砲を多数積み、機関出力を増やした高速巡洋艦を提案したが、身近な脅威を感じる日本海軍は提案を拒否。かくして巡洋艦級の船体に戦艦級の巨砲を積むこととなった。さらに、巨砲を積む代償として機関と装甲は切り詰められた。
言ってみれば子供に大型拳銃を持たせ、撃たせるようなものであった。案の定、砲塔を首尾線方向から左右に旋回すれば砲身の重みで重心が狂って艦が傾斜し計算どおりの仰角が取れず、砲撃すれば反動で姿勢が変わって進路まで変わる始末で、おまけに肝心の砲そのものも日本海軍の士官・兵と共に技術未熟で満足な操作が出来ずに故障が頻発し、実戦化に時間が掛かってしまった。実際、黄海海戦で清国北洋艦隊と対決した際、松島から発射した32cm砲弾はたった4発、他の三景艦も、厳島が5発、橋立が4発で、命中弾はなかったとする説もあるが、捕獲後の鎮遠の検分によれば32cm砲弾の直撃破孔が1つあったとされる。が、その記録の方を取るとしても、1発しか命中しなかったことになる。宝の持ち腐れというよりも無用の長物であったといえば酷かもしれないが、全く役に立たなかったのは確かであった。むしろ、艦隊行動の高速機動性と12cm砲以下の速射砲による戦果が大きく、以後の日本海軍のみならず、世界各国の海軍に大きな教訓を与えた。しかし、同海戦後に清国の装甲艦「鎮遠」を手に入れた日本海軍はその後、大艦巨砲主義に邁進する始末であった。
日露戦争では二線級として扱われたため、実戦への参加は少なく、もっぱら哨戒と掃海業務に従事した。
明治41年(1908年)、海軍兵学校を第35期で卒業した少尉候補生を乗せた遠洋航海の途中、寄港した台湾・馬公で爆沈した。殉職者は乗組員370名中207名にのぼった。慰霊碑が馬公、殉難者之碑が佐世保市内にある。尚、僚艦橋立に乗組んでいた永野修身大尉(当時)が真っ先に短艇を指揮して救援に向かったという話がある。
なお、日清戦争直前の明治26年11月30日改正の「軍艦団隊定員表」によると、松島型の三景艦はいずれも、大佐(艦長)1、少佐(副長)1、大尉7、少尉7、機関少監(機関長)1、大機関士3、少機関士1、大軍医2、少軍医1、大主計2、少主計1、上等兵曹3、機関師4、船匠師1、1等下士20、2等下士22、3等下士15、1等卒53、2等卒96、3等卒及び4等卒合せて114名とされた。
以上、士官は27名(内兵科16、機関科5、軍医科3、主計科3名。)、准士官は8名、下士は57名、卒は263名で、総計355名とされた。なお、当時は中佐及び中尉並びに同相当官は置かれていなかった。
[編集] 略歴
- 明治21年(1888年)2月17日 フランス造船所で起工
- 明治23年(1890年)1月22日 進水式
- 明治25年(1892年)4月5日 竣工、回航
- 明治27年(1894年)8月1日 日清戦争開戦、連合艦隊旗艦
- 明治27年(1894年)9月17日 黄海海戦
- 明治28年(1895年)2月 威海衛攻撃終了、清国降伏
- 明治31年(1898年)3月21日 二等巡洋艦に類別
- 明治37年(1904年)2月10日 日露戦争開戦、第三艦隊第五戦隊所属
- 明治38年(1905年)5月27、28日 日本海海戦
- 明治41年(1908年)4月30日 練習航海中に台湾澎湖諸島・馬公で火薬庫爆発のため沈没
- 明治41年(1908年)7月31日 除籍、解体、馬公の公園にスクリューと主砲砲身が記念碑として飾られる
[編集] 逸話
初代連合艦隊旗艦にふさわしく、松島にはいろいろなエピソードがある。
- 明治27年(1894年)黄海海戦では鎮遠の30.5cm主砲弾が直撃、装薬が引火爆発して瞬時に90名余の死傷者が出た。これは黄海海戦における日本側の犠牲者の約半数に当たる。燃えさかる艦上で瀕死の重傷を負いながらも「まだ定遠は沈みませんか」と上官に訊ねた三等水兵(三浦虎二郎)の話が、のちに軍歌「勇敢なる水兵」の元となる。
- 明治41年(1908年)の澎湖諸島沖爆沈事故では、陸軍元帥で元老の大山巌公爵の嫡男・大山高候補生が艦と運命を共にしている。日露戦争後の平時、しかも海軍兵学校卒業直後の悲劇だった。高は巌が再婚後40代になってから恵まれた待望の長男で、成長すると「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年だった。令息ご無念の報に接した巌の落胆ぶりは、端で見ていても気の毒になるほどだったという。
- 明治43年(1910年)鎌倉・七里ヶ浜で逗子開成中学のボートが沈没、乗っていた生徒12名全員が死亡するという海難事故があった。そのとき沈んだボートは、台湾で引き揚げ、運ばれて寄贈された松島のカッターであった。死亡した少年たちを悼んで「七里ケ浜の哀歌」(真白き富士の嶺)が作られた。
前述の建造計画の根本からの失敗、戦闘中の大損害や爆発沈没事故、そしてこのボート沈没事故など、最初の計画から沈没後まで、良運に恵まれたとは言えない艦であった。
[編集] 参考文献
- 松島記念碑由来記の件 (海軍省公文備考第3101号 昭和11年 R 文書、新聞、歴史 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05035376700
- 軍艦松島殉職者火葬位置の件 (海軍省公文備考第4356号 昭和11年 R 文書、新聞、歴史 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05035376800
[編集] 関連項目
大日本帝国海軍の防護巡洋艦 |
浪速型:浪速 | 高千穂 畝傍型:畝傍 千代田型:千代田 |
松島型:松島 | 厳島 | 橋立 秋津洲型:秋津洲 和泉型:和泉 |
須磨型:須磨 | 明石 吉野型:吉野 | 高砂 |
笠置型:笠置 | 千歳 新高型:新高 | 対馬 |
音羽型:音羽 利根型:利根 筑摩型:筑摩 | 矢矧 | 平戸 |
戦利艦 |
日清戦争戦利艦: 済遠 | 広丙 |
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