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旧制高等学校 - Wikipedia

旧制高等学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

旧制高等学校きゅうせいこうとうがっこう)とは、1950年まで存在した日本高等教育機関の1つで、2つの高等学校令1894年および1918年)に基づき設置されたもの、を指す。1886年の中学校令により設立されていた第一~第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を、1894年高等学校に改組して始まった。当初は専門学部4年、大学予科(後に本科)3年制の2系統があったが、学部は順次廃止ないし専門学校として分離され、大学予科のみとなった。1918年の高等学校令改正後は各地で増設され、大学予科は本科に、さらに文科・理科に分かれた。後期には4年間の前置課程を含めた7年制のものもある。

第四高等学校本館第一から第五までの高等学校本館は、ほぼ同一の設計で建てられ、現在第四と第五の本館が現存する
第四高等学校本館
第一から第五までの高等学校本館は、ほぼ同一の設計で建てられ、現在第四と第五の本館が現存する
第六高等学校書庫
第六高等学校書庫

目次

[編集] 概要

1894年の高等学校令では、専門学科の教育を行なう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定されていた。しかし、専門学科教育は主流となることはなく、後に廃止または専門学校として分離され、帝国大学入学前の高等教育機関としてのみ発展した。1918年に改正された高等学校令では、男子の国民道徳を充実させ、高等普通教育を完成する事を目的とし、また公立、私立の高等学校設置が認められるようになり、終戦後まで発展を遂げた。これら高等学校のエッセンスは帝国大学への進学保証制度であり、戦前社会のエリート層揺籃の場として機能した面があり、当時の社会制度の根底を支える機関の一つであった。類似の制度に大学予科があるが、入学資格や大学進学条件に旧制高等学校とは違いがあり、別の機関である。

その初めは、文部省が東京に作った東京大学予備門である。東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学に倣い、教科書は原書、授業もノートも答案も外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためにはまず英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関として作られたのが大学予備門であった。

1881年の政変で大隈重信を失脚させて実権を握った伊藤博文らは、官僚機構を整備するため東京にある官立諸学校を、文部省の作った東京大学に全て併合し、唯一の総合大学である「帝国大学」と改め、ここを官吏、学者の養成学校とした。東京大学が「帝国大学」となると、その予備教育機関は全国に学区ごとに五つ置かれることになり、東京大学予備門は第一学区である関東地区の第一高等中学校となり、その後、改称により最初の高等学校となった。これが旧制高等学校である。前身の詳細については高等中学校を参照。

旧制高校の1学年の定員と帝国大学の定員とは戦前期を通じてほぼ1対1であったため、高等学校の卒業証書さえあれば、専攻を選ばない限りどこかの帝国大学には無試験で入学できた。こうした「身分保障」があったため、勉強はそこそこに学生生活を謳歌した学生たちが多い。同じ学年に3年留まると放校(退学)となるため、「計画的」に高等科3年間の修業年限を1回ずつ落第し、6年居続けた猛者も居たという。

1918年以降は高等学校は官立でなくても設立できたため、三菱財閥の岩崎家が私立の成蹊高等学校阪神地区の財界人が同じく私立の甲南高等学校の設立をそれぞれ後押しし、そこでは、高等学校尋常科を設け、尋常科に入学すれば、そのまま高等科を経て、無試験で帝国大学まで行けるコースを作った。また、明治時代に創設された学習院は宮内省が華族の子弟の教育のために設立されたものであるが、旧制高校として制度的にまったく同等に位置づけられたのは1921年以降である。富山県立富山高等学校のように、地元の素封家が県に莫大な寄付をして設立させた例もある。こうした学校は、高等科だけではなく尋常科もある7年制の高等学校であった(学習院は8年制)。

一高をはじめとする官立の高校の多くは、当初の形態通り3年制の高等科だけが置かれた。高等学校の3年間の就業年限の内、学生は英語・ドイツ語・フランス語のどれかを専攻し、一般教養科目を併せて履修した。クラス編成としては、文科甲類(第一外国語が英語)、文科乙類(ドイツ語)、文科丙類(フランス語)、理科甲類(英語)、理科乙類(ドイツ語)が置かれ、理科乙類は医学部進学コースとなっていた。年限的に言うと、現在の大学の1・2年生に対する教養課程を縮約したものに相当するが、当時の学生の気風と地位を考慮すると、高等教育が大衆化した現代ではこのような機関が存在しないと言える。最終的に全国に39あった旧制高校の中でも、明治期に創設された第一高等学校から第八高等学校までは、政官界に卒業生を早く送り込んで後発の学校よりも優位に立ったため、他との区別で、特に「ナンバースクール」(「n高」から)と呼ばれた。このため、新制に移行した後も「ナンバースクール=エリート校」の尊称のような慣用句的な用法として残り、各自治体での旧制中学時代も含んだ主に公立高校を中心(一部では私立高校でも)に、数字の付された学校をローカルに「○○のナンバースクール」などと呼ぶことがある[1]第六高等学校以降では地元の誘致の熱意もその設立に大きな影響を与えた。第六高等学校の誘致には、岡山と広島がその座を争い、国会議場の外で代議士が掴み合いになった逸話も残っている。第七高等学校の場合は、松本に内定していたのが諸般の事情で急遽鹿児島に変り、また第九高等学校の設立を巡っては、新潟と松本の間で熾烈な誘致合戦が起こり中傷合戦に至る泥仕合化したが、最終的に「第九高等学校」と命名するのは避け、新潟高等学校および松本高等学校と地名を付けることで決着した。以後の設立高校の命名には、この事態を考慮し学校所在地に倣った命名になった。これらを先の「ナンバースクール」との対比・区別の意味で「地名校(スクール)」或いは「ネームスクール」と呼ぶ場合もある。

第二次世界大戦後の学制改革によって旧制高等学校は旧制大学や他の高等教育機関と統合して、その多くは新制大学教養部文理学部の母体となった。旧制高校在学中に学制改革によって新制大学に入学した人物には、作家の野坂昭如(新潟高等学校から新潟大学、のち早稲田大学)や高橋和巳松江高等学校から京都大学)や開高健大阪高等学校から大阪市立大学)や小松左京(第三高等学校から京大)、井原高忠(学習院高等科から慶大)、旧制大学を前身としない大学学部卒で初めて事務次官になった小長啓一(第六高等学校→岡山大学)らがいる。また映画監督の山田洋次は山口高等学校在学中に学制改革に遭い、新制東京都立小山台高等学校から東大に進んだ。

学制改革実施前、旧制高等学校を「ジュニアカレッジ(改革後の短期大学に相当)」として存続を模索する動きもあったが、幻に終わった。

旧制高等学校を懐かしむ卒業生は、戦後においても日本寮歌祭を開いたり、「日本の教育改革を進める会」を結成して、旧制高等学校の長所を訴えていた。しかし、あくまで国立の高等教育機関としての復活を希求していたせいか、私立でエリートに対する一般教養教育の短期大学高等専門学校を設置する動きはなかった。ただし公立ではこういう学校が存在した。1950年に設置され、1955年に廃止された和歌山県立理科短期大学がそれである。

新制東京大学教養学部の設置は、旧制高等学校の教養主義的な伝統を残そうとした動きである。また終戦直後に国際基督教大学(ICU)教養学部の設置に携わった旧帝国大学卒の有力者たちは、そのリベラルアーツ・カレッジの理念に旧制高等学校の善さを継承させられる可能性を期待した。

[編集] 入学・教育課程・卒業

  • 入学資格は、高等科は旧制中学校4年修了時、尋常科は小学校もしくは国民学校卒業時だった。
    高等商業学校などの専門学校の受験資格は旧制中学卒業年次(5年)であったが、高等学校は下記のとおり7年制高校の出現により1年間の「飛び級」が認められていたため、高等科の受験資格はそれより1年早い旧制中学4年修了であった。このため4年修了で高等学校を受験するのが一般的であり、合格するものも数多くいた。
  • 1894年の高等学校令に基づく初期の官立高等学校はすべて3年制だったが、大正7年の新高等学校令では修業年限は尋常科4年と高等科3年をあわせて7年が基本とされた。しかし、旧来の高等科のみの設置も許されたため、実際には官立の高校は新設の東京高等学校を除いて戦前最後の旅順高等学校まですべて高等科のみの3年制であり、逆に私立はすべて「飛び級」のできる7年制であった。
    なお、太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年43年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。ただし、終戦直後の1945年9月に再び修業年限3年に改められた為、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。
1940年4月入学→1942年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1941年4月入学→1943年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1942年4月入学→1943年11月仮卒業→1944年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1943年4月入学→1945年3月卒業(正規2年)
1944年4月入学→1947年3月卒業(正規2年・1年延長)
1945年4月入学→1948年3月卒業(正規2年・1年延長)
1946年4月入学→1949年3月卒業(正規3年)
1947年4月入学→1950年3月卒業(正規3年)
1948年4月入学→1949年3月修了
  • 高等科は文科と理科に分けられ、さらに英・独・仏の第一外国語別に甲・乙・丙各類に分かれていた。
    但し、仏語を第一外国語にする類を置いた高校は第一高等学校・第三高等学校・静岡高等学校・大阪高等学校・浦和高等学校など少数にとどまった。
  • 帝国大学の定員は、旧制高校の卒業生とほぼ同数だったので、卒業後の専攻をえり好みしなければ、卒業後の帝国大学進学を保証された。
    このため地方の帝国大学や官立大学では募集学科によっては定員割れも生じ、京城帝国大学や北海道帝国大学など後発大学では独自に「予科」を設けて早くから質の良い学生を確保する手法をとった。
  • なお、大学の定員割れは、旧制高校卒業・卒業見込者での充足が最優先され、高等師範学校では旧二文理大以外の進学は稀で、また、高等実業学校からの進学希望者は、大学の欠員補充の手段としては後回しとなり、入学が叶うことは稀だった。
  • 一方、一般的に医学部や東大工学部航空学科等の東大京大の理学部・工学部の人気学科、東大法学部は志望者が多いため、倍率が2倍、3倍となることも少なくなかった。もっとも東大法学部の場合、試験範囲は英文和訳、和文英訳のみであり、今風に言えば入ゼミ試験のようなものであった。
    これら人気学部学科への進学においては浪人するものも少なくなく、白線浪人と呼ばれた。
  • 旧制高等学校群に於いて初等教育機関を包含していた学校は、甲南、成城、成蹊がある。これらの諸学校では小学校に入学することで将来、東京帝国大学をはじめとする帝国大学群への進学に直結することとなり人気を集めた。なお、旧制高等学校ではないが、学習院も初等教育機関を包含していた。

[編集] スタイル

旧制高校生の典型的な身なりである、白線帽にマント、高下駄を履き、寮歌を高吟して街を練りあるく姿は、多くの中等学校生徒の憧れであった。白線は二条または三条であり、旧制高校生の象徴であった。しかし私立高校では白線帽を被らせない学校もあったので、成城高校のように、生徒がそれを不満として「白線運動」を起こしたところもあったという。一方日大予科などでは、旧制高校とそっくりな白線帽を被っていた。

[編集] 旧制高校一覧(高等学校令によって設置されたもの)

(カッコ内は学制改革後)

[編集] 三年制

[編集] ナンバースクール

詳細は旧学制から新学制への移行措置を参照
高等中学校 旧制高等学校 新制大学
第一高等中学校 第一高等学校 東京大学教養学部
第二高等中学校 第二高等学校 東北大学教養部
第三高等中学校 第三高等学校 京都大学教養部
第四高等中学校 第四高等学校 金沢大学法文学部理学部・教養部
第五高等中学校 第五高等学校 熊本大学法文学部・理学部
- 第六高等学校 岡山大学法文学部・理学部・教養部
鹿児島高等中学校造士館[2] 第七高等学校造士館[3] 鹿児島大学文理学部
- 第八高等学校 名古屋大学教養部
(現情報文化学部・教養教育院)

[編集] ネームスクール

1918年大正7年)、原敬内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が4450万の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。その計画では大正8年から6年計画で、官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農林(農業)学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。この際に新潟と松本の間で「第九高等学校」の名称の奪い合いがおきたため、番号をやめて地名を用いるようになり各地にネームスクールが誕生することになった。

旧制高等学校 新制大学
山口高等中学校[4] 山口大学経済学部
新潟高等学校 新潟大学人文学部・理学部
松本高等学校 信州大学文理学部
山口高等学校[5] 山口大学文理学部
松山高等学校 愛媛大学文理学部
水戸高等学校 茨城大学文理学部
山形高等学校 山形大学文理学部
佐賀高等学校 佐賀大学文理学部
弘前高等学校 弘前大学文理学部
松江高等学校 島根大学文理学部
大阪高等学校 大阪大学一般教養部南校
浦和高等学校 埼玉大学文理学部
福岡高等学校 九州大学教養部
静岡高等学校 静岡大学文理学部
高知高等学校 高知大学文理学部
姫路高等学校 神戸大学教養部(姫路分校)[6]
広島高等学校 広島大学教養部(現総合科学部
旅順高等学校 (廃止)
官立富山高等学校 富山大学文理学部[7]
  • 学校順は、日本寮歌祭等のオーダーによった。

[編集] 七年制

七年制高等学校(尋常科4年・高等科3年 計7年)は制度的に高等教育機関と位置づけられているものの、実質的には一つの学校で中等・高等教育機関を兼ねていた。このため学制改革に際しては、高等科は新制大学へ尋常科は新制中学校高等学校へ、それぞれ移行したと考えるのが一般的である。

種別 旧制高校(七年制) 新制大学 新制中学校・高等学校
官立 東京高等学校 東京大学教養学部 東京大学教育学部附属中学校・高等学校
(現東京大学教育学部附属中等教育学校
台湾総督府立台北高等学校 (廃止、国立台湾師範大学に転換)
公立 富山県立富山高等学校 1946年閉校[8]
東京府立高等学校→東京都立高等学校 東京都立大学教養部
(現首都大学東京
東京都立大学附属高等学校
(現東京都立桜修館中等教育学校
大阪府立浪速高等学校 大阪大学一般教養部北校 (尋常科廃止)
私立 武蔵高等学校 武蔵大学 武蔵中学校・高等学校
甲南高等学校 甲南大学 甲南中学校・高等学校
成城高等学校 成城大学 成城学園中学校・高等学校
成蹊高等学校 成蹊大学 成蹊中学校・高等学校

[編集] その他

学習院は、学習院学制に基づいて設置された官立の学校である。また、宮内省直轄という特殊な教育機関であった。当初は初等学科(6年)、中等学科(当初は6年のち5年)、補習科、高等学科、大学別科(1905年廃止)などが置かれていたが、1919年に初等科、中等科、高等科と改称され、学校教育法が施行されるまでその体制が続いた。当初の学習院学制では補習科および高等学科は中等科の卒業生を対象とした2年制の教育機関という位置づけとなっていた。明治期から大正期にかけては帝国大学への進学も完全に保証されたものではなく、高等学科の卒業生は帝国大学側に定員割れが生じた場合や院長の推薦によりのみ帝国大学への進学が許されるなど制度として一定していない。他の旧制高校高等科卒業生と全く同等の帝国大学への進学許可が制度的に保証されるようなったのは1921年の文部省令第二七号によるものである。

[編集] 戦後特設高校

戦後に医学・歯学教育は大学(旧制大学)で行うこととなり、旧制医学専門学校あるいは旧制歯科医学専門学校旧制大学に昇格したが、このうちいくつかは大学昇格の基準を満たすことができず、在校生徒救済のために旧制高等学校に改変された。これを戦後特設高校と呼ぶ(ただし官立徳島高等学校は異なる経緯で旧制高校となった)。医大の予科的な位置づけであり、一部は学制改革時新設された新制大学に包括された。

旧制医専・歯専 戦後特設高校 新制大学
秋田県立女子医学専門学校 秋田県立高等学校 1950年閉校、設備は秋田大学へ)
東洋女子歯科医学専門学校 東洋高等学校 東洋女子短期大学東洋学園大学
日本女子歯科医学専門学校 日本高等学校 日本女子衛生短期大学→湘南短期大学神奈川歯科大学
山梨県立医学専門学校 山梨県立高等学校 1950年閉校、設備は山梨大学へ)
山梨県立女子医学専門学校
徳島医学専門学校 官立徳島高等学校[9] 徳島大学
福岡県立医学歯学専門学校医学科 福岡県立高等学校[10] 1951年閉校、設備は九州歯科大学へ)
長崎医科大学付属医学専門部 官立長崎高等学校 長崎大学

[編集] 大学予科

旧制高等学校に類似するものの(高等学校令に基づかないで設置されたもの)個別に連携された大学へのみ進学を前提とした高等教育機関であり、この点は旧制高等学校とは制度的に大きく異なる。

[編集]

  1. ^ 旧制中等学校から新制高等学校への系譜に関しては、必ずしも番号を付した学校群や番号の順番に難易度が定まっていたわけではない。実際の難易度を検証した場合、昭和10年代から一高の次に難しいのは浦和高校であったし、ほかにも東京高校、大阪高校、静岡高校などは多くのナンバースクールよりも入学困難で、必ずしもナンバースクールが地名校より優秀だったわけではない。また、真に優秀な人間は小学校から(中には5年から飛び級で)、東京高校や府立高校、浪速高校の尋常科に入り、一高はその残りかすであると豪語するこれらの学校のOBも存在する。
  2. ^ 1887年に開校するも、1896年に廃校。1901年に第七高等学校造士館として開校した際には、鹿児島高等中学校造士館の再興と看做されていた。
  3. ^ 第七高等学校造士館は、第二次世界大戦後に造士館の名を外し、廃校時には単に鹿児島大学第七高等学校であった。これは進駐軍の意向とも言われるが、明確な証拠は確認されていない
  4. ^ 1886年明治19年)11月に、第一(東京)・第三(大阪、後に京都へ移転)に次ぐ全国3番目の高等中学校として山口市亀山地区に設立され、1895年に山口高等学校と改称(通称「旧旧山高」)したが、他府県出身者が多くを占めたため1905年山口高等商業学校に転換。
  5. ^ 1895年山口市亀山地区に開校した通称「旧旧山高」は1905年山口高等商業学校に転換されていたが、これとは別に1919年山口市糸米地区に改めて開校(通称「再興山高」)して学制改革を迎えた。
  6. ^ 新制神戸大学は神戸経済大学予科と姫路高等学校を包括したため、統合移転するまで教養部の教育は御影分校と姫路分校とに分かれて行われて、文理学部が御影分校にあった。また1953年まで数学科が教育学部の赤塚山校舎にあった
  7. ^ 公立富山高等学校高等科を官立移管して、1943年に開校
  8. ^ 1943年に高等科を官立に移管、尋常科は募集停止の上1946年に閉校
  9. ^ 3・4年次のみ。1・2年次はA級判定され、徳島医科大学に昇格
  10. ^ 医学科のみ旧制高等学校へ転換。歯学科は福岡県立歯科医学専門学校を経て新制九州歯科大学

[編集] 関連書籍

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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