軍学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
軍学校(ぐんがっこう)は、軍隊が設立した学校を指す語で、将校・下士官を養成するものとそれらに再教育を施し高度な技術を教育するものに別れる。前者を補充学校と言い、後者は実施学校と呼ばれる。古くは兵学・兵法を教える事から兵学校と称したり、武学校とも呼んだ。俗に武窓とも。
目次 |
[編集] 旧日本軍
日本では陸軍士官学校や海軍兵学校、陸軍大学校、海軍大学校が代表的だが、この他に憲兵を養成した陸軍憲兵学校、機関科士官を養成した海軍機関学校や経理部士官を養成した陸軍経理学校と海軍経理学校、他に陸軍幼年学校、海軍大学校予科等が在る。これらは陸士・海兵・陸大・海大・海機・海経・陸幼等と略された。
古くは江戸時代に幕府が設立した海軍操練所に始まり、明治に入ると陸海軍に夫々兵学校が作られた。海軍の兵学校は初め操練所と称し、兵学寮を経て明治9年「海軍兵学校」となる。陸軍は兵学所・兵学寮を経て明治7年から陸軍士官学校となる。陸士・海兵とも学歴としては旧制専門学校の位置付けであったが、卒業すると高等官である将校(少尉)に任官されることや学費が掛らないことなどから志望者は多く、帝国大学に並ぶエリートコースであった。尚、将校ではない経理部や軍医部の将校相当官(後に各部将校という)を養成する経理学校や軍医学校は補充学校には含まず、「各部の学校」と分類する。
[編集] 補充学校
新たに将校・下士官等を養成する学校を補充学校と呼んだ。兵卒の養成は陸軍では各兵営で行い、海軍は鎮守府の海兵団で行った為、兵を養成するための学校はない。陸軍の補充学校は陸軍士官学校・陸軍大学校や幼年学校に代表される。士官学校や幼年学校或いは予科士官学校は主に非軍人(軍隊用語で地方人という)が入学対象だが、参謀を養成する陸軍大学校、砲兵・工兵将校の為の陸軍砲工学校、陸軍工科学校等既に将校の地位に在る者を対象とする学校も補充学校とされた。
[編集] 主な補充学校
- 陸軍士官学校
- 陸軍航空士官学校
- 陸軍予科士官学校
- 陸軍幼年学校
- 陸軍予備士官学校
- 陸軍教導学校
- 陸軍大学校
- 陸軍科学学校(もと陸軍砲工学校)
- 陸軍兵器学校(もと陸軍工科学校)
- 陸軍憲兵学校
- 陸軍少年戦車兵学校
- 陸軍少年通信兵学校
[編集] 実施学校
兵科別に現役の将校・下士官に再教育を施したり、高度な技術を教育する学校を実施学校と呼んだ。これらは隊務の合間に教育を受けさせる為、短期間のものが多い。入学が将校に限られる陸軍歩兵学校と陸軍騎兵学校、浜松陸軍飛行学校以外は下士官でも入校できた。実施学校の多くは各兵科名を冠していたが、体操・射撃・銃剣術・剣術・軍楽隊についての教育を行った陸軍戸山学校と、条約で禁止されていた毒ガス戦の研究・訓練を行っていた陸軍習志野学校の2校は地名だけとなっている。
[編集] 主な実施学校
- 陸軍騎兵学校
- 陸軍歩兵学校
- 千葉陸軍戦車学校(もと陸軍戦車学校)
- 公主嶺陸軍戦車学校(四平陸軍戦車学校に改称)
- 陸軍野戦砲兵学校
- 陸軍重砲兵学校
- 千葉陸軍高射学校(もと陸軍防空学校)
- 陸軍工兵学校
- 陸軍通信学校
- 陸軍自動車学校
- 陸軍輜重兵学校
- 陸軍戸山学校
- 陸軍航空技術学校
- 所沢陸軍飛行学校
- 下志津陸軍飛行学校
- 明野陸軍飛行学校
- 熊谷陸軍飛行学校
- 浜松陸軍飛行学校
- 陸軍習志野学校
[編集] 各部の学校
正規の将校に分類されず、「将校相当官」(後に各部将校)と称された経理・軍医・獣医部士官を教育する学校は「各部の学校」として分類された。それぞれ陸軍経理学校・陸軍軍医学校・陸軍獣医学校という。エリートコースで倍率の高かった陸軍士官学校は視力の制限があり、裸眼で1.0以上を要求されたが、経理学校等では裸眼で0.7以上と緩和されていた為視力で陸士を断念した者が多かったという。大正12年から昭和10年までの間は一般からの募集はなく、下士官から採用した学生を教育した。