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つばめ (列車) - Wikipedia

つばめ (列車)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

九州新幹線「つばめ」(2004/11/23)
九州新幹線「つばめ」(2004/11/23)

つばめは、2004年(平成16年)3月以降、九州旅客鉄道(JR九州)の九州新幹線新八代駅鹿児島中央駅間を運行している新幹線列車などの愛称

つばめ」の名称はその起源を1930年(昭和5年)10月まで遡り、戦前・戦後を通じ国鉄を代表する特急列車の愛称とされてきた、伝統ある列車名である。この系譜は1975年(昭和50年)3月以降一時途絶していたが、1992年(平成4年)7月JR九州の鹿児島本線で復活した。その後2004年(平成16年)3月に、九州新幹線が愛称を引き継いだのが現在の特急「つばめ」である。ここでは過去に運行された「つばめ」号についても記載する。

目次

[編集] 本項における併記列車

[編集] 在来線特急「リレーつばめ」

エル特急リレーつばめ」は、2004年(平成16年)3月より、九州新幹線暫定開業に合わせて運行が開始された。新八代駅新幹線ホームにて、新幹線「つばめ」号に接続し、同駅発着で熊本駅博多駅まで鹿児島本線を経由して運行される在来線特別急行列車である。運行形態として、新幹線「つばめ」号と一体的に取り扱っており、列車運用面・料金面でも関連性が強いことから、本項で一括して記述する。

基本的には、1992年以前の鹿児島本線エル特急「有明」の鹿児島中央駅(当時は西鹿児島駅)発着列車を改称した「つばめ」の残存区間での運行であるが、熊本駅以北では「有明」に対して一定の速達列車として存在する。なお、列車号数は運行順ではないが、これは下記にあるように「つばめ」との一体化を目指した為である。その為、「つばめ」では各駅停車タイプに接続する列車でも速達列車として運行されるものが数便ある。

[編集] 特急「はと」

特急「はと」は、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)6月から1975年(昭和50年)3月まで、「つばめ」とほぼ同区間を運行していた特急列車の愛称である。「つばめ」の姉妹列車的な存在であり関連性が深いことから、本項においては「はと」の愛称を使用した列車も併せて記述する。

[編集] 九州新幹線「つばめ」(現在の運用について)

九州新幹線が暫定的な開業であることもあり、新八代駅では「リレーつばめ」・「つばめ」が同一ホームに発着し、日本では初めて新幹線と在来線が同一ホームで乗り換えを行っている。

  • 下り 「リレーつばめ」→「つばめ」
    • 新八代行き「リレーつばめ」では、行先表示・構内や列車内での案内は「鹿児島中央行き」となっている(ただし、新八代駅到着時に行先表示器は「新八代行き」の表示になっている。また、災害などで新幹線がストップした時などにも、同様の扱いとなる場合がある。)。
    • 「リレーつばめ」が停車する各駅では、「この列車は、新八代駅で新幹線つばめ号鹿児島中央行きに接続しています(停車駅の案内は、在来線駅停車駅のみ説明する)。」との構内アナウンスがある。
  • 上り 「つばめ」→「リレーつばめ」
    • 新八代行き「つばめ」も、「リレーつばめ」に接続する列車には、「リレーつばめ」の終着駅の行先表示・構内や列車内での案内がなされている(ただし、新八代駅到着時に行先表示器は「新八代行き」の表示になっている。)。
    • 「つばめ」が停車する各駅では、「この列車は、新八代で○○行き特急リレーつばめ○号に接続いたします(停車駅の案内は、新幹線駅→在来線駅両方説明する)。」とのアナウンスがある。

なお、「リレーつばめ」と「つばめ」の特急券は一枚で発行することができ、利用者の利便を図っている。また両列車の指定席特急券を同時に購入した場合は、席番まで同じになる傾向がある。この「つばめ」と「リレーつばめ」の両列車に係る特急券制度についての正確な内容は、九州新幹線に関する乗り継ぎ料金制度も参照されたい。

[編集] 使用車両・設定車種

新幹線「つばめ」
新幹線800系電車
  • 開業区間が137kmと比較的短距離であることから、普通車のみで編成されている。座席指定席自由席が設定されているが、全座席禁煙となっている。
在来線「リレーつばめ」
リレーつばめ
リレーつばめ
787系電車
  • グリーン車座席指定席
  • 普通車
    • 座席指定席・自由席が設定されており、このうち67号以外の4号車はボックスシート(4人用×6室)の設定もある。なお、2007年(平成19年)3月18日改正より、全列車全車両が禁煙車になった。

[編集] 列車編成

新幹線「つばめ」

6両編成(800系)

鹿児島中央←   →新八代
1
(Mc1)
2
(M')
3
(M2)
4
(M1)
5
(M')
6
(Mc2)
白枠=普通車  指=指定席  自由席  全車両禁煙席  
  • 指定席が自由席となる場合は、以下のとおりである。
    1. 31号、100号について、3号車。
    2. 101・103号について、2・3号車。
    3. 200番台の列車について、全車。
  • 逆に、4号車は指定席に変更される場合がある。


エル特急「リレーつばめ」

7・8・11両編成(787系)

※67号以外

新八代← →熊本・博多・門司港
←基本編成→ ←付属編成→※
1
(Msc)
2
(M')
3
(T1)
4
(T2)
5
(T0)
6
(M)
7
(M'c)
8
(T'hsc)
9
(M)
10
(M')
11
(Tc0またはTc1)
指個


※67号(4+4両<付属*2>)

新八代← →博多
1
(T'hsc)
2
(M)
3
(M')
4
(Tc0またはTc1)
5
(T'hsc)
6
(M)
7
(M')
8
(Tc0またはTc1)
枠=グリーン車  枠=DXグリーン席  白枠=普通車  枠=普通車ボックスシート(4人用×6室)  個=4人個室(4人用×1室)  自由席  指=指定席 ※全列車全車両禁煙
※の付属編成は、熊本以北のみ連結。3・5・21・30・32・36号は毎日、その他の列車でも多客時には臨時連結している。
  • 指定席が自由席となる場合は、以下のとおりである。
    1. 30号、65号について、3号車(ただし、自由席とならない場合もある。)。
    2. 上り列車の久留米→博多間について、2号車を除く普通指定席車両(この場合は空いている指定席を自由席として開放するため、指定券を持つ客が優先)。
    3. 1、3号の門司港→博多間について、2号車を除く普通指定席車両(同上)。
  • 逆に、5・9・10号車は指定席に変更される場合がある。

[編集] 運転区間・停車駅

運行区間
「つばめ」・「リレーつばめ」停車駅
列車名 停車駅/号数 1号~ 30号~ 100号~ 200号~
在来線
エル特急
リレー
つばめ
門司港駅 1・3        
門司駅 1・3        
小倉駅 1・3        
戸畑駅 1        
黒崎駅 1・3        
折尾駅 1・3        
赤間駅 1・3        
博多駅    
二日市駅    
鳥栖駅    
久留米駅    
羽犬塚駅    
瀬高駅    
大牟田駅    
荒尾駅    
長洲駅    
玉名駅    
上熊本駅    
熊本駅  
新八代駅  
新幹線
つばめ
新水俣駅 203・202
出水駅 203・202
川内駅
鹿児島中央駅
記号凡例
●:全列車停車。
▲:一部列車通過。
○:一部列車停車。
数字:その号のみ停車。
|:通過。

※なお、詳しくは九州旅客鉄道株式会社へ。

[編集] 列車番号

「つばめ」の列車番号については、他の新幹線列車と同様に、速達列車に1から始まる番号を付し、各駅停車タイプを速達列車が設定し終わった後の30番台から始まる番号を付加する。早朝・深夜に運行される熊本駅発着の「リレーつばめ」に連絡する列車については100番台とし、川内駅発着の列車を200番台としている。また、全列車末尾に九州新幹線を意味する「F」を符番する。

「リレーつばめ」についても冒頭の説明にあるとおり、下り始発列車を1号、上り始発列車を2号とするナンバリングを採用せず、新幹線列車と同じ符番をなされている。ただし、列車番号については、在来線列車であることから全列車末尾に「電車」を示す「M」が符されている。また、100号台の「リレーつばめ」の列車番号は30番台から始まる番号からの続き番号(例:「リレーつばめ101号」の列車番号は「71M」)となっている。これは、「特急列車の列車番号は百の位を0」とする国鉄時代からの規則による。なお、2004年の開業当初から2005年9月30日までは80番台を用いていた。

同様の方式は、東北新幹線はやて」と八戸駅で接続する特急「白鳥」・「スーパー白鳥」・「つがる」でも採用されている。

[編集] 沿革

[編集] 「つばめ」・「はと」の概要

1930年(昭和5年)10月~1943年(昭和18年)10月と、1950年(昭和25年)10月~1975年(昭和50年)3月の間、国鉄には「」・「つばめ」の愛称を持つ特急列車が運行されていた。1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業以前は東海道本線の特急であり、長年にわたって国鉄を代表する名門列車とされた。その速度感ある名称から、常に特急列車の愛称として用いられてきたものである。なお同列車の沿革に関しては、東海道本線優等列車沿革山陽本線優等列車沿革の項目も参照のこと。

一方「はと」は、第二次世界大戦末期まで中国大陸満州中国東北部)で運行された列車の愛称であり、戦後は一転して日本国内で「つばめ」の姉妹列車として運行された歴史を持つ。

[編集] 太平洋戦争前の経歴

[編集] 1930~1943年 東海道本線特急「燕」(超特急)

初出は、1930年(昭和5年)10月、東海道本線の東京駅神戸駅間に運転を開始した特急「」である。

なおこのときの表記は漢字書きであったが、当時の時刻表などでも漢字表記と平仮名表記が混在しており、またヘッドマーク・テールマークも平仮名であったため、平仮名で「つばめ」と表記したとしても、誤りとはいえない。

この愛称は、先行して運転されていた「富士」・「」同様に、1929年(昭和4年)に行われた鉄道省特別急行列車の愛称一般公募結果をもとに命名されたものである。なお、このとき「燕」は2位であった。公募について詳しくは、列車愛称の記述を参照されたい。

東京駅~大阪駅間を、それ以前の特急「富士」に比して2時間半近く短縮する8時間20分で走破し、「超特急」と称された(東京駅~神戸駅間は9時間)。

当時の長距離列車の例に漏れず、機関車に牽引される客車列車である。二等専用だった「富士」、三等車のみだった「櫻」と異なり、一・二・三等車全てを連結した初めての各等特急でもあった。本来は最後尾に一等展望車を連結する予定であったが、当初は展望車の新規制作が間に合わず、1931年(昭和6年)9月まで一等寝台車を座席車扱いとして代用した。列車の設定に当たっては、大阪などで定時運行・石炭節約の功績を挙げていた、山陽鉄道出身の結城弘毅を運転課長として本局に招き、指揮をさせた。

「燕」は最速列車として人気が高く、1931年(昭和6年)12月からは同時間帯に臨時列車「不定期燕」を増発するほど好評を博した。

1934年(昭和9年)12月、丹那トンネルの開業で東海道本線が熱海経由となった。距離・勾配が大幅に短縮・緩和され、東京駅~大阪駅間の所要時間は8時間にまで短縮している。この記録は1956年(昭和31年)11月の東海道本線全線電化までの22年間、破られなかった。

  • 1936年(昭和11年)8月、「燕」に国鉄初の冷房装置搭載の新製食堂車を連結。
    尚、この車両の冷房装置の動力は車軸回転を利用していた。
  • 1937年(昭和12年)7月、「燕」の姉妹列車として、東京駅~神戸駅間に「」を設定。ただし、全区間の所要時間は「燕」より20分長かった。
  • 1940年(昭和15年)、食堂車の冷房装置を使用中止。
  • 1942年(昭和17年)11月、「不定期燕」廃止。

1943年(昭和18年)2月、「燕」は太平洋戦争の激化により運転区間を東京駅~大阪駅間に短縮し、「鴎」は廃止。同年7月、それまでの「特急」を「第一種急行」、「急行」を「第二種急行」と呼ぶようになる。しかし、同年10月、戦争激化に伴い「燕」は廃止となる。

[編集] 速度向上の手段

「燕」は到達時間短縮のため、それ以前には例のなかった様々な高速化策を導入した。

  • 機関車の交換省略
1930年(昭和5年)10月、「燕」の運転を開始した当時の東海道本線は、東京駅~国府津駅間が電化されており、従来は特急急行列車でも電気機関車蒸気機関車を国府津駅で交換していた。しかし、「燕」ではその交換時間を切り詰めるため、C51形蒸気機関車による東京駅~名古屋駅間通し牽引とした(名古屋駅以西はC53形蒸気機関車が牽引)。国府津~名古屋間では既に「富士」・「櫻」には強力なC53形が投入されていたが、同形式はクランク配置不良のため起動不能になる場合があり、過密ダイヤの東京近郊区間での遅延を避けるため、在来型で信頼性の高いC51形が選ばれた。1934年(昭和9年)12月の丹那トンネル開通後は、東京駅~沼津駅間は電気機関車牽引、沼津駅以西はC53形蒸気機関車の牽引とし、沼津駅で機関車を交換するようになった。
  • 給水停車の省略
蒸気機関車はボイラー用水の消費量が多く、適当な区間ごとに停車して水を補給する必要があったが、「燕」はC51形に専用の水槽車ミキ20形を増結することで、この給水停車もなくした。しかし水槽車は重量がかさみ、高速化や輸送力増強の足かせとなることから、「燕」は1932年(昭和7年)3月以降静岡駅に給水を兼ねて停車するようになった。これに伴い水槽車の連結は中止され、牽引力の余裕を得て三等車1両を増結している。この給水については、鉄道省も相当に苦心を重ねたようで、運行計画の中には「線路沿いに給水タンクをずらりと並べて、各々に線路に向けて放水するパイプを取り付け、通過列車に走行しながら給水する」という奇天烈なものもあった。もちろん、実用化はされていない。鉄道先進国のイギリスでは「フライング・スコッツマン」などで線路の間に水槽(ウォータートラフ)を設けそこから走行中に炭水車から樋を下げて水を汲み上げる機構が実用化されていたが、設備投資やスケジュールの都合上これが不可能であったことからこれらのアイディアを考案せざるを得なかった。
  • 補助機関車の連結・解放迅速化 
運転開始当時の東海道本線は現在の御殿場経由であり、1000分の25勾配を有する急峻な山越え区間があった。このため、下り列車は国府津駅から、上り列車は沼津駅から、御殿場駅まで後部補助機関車を連結する必要があった。「燕」はこの連結作業時間をわずか30秒に切り詰め、なおかつ補助機関車の切り離しは、御殿場駅付近通過中に走りながら行った。この補機連結は、1934年(昭和9年)12月、丹那トンネル開通によるルート変更で解消されている。なお当初は走行中に補機を連結する案もあり、実際に試験も行われたが、好成績は収めたものの実用化には至らなかった。
また東海道本線には、大垣駅関ヶ原駅間にも、同様の急勾配である、1000分の25勾配が存在していた。この区間では、下り列車に限り大垣駅から補助機関車を連結する必要があったが、下り「燕」はここでも国府津・沼津駅同様の30秒停車で早業連結し、登坂し終えた柏原駅付近で走行中に切り離した。
ちなみに走行中の補機解放は当時からさほど難しい技術ではなかったと見られ、同区間を走る多くの列車や他の勾配線区でも実施されていた。しかし、他の列車は推進力確保のため、トルクの強い貨物用の9600形またはD50形を補機に使用していたのに対し、「燕」は高速運転の可能なC53形が担当し、異例となった。なお、起動不良は本務機のC51形が引き上げれば問題なしとされた。
この結果運転開始当初の「燕」は、下りは国府津駅から名古屋駅まで、上りは名古屋駅から沼津駅までノンストップとなった。
  • 運転中の乗務員交代 
ノンストップ区間では、乗務員交代の停車さえも省略された。交替の機関士と機関助士は先頭の客車内で待機しており、走行中に水槽車・炭水車をよじ登って、前任の機関士・機関助士と交替したという。
事故は無かったというが、さすがにこの交替は危険きわまりなく、1932年(昭和7年)3月以降は静岡駅での給水停車に合わせて乗務員交代も行うようになった。

[編集] 「燕」を追い抜いた電車

阪急京都本線の前身である(新京阪鉄道→)京阪新京阪線で使用されていた大型大出力電車のデイ100形には、1930年代に山崎付近の東海道本線との並行区間で併走する「燕」を追い抜いたという逸話が残る。

その真偽や背景については、こちらの項目を参照のこと。

[編集] 濱口首相遭難事件
東京駅 遭難現場のプレート
東京駅 遭難現場のプレート

昭和5年(1930年11月14日、時の首相濱口雄幸広島県福山市郊外で行われる陸軍の演習を視察する予定で、昭和天皇行幸に付き添い(更にお国帰りも兼ねて)特急「燕」に乗車するために東京駅を訪れるが、第4ホーム(現在の東北新幹線改札付近)で当時21歳の愛国社社員佐郷屋留雄(さごやとめお)に銃撃される。この時は、弾丸が骨盤を砕き、東大病院にて腸の30%を摘出したが、一命を取り留めた。

翌昭和6年(1931年)3月に、野党政友会鳩山一郎らの執拗な登院要求に押され、まだ傷の癒えない身で無理をして衆議院に登院、5ヵ月後に亡くなった。

[編集] 1932~1945年 南満州鉄道急行「はと」

中国における日本の国策会社であった南満州鉄道(満鉄)は1932年(昭和7年)、大連長春満州国成立に伴い首都となり、同年“新京”に改名)間を運行していた急行列車に「はと」と命名した。

当初は満鉄を代表する優等列車であったが、1934年(昭和9年)11月により高速で高級な設備を備えた特急「あじあ」が登場し、代表列車の座は明け渡した。しかしその後も速度向上は行われ、1939年(昭和14年)11月時点では大連~新京間を10時間20分、表定速度68.4km/hで運行された。

その後の第二次世界大戦下における戦況の悪化により、1943年(昭和18年)2月に「あじあ」が廃止され、「はと」も速度低下する。しかし「はと」は、1945年(昭和20年)8月のソ連軍による満州侵攻時まで運行を継続した。

[編集] 太平洋戦争後の展開

[編集] 1950~1960年 東海道本線特急「つばめ」・「はと」

「つばめ」に使用されたマイテ39形
「つばめ」に使用されたマイテ39形

戦後、1950年(昭和25年)1月に、東京駅~大阪駅間特急「へいわ」(1949年(昭和24年)9月登場、戦後初の国鉄特急)を平仮名表記の「つばめ」に改称した。愛称は戦時中の廃止から6年ぶりの登場で、戦前同様の機関車牽引特急である。

同1950年(昭和25年)6月、その姉妹列車として特急「はと」が登場する。

当初「つばめ」・「はと」は東京駅~大阪駅間に9時間を要していたが、同年10月のダイヤ改正時に戦前の「燕」と同じ8時間運転となった。

「つばめ」・「はと」ともに一等展望車を連結(マイテ39形、もしくはマイテ49形)、リクライニングシート付の特別二等車を多数連ね、当時の日本を代表する列車となった。車内サービスに『つばめガール』・『はとガール』と呼ばれる女性乗務員を配したのも新機軸であった。

運用に際しては、上下列車とも編成の最後尾に展望車を配する必要や、また三等車スハ44形の2人がけ座席が一方向き固定式であることから、東京・大阪(西明石駅)の双方で、三角線回しと呼ばれた特殊な大回り回送を行って、全編成を方向転換させるという手間をかけた。主な牽引機はC62形C59形蒸気機関車EF58形電気機関車が使用された。

なお、大垣駅~関ヶ原駅間には、1944年(昭和19年)10月に新垂井経由で緩勾配の下り迂回線が完成しており、戦後の下り「つばめ」・「はと」はこちらを経由することで、補機を連結せずに済ませている。

1956年(昭和31年)11月の東海道本線全線電化時には、東京駅~大阪駅間を7時間30分にスピードアップした。これを機に、「つばめ」・「はと」の客車電気機関車EF58形は、従来標準色であったぶどう色(焦茶色)からエメラルドグリーンに塗り替え、イメージチェンジした。これらの編成は、その塗色から「青大将」と呼ばれて親しまれた。

[編集] 1960~1964年 東海道本線電車特急「つばめ」・「はと」

1958年(昭和33年)11月より、国鉄初の特急形電車である151系電車を用いて特急「こだま」号の運行が開始されると、速度・設備水準において、旧型の客車を用い、機関車牽引であった「つばめ」・「はと」の見劣りが目立つようになった。

そこで1960年(昭和35年)6月より、「つばめ」は車両を151系電車に置き換えて2往復(1往復は神戸駅発着)に増発され、同時にスピードアップして東京駅~大阪駅間所要6時間30分となった。従前の一等展望車は廃されたが、代わりに二等特別席車「パーラーカー」を連結した。なおこの時「はと」は「つばめ」に吸収される形で一時消滅するが、翌1961年(昭和36年)10月のダイヤ改正時、東京~大阪間の電車特急として再び登場している。このとき、「つばめ」は2往復とも大阪発着となった。

1962年(昭和37年)6月の山陽本線広島電化に伴い、「つばめ」1往復は広島駅まで延長となり、東京駅~広島駅間の長駆900km弱を通し運転した。これは実質的には、前年の1961年(昭和36年)10月ダイヤ改正で新設されていた大阪駅~広島駅気動車特急「へいわ」を立て替える形で設定されたものである(したがって、引き替えに「へいわ」は廃止された)。

この途上、山陽本線瀬野駅八本松駅間には「瀬野八」とよばれる急勾配が存在し、広島発の上り列車についてはここを登坂する必要があった。だが、延長運転に先立って「つばめ」用の151系電車を瀬野八の区間で試験走行させてみると、途中でモーターが過熱してしまい、自力では登坂不能であった。本来平坦な東海道線仕様の車両であり、パワー不足だったのである。

やむなく営業運転では、本来自走できる電車列車でありながら、補助機関車を後部に連結して押し上げるという措置を採らざるを得なかった。補機には旅客列車用の高速電気機関車であるEF61形が充当され、広島駅から八本松駅まで後押しを行った。

[編集] 1964~1975年 山陽本線・鹿児島本線電車特急「つばめ」・「はと」

1964年(昭和39年)10月の東海道新幹線開業後、「つばめ」・「はと」は新大阪駅博多駅間に運転区間を変更、新幹線と接続し、「つばめ」・「はと」・「かもめ」の各列車による九州直通の昼行特急群を形成した(三列車は総括して「三羽がらす」とも呼ばれた)。当初は東海道線用の直流電化区間用の電車151系をそのまま使用し、交流電化区間である九州島内にはEF30形関門トンネルの区間のみ)とED73形電気機関車牽引で乗り入れた。また、瀬野八での補機連結も続けられた。機関車牽引区間での車内電源は電源車サヤ420形を間に挟んで確保していた。このサヤ420形は421系パンタグラフ電動車モハ420形3両を早期落成させて電源車としたものである。

1965年(昭和40年)10月、「つばめ」は名古屋駅~熊本駅間の特急に変更。「つばめ」史上で最長距離を走ることになった。同時に「つばめ」・「はと」の車両は交直両用型481系に置き換えられる。この結果、交流電化区間に乗り入れられるようになると同時に、瀬野八での補機連結も不要になり、自力走行による全区間直通運転が可能となった。役目を終えたサヤ420形は当初の予定どおりモハ420-21~23となった。

1968年(昭和43年)10月以降は、「つばめ」・「はと」に寝台電車581系・583系も用いられるようになる。この頃から「つばめ」・「はと」は共に「特別な列車」から「大衆列車」に性格を変化させ、増発も図られた。

1972年(昭和47年)3月、山陽新幹線岡山駅開業により、「つばめ」は運転区間を岡山駅~博多駅・熊本駅間、「はと」は岡山駅~下関駅間とする。半年後の同年10月、「つばめ」・「はと」は「しおじ」と共にエル特急に指定される。

1973年(昭和48年)10月、「つばめ」は運転区間を西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)まで延長。

山陽新幹線博多駅開業に伴う1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正で、「つばめ」・「はと」は列車・名称とも廃止された。国鉄における「つばめ」の歴史は、ここで幕を下ろす事となった。

[編集] JR九州特急として復活・新幹線へ

[編集] 1992~2004年 鹿児島本線電車特急「つばめ」・「ドリームつばめ」

783系「つばめ」
783系「つばめ」
787系「つばめ」
787系「つばめ」

「つばめ」の名は1975年(昭和50年)以降、「この名称に釣り合うだけの格式のある列車がない」という理由から、定期運転される列車の愛称には用いられることのないままに推移した。その間、復活運転と称し、東海道線等で臨時列車として運行された例が幾度かある。詳細はここを参照されたい。

国鉄民営化後の1990年代に至り、JR九州が「つばめ」の名称を再び起用した。同社はこれに先立ち、他のJR各社からわざわざ事前の了承を得るという手続きを踏んでいる。「つばめ」という愛称の重みを物語る逸話である。なお「はと」の名は、定期列車では現在に至るまで復活していない。

  • 1992年(平成4年)7月15日787系電車落成と共に、西鹿児島駅(現:鹿児島中央駅)発着の特急「有明」を「つばめ」に改称し、787系を投入した。
    • 787系電車の開発にあたっては、「つばめ」にふさわしい格式を与えることが目標とされた。1970年代以降在来線では新規形式の食堂車が途絶していたが、本系列では久方ぶりの食堂車形式として半室ビュフェ車サハシ787形が登場した。また、往年の「つばめガール」を彷彿とさせる女性乗務員「つばめレディ」が搭乗し、グリーン車へのシートサービスも行われた。
    • この時点での運転区間は門司港駅博多駅熊本駅~西鹿児島駅間で、本数は博多駅発着が11往復、門司港駅発着が2往復、熊本駅発着が1往復であった。787系は博多駅発着列車のうち5往復、門司港駅発着列車のうち1往復及び熊本駅発着列車に投入。残りは783系電車を充当。
  • 1993年(平成5年)3月18日、783系を用いる門司港駅発着列車を博多駅発着に短縮。また、それまで門司港駅~西鹿児島駅間を運行していた夜行急行「かいもん」を787系を用いた特急「ドリームつばめ」に昇格。「ドリームつばめ」は博多駅発着とした。
  • 1994年(平成6年)7月1日、787系の充当を博多駅発着列車のうち10往復及び門司港駅発着列車に拡大。783系は博多駅発着列車のうち2往復及び熊本駅発着列車の計3往復に縮小する。
  • 1995年(平成7年)4月20日、門司港駅発着列車のうち上りの博多以北及び熊本駅発着列車を廃止。同時に博多駅→門司港駅間のホームライナー的列車として「つばめ102号」を設定。また、「ドリームつばめ」は783系での運転とする。
  • 1996年(平成8年)3月16日、「ドリームつばめ」も含め、全列車787系での運転となる。
  • 1997年(平成9年)3月22日、1往復増発し、14往復運転に戻る。
  • 1999年(平成11年)3月13日、それまで9両または7両編成での運転だったのを7両または6両編成に短縮。「つばめ」の編成減で捻出された中間車は一部先頭車への改造または先頭車の新造を行った上で「有明」に充当された。
  • 2000年(平成12年)3月11日、「つばめ102号」は「きらめき」として分離。
  • 2002年(平成14年)7月15日、新幹線リレー「つばめ」運転開始。これは2004年の九州新幹線一部開業に伴い「つばめ」が博多駅~新八代駅間の運転に短縮されることから、ビュフェの座席車化を中心とした工事が行われたものである。ビュフェは2003年(平成15年)2月7日の「つばめ19号」が最後の営業になった。3月までにビュフェの改造は終了。同時に車両のリニューアルを行い、全列車7両編成とする。

[編集] 航空機の乗客を奪った在来線特急

なお、この時期には高速バス桜島号」(西日本鉄道(西鉄)南国交通鹿児島交通林田産業交通(当時)JR九州バス(当時はJR九州直営))と競合しており、高速バスは当初から運行便数と低廉な料金で鉄道に対抗していた。

鉄道側も運行便数の充実などで「桜島号」に対抗していたが、この結果、福岡鹿児島間の航空機の利用者が鉄道や高速バスに転移し、航空機は利用者減少のため減便や機材縮小を余儀なくされた(後にエアーニッポンは撤退)。これは鹿児島空港が鹿児島市内の中心部から相当の距離があるためにそのことがアドバンテージになったとされている。

1992年5月号のJTB時刻表によると、鉄道は「有明」14往復・最速3時間58分・普通車指定席で片道7,710円・往復割引11,940円、高速バスは昼行15往復・所要4時間20分・片道5,300円・往復割引9,000円、航空機は2社で10往復・所要40分・運賃はジェット特別料金込みで片道12,550円・往復割引22,760円であった(すべて通常期の運賃である)。新幹線以外の鉄道や高速バスでも、条件によっては航空機に対しても競争力を持つという実例でもある。

高速バス「桜島号」も九州新幹線部分開通後は所要時間で不利になってきたことから、2007年から夜行便以外はノンストップ便を取りやめるようになった。但し博多~熊本間は依然として高速バス「ひのくに号」(西鉄、九州産交バス)との競合が激しい。詳細は「有明号」の項を参照すること。

同様の現象は、上越新幹線関越自動車道で結ばれている東京~新潟間でもみられる。

[編集] 2004年以降 九州新幹線「つばめ」・在来線電車特急「リレーつばめ」

九州新幹線用の800系車両にあしらわれたつばめマーク
九州新幹線用の800系車両にあしらわれたつばめマーク
  • 2003年(平成15年)、九州新幹線開業に先立ち、列車名を公募により「つばめ」に決定。
    • 得票数の第1位は「はやと」であったが(「つばめ」は3位)、この名前は採用されなかった。これは、「はやと」が九州というより鹿児島県のイメージが強いこと、東北新幹線の「はやて」と紛らわしいからとされる。なお、「はやと」の名前は九州新幹線開業と同時に設定された肥薩線吉松駅発着の特急「はやとの風」に用いられた。
  • 2004年(平成16年)3月13日九州新幹線一部開業に伴うダイヤ改正により、「つばめ」の愛称を九州新幹線に移行。旧「つばめ」は「リレーつばめ」に改称の上、新八代駅で新幹線「つばめ」と接続する列車として存続させた。
    • 本数は博多駅発着列車が下り26本・上り30本、熊本駅発着列車が下り2本・上り1本、門司港駅・小倉駅始発列車が1本ずつとした。ただし、博多駅発着列車のうち5往復を熊本駅発着「有明」の臨時延長扱いとしていた。この臨時延長扱いは、熊本発着で運転されたことが一度もないまま、翌2005年には解消された。
    • 「ドリームつばめ」については熊本駅以南を廃止の上「有明31号」・「有明2号」(当時。2007年現在下りは「29号」)に編入。下り列車については残存区間でほぼダイヤを踏襲した。
  • 2005年(平成17年)10月1日、「リレーつばめ」の一部列車で「DXグリーン席」(3席)を設定する。
    • 「DXグリーン」はグリーン車の運転席側に設けられていた「トップキャビン」(6席)を改造したものである。およそ1年かけて、全車両への改造工事が行われた。
  • 2007年(平成19年)3月18日、全車両禁煙となった。またリレーつばめ1号が門司港駅始発に変更され、リレーつばめ67号が「有明」用4両編成の2編成連結で運行されるようになった。
  • 2007年(平成19年)3月19日、九州新幹線つばめの累計利用客数が2007年3月18日に1000万人を突破したと発表。2004年3月13日の開業以来1101日目で達成した。2007年3月18日にはつばめ乗客全員に同列車のイラストの入った記念ミニタオルがプレゼントされた。

[編集] エピソード

[編集] 旧国鉄のシンボルマーク

国鉄バスのシンボルマークとして使用された「つばめマーク」
国鉄バスのシンボルマークとして使用された「つばめマーク」
JRバスのシンボルマークとして使用されている「つばめマーク」
JRバスのシンボルマークとして使用されている「つばめマーク」

プロ野球球団東京ヤクルトスワローズの愛称名スワローズ(swallows)は、1950年代の国鉄特急である「つばめ」に由来する。これは同球団の前身が、国鉄の外郭団体である財団法人鉄道協力会を中核として、財団法人鉄道弘済会日本通運、日本交通公社などの企業により設立された「国鉄野球株式会社」の運営する「国鉄スワローズ」だったことによる。後、産経新聞に譲渡されてから鉄腕アトムに因んでチーム名を「アトムズ」と改称しているが、ヤクルト本社へ再度譲渡されてからしばらく経って虫プロダクションの倒産によりアトムのキャラクター使用を取りやめ、元の「スワローズ」へ戻している。

これ以外にも旧国鉄はツバメをシンボルマークのように使用しており、国鉄バスの側面にはツバメが描かれていた。JRバスグループでもこれを踏襲しており、バスの車体にツバメを模したデザインのマークを描いている。

またJR九州では、鉄道車両を飾るワンポイントとしても、一般用から特急用に至るまで「ツバメ」を広く使用している。

[編集] 復活運転

定期列車の「つばめ」以外に、「復活運転」(リバイバルトレイン)と称して旧国鉄等が「つばめ」・「はと」を臨時列車ないしは団体専用列車として運行したことがある。

[編集] 関連項目

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