海軍兵学校 (日本)
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海軍兵学校(かいぐんへいがっこう、1876年(明治9年) - 1945年(昭和20年)は、明治から昭和の太平洋戦争終戦まで存続した大日本帝国海軍の海軍将校の養成を目的とした教育機関である。
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[編集] 総説
[編集] 概要
海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校とともに生徒三校と呼ばれた。第二次世界大戦後に廃校になるまで、イギリス海軍兵学校(デヴォン州ダートマス)、アメリカ合衆国海軍兵学校(メリーランド州アナポリス)とともに、世界三大兵学校として知られた。当時旧制第一高等学校と並び最難関校だった。合計12,433名の卒業生を輩出[1]。 海軍兵学校卒業はその他の海軍生徒学校及び陸軍生徒学校卒業と共に、現学制下で短期大学卒と同等とされている[2]。 また当校は海軍の兵科将校(一般に戦闘指揮官)の養成校であり、他の職種には別の養成課程が設けられた。江田島といえば、戦前・戦中では海軍兵学校を意味した。
海軍兵学校を表す軍歌「同期の桜」が有名。江田島に通った軍人は、同じ釜の飯を食った海軍兵学校の同期(クラスと呼ばれた)を何よりも大切にした。日本海軍にいる限り、どうしても出世に差が生じ、クラスでも上官と部下になることもあったが、職務を離れれば「貴様と俺」で話が通じる対等の立場であるという不文律があった。クラス同士の会合は準公務として扱われ、またクラスが戦死した場合残された家族は生き残ったクラスが可能な限り面倒を見るという暗黙の了解が存在していた[3]。こうしたことは美風として語られ、戦後に至るまで兵学校出身者の絆は強く復興や経済発展にも大きく影響したとされる。[要出典]
行過ぎたエリート意識、貴族趣味、排他性が機関科士官や戦争末期の学徒動員による予備士官に対する差別、下士官兵への露骨な差別に繋がったとの批判もある(坂井三郎、阿川弘之らの著作に顕著。「Sol(独・ゾル;兵。兵学校出身者) vs spare(英・スペア;交換可能な「消耗品。」 学徒兵のこと)」 。
しかしながら、海軍兵学校は、「和魂洋才」そのものと言える 海軍士官の「短剣」に象徴されるように、古代から続く「 伝統・精神文化 」と、最新の「テクノロジー」の「融合」に成功した稀有な近代化遺産 のひとつである。様々な、海軍の 組織論的弊害、 官僚主義など が指摘されてはいるものの、「伝統」と「近代化・モダニズム」 の関係について、現代の日本人のみならず、人類にとっても普遍的な、数多くのヒント・ソリューション(解法)を提供する貴重な精神的遺産となっている。[要出典]
江田島が兵学校の所在地に選定された理由は、
- 、軍艦の錨泊が出来る入江があること。
- 、文明と隔絶し、いわゆる娑婆の空気に汚されずに教育に専念できる環境を持つこと。
- 、気候が温暖で、安定していること。
この3点を備えていたためである。これらの条件によりシステマティックに海軍士官の育成が可能であったといわれる。 反面、世情に疎く、戦略的観点が欠如した官僚主義的用兵家を量産してしまい、太平洋戦争では通商破壊作戦や海上護衛作戦といった海軍本来の使命を軽視する風潮を生んだ。江田島海軍兵学校の存在が、いたずらに艦隊決戦を妄想する戦術マニアな海軍に育ってしまった一つの要因にもあげられる。[要出典]
海軍士官たる者は、世界情勢と最新技術を常に収集分析する必要があり、その点では、横須賀や横浜などが適地ではなかったかという指摘もある。[要出典]
戦時中は、呉近郊が大空襲を受け、大損害を受けたにもかかわらず、江田島海軍兵学校は、日本の古都、京都・奈良同様、攻撃対象外とされていた。アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将の厳命により、大艦巨砲主義を伝授する海軍兵学校は、攻撃目標から対象外とされていたためである。[要出典]
太平洋戦争では、負け戦を演じた艦隊司令官の左遷先ポストが、海軍兵学校校長であったという説がある。珊瑚海海戦で追撃を怯んだ井上成美、レイテ沖海戦で事実上敵前逃亡した栗田健男が好例であるというが、明日の海軍を担う海軍将校を養成する為の機関の長が左遷先というのはおかしいと思われる。この二人は前者は人格高潔にして俊才の誉れが高く、後者は海上勤務一筋で生きてきたのである。つまりは将校生徒に対する模範となるべき人材なのである。
江田島の兵学校跡は、1956年以降、海上自衛隊の第1術科学校及び幹部候補生学校になっており、明治時代の赤煉瓦の校舎や、教育参考館などが残されている。
[編集] 沿革
1869年(明治2年)、前身の海軍操練所が開設された。その後海軍兵学寮と改称し、1876年、東京の築地に移転、改称されて海軍兵学校が開校。 築地時代に明治天皇が皇居から海軍兵学校まで行幸した道が、現在のみゆき通りである。
1888年(明治21年)に呉市の呉鎮守府に近接した広島県の安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転した。 本校舎の赤煉瓦は一つ一つ紙に包まれイギリスから運ばれた。
海軍機関学校は関東大震災で校舎が全焼したため、一時期江田島の海軍兵学校の校舎を借りて教育が行われた。海軍兵学校の52期から55期まで、海軍機関学校の33期から36期までの生徒が同じ地で教育を受けて関係を深めた。
1943年(昭和18年)には岩国分校が、1944年(昭和19年)には大原、舞鶴分校、1945年(昭和20年)には針尾分校がそれぞれ開校された。針尾分校は1945年7月に防府の通信学校に疎開して閉校となった。1945年12月1日付けで廃校となり、消滅した。
[編集] 生徒の採用
以下の事柄は時代によって多少の違いがあるが、採用年齢は16歳から19歳で、必要受験資格は特に無いが、全国から文武両道、男の中の男を自負する優秀な青年が競って志願した超難関校であった。また、募集人員が少なかった昭和初期までの海軍兵学校は、日本最高のエリート校のひとつであった。
そのため、旧制高等学校合格者数で上位にあった東京府立などの各有名中学が上位合格者数を競いあっていた。また、海軍兵学校設立の黎明期から海兵に入るための予備校的な学校が全国に存在していた。主な予備校的な学校には明治初期は東京の攻玉社が有名で、明治中期には東京の海軍予備校(海城)が人気を博した[4]。他に神奈川の湘南、横須賀、逗子開成、広島の修道、山口の鴻城等があった。しかしながら大正時代頃になってくると教育制度が整備され、これらの学校の進学実績は減少していった。なお、これらの予備校的な学校は戦後、大学受験のための進学校へ衣替えした。また、自衛隊を抱える地域に所在する公立校である湘南以外、現在では海上自衛隊との関係は消滅している。
海軍兵学校は兵科上級将校になるためには絶対に通らなければならない学校であったが、東京帝国大学等の成績優秀な学生で海軍委託生になれば、海軍に籍を置き士官に准ずる給与支給があり、卒業後は技術将校の地位が約束された。海軍委託生は海軍兵学校生はもちろん、一般の大学生より陸軍の軍事教練をさぼることもでき、この面でも優遇されていた。
[編集] 生徒の教育
教育期間は始め3年制、27年より3年8ヶ月、32年から4年制となったが、中国における事変拡大の影響を受け、66期が3年9ヶ月に短縮された後、戦線の激化に伴い67期(3年3ヶ月)、68期(3年4ヶ月)、69期~71期(3年)、72期(2年10ヶ月)、73期(2年4ヶ月)と教育期間が短縮されていった。兵学校においては、最上級生を1号、以下2号、3号、4号と称した。
英国式の術科重視の教育が行われ、卒業後は少尉候補生として練習艦隊に配属され、遠洋航海など実地訓練や術科講習を経て任官する。
[編集] 五省
海軍兵学校の教えとして有名な「五省(ごせい)」は松下元校長が考案したもので、兵学校の精神を代表するものとして名高い。諸外国の軍人をも感動させたといい、戦後、英訳されてアナポリス海軍兵学校でも採用された。海上自衛隊にも引き継がれている。内容は該当項を参照。
ただし、これが考案されたのは1932年(昭和7年)で、海軍兵学校の歴史から見れば末期の一時期のこととも言える。どの程度重視したかは当時の校長や教官の姿勢にも左右されており(永野修身校長の時代は重視されず、唱和されることもあまりなかったという証言もある)、常に重んじられていた訳でもないらしい。リベラリズムと柔軟性を重んじた古参の海軍軍人の中には「帝国海軍の風潮になじまない」として好感を持たない者も少なからず存在していた。
[編集] 生徒の待遇
兵学校生徒には、海軍一等兵曹(昭和17年以降は海軍上等兵曹)と海軍兵曹長の中間ともいえる階級を与えられていた。これは、陸軍士官学校生徒が“赤べた”(二等兵の下。存在しないが“三等兵”)であったのに比べれば、非常に優遇されていたと言える。夏の帰省時には、純白の第二種軍装が一際映え、郷里の誇りとして町を挙げての歓迎会が開かれたほど人気があった。
ただし、当時の気風として、「士官、下士官、兵、牛馬、候補生」と呼ばれるほど、海軍部内において候補生は酷使される存在であったといわれる。
海軍兵学校の卒業生は卒業席次順(ハンモックナンバー)に昇進していった。これが人事の硬直化を招いた。
[編集] 選修学生
一般にはあまり知られていないが、大正9年から昭和17年まで、兵学校の教育は、前記の将校生徒と選修学生(第23期まで存在する)の二本立てであった。選修学生制度とは、優秀な准士官(海軍兵曹長)及び海軍一等兵曹の中から選抜して、生徒教育に準じた教育を行う課程であった。この制度は、海機、海経にも設置されていた。この課程を卒業したとしても、特務士官という立場に変わりはなかった。なお、陸軍士官学校も将校生徒と少尉候補者(乙種学生)の二本立てであった。
[編集] 海軍機関学校
海軍の機関科に属する士官を養成するために、1881年-1887年と1893年-1945年に海軍機関学校が置かれる。
1874年に横須賀に海軍兵学寮分校が置かれる。1878年に海軍兵学校附属機関学校となる。1881年に海軍機関学校となる。1887年(明治20年)に廃止される(機関学校第4期生は海軍兵学校に編入され、兵学校第16期生となる。井出謙治海軍大将がこのケースに該当する)。1893年(明治26年)に再置される。関東大震災によって校舎が罹災したため、1923年-1925年は江田島の海軍兵学校内に移り同校生徒と共に教育を受ける。1925年に京都府中舞鶴に移転する。1942年11月に、従来、将校を兵科と機関科とに区分していた将校制度が改正されて機関科将校が「将校」へ統合されたことに伴い、1944年10月に廃止され、新たに海軍兵学校舞鶴分校となる。ただし、「機関学校」の名称は横須賀・大楠に既設の海軍工機学校が改正して継承された。舞鶴分校は1945年11月30日に廃校となる。
機関術・整備技術を中心に機械工学・科学技術(火薬・燃料の調合技術)・設計などメカニズムに関わるあらゆる事象の研究・教育を推進した。また、機関科将校の術科学校であり、投炭技能や造船技術の訓練を下士官に施していた工機学校が閉校していた大正3年-昭和3年の間は、工機学校に代わる組織として「練習科」を併設した。なお従来の機関将校育成コースは「生徒科」と称した。
また、将来将校となるべき生徒以外にも、准士官及び下士官を選修学生として教育した。
[編集] 海軍経理学校
海軍の主計科に属する士官を養成するために、1882年-1883年と1889年-1945年に海軍経理学校が置かれる。
1882年に海軍主計学舎が置かれる。1886年に海軍主計学校となる。1883年(明治26年)に廃止される。再開までの期間は、政府主計官から選抜した。1899年(明治32年)に海軍主計官練習所として再置される。明治40年(1907年)よりに海軍経理学校に改名。1945年11月30日に廃校となる。
主計官は兵科・機関科と比べて視力・色覚の制限が緩く、海軍志願ながら不合格となった者達にとって、数少ない受け入れ先であった。
主計官の任務は金銭出納・需品管理のみならず、酒保の運営や調理などの軽作業から、戦闘詳報の記録や「お写真」[5]の管理など重要な記録・儀式まで幅広い。経理学校では簿記のみならず主計官の職分すべてを教育した。
[編集] その他
陸軍士官学校と違って、外地人、外国人の入校は許可されなかった。
[編集] 注
- ^ 昭和20年3月最後の卒業生74期1072名の卒業生をおくりだした。終戦時、75期から78期までの4クラス約14,000人が在校しており、その10月に75期生は兵学校廃校を前に卒業扱いとされた。
- ^ 豊丘村規則第5号(昭和49年6月19日)別表第3。
- ^ このことから野坂昭如の小説『火垂るの墓』の設定は、現実を無視した虚構であるとの宮崎駿による批判がある(稲葉振一郎『ナウシカ解読―ユートピアの臨界』より)。主人公らの父親は原作では大尉、アニメ版では巡洋艦艦長(中佐・大佐)、ドラマ版では戦艦艦長(大佐)と設定されているところ、このような者が戦死した場合にその子弟が餓死するなどほぼあり得ない話だからという。
- ^ 中村文雄氏の『軍諸学校入学資格獲得をめぐる私学と官学との抗争』には、海軍兵学校・海軍機関学校合格者の学校別の内訳がある。
- 海軍兵学校学校別合格者数 ※( )は東京府立尋常中学校の合格者数
- 明治30年9月 総数179名 海軍予備校55名 攻玉社32名 府県立尋常中学校51(3)名 その他36名 家庭自学者5名。
- 海軍兵学校学校別合格者数 ※( )は東京府立尋常中学校の合格者数
- ^ 御真影、海軍の特に士官は陸軍と文部省が用いた御真影という語を用いず、また、お写真は海軍大元帥の姿であった。昭和天皇は海軍訪問時には海軍式の敬礼を行った。
[編集] 関連人物
[編集] 校長
- 明治3年10月27日 川村純義
- 明治4年11月3日 中牟田倉之助
- 明治9年8月31日 松村淳蔵:アナポリス式教育の導入
- 明治10年2月20日 伊藤雋吉
- 明治10年8月23日 松村淳蔵
- 明治10年10月31日 中牟田倉之助
- 明治11年1月18日 伊藤雋吉
- 明治11年4月5日 仁礼景範
- 明治13年12月8日 本山漸
- 明治14年6月17日 伊藤雋吉
- 明治15年10月12日 松村淳蔵
- 明治17年1月21日 伊東祐麿
- 明治18年12月28日 松村淳蔵
- 明治20年9月28日 有地品之允
- 明治22年4月17日 吉島辰寧
- 明治23年9月24日 本山漸
- 明治25年7月12日 山崎景則
- 明治25年12月12日 坪井航三
- 明治26年12月20日 柴山矢八
- 明治27年7月21日 吉島辰寧
- 明治28年7月25日 日高壮之丞
- 明治32年1月19日 河原要一
- 明治35年5月24日 東郷正路
- 明治36年12月28日 富岡定恭
- 明治39年11月19日 島村速雄
- 明治41年8月28日 吉松茂太郎
- 明治43年12月1日 山下源太郎
- 大正3年3月25日 有馬良橘
- 大正5年12月1日 野間口兼雄
- 大正7年12月1日 鈴木貫太郎
- 大正9年12月1日 千坂智次郎
- 大正12年4月1日 谷口尚真
- 大正14年9月8日 白根熊三
- 昭和2年4月1日 鳥巣玉樹
- 昭和3年12月10日 永野修身:ドルトン教育法による「自啓自発」の教育を推進。
- 昭和5年6月10日 大湊直太郎
- 昭和6年12月1日 松下元:「五省」を発案
- 昭和8年10月3日 及川古志郎
- 昭和10年11月15日 出光万兵衛
- 昭和12年12月1日 住山徳太郎
- 昭和14年11月15日 新見政一
- 昭和16年4月4日 草鹿任一
- 昭和17年10月26日 井上成美 :兵科・機関科の統合を推進
- 昭和19年8月5日 大川内伝七
- 昭和19年11月4日 小松輝久:講堂失火事故に際し引責辞任
- 昭和20年1月15日 栗田健男
[編集] 主な卒業生
詳細は海軍兵学校卒業生一覧 (日本)を参照
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 海軍教育本部 編『帝国海軍教育史』(原書房明治百年史叢書、1983年)第1~9巻・別巻
- セシル・ブロック 著\西山真雄 訳『江田島-イギリス人教師が見た海軍兵学校』(銀河出版、1996年) ISBN 4906436749
- 豊田 穣『江田島教育』(新人物往来社、2000年) ISBN 4404004389
- 新人物往来社戦史室 編『海軍江田島教育』(新人物往来社、1996年) ISBN 4404024444