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国鉄EF58形電気機関車 - Wikipedia

国鉄EF58形電気機関車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国鉄EF58形電気機関車

全長 19,900mm
全幅 2,800mm
全高 3,926mm
軸配置 2C+C2
機関車重量 蒸気暖房 115.00t、電気暖房 113.00t
動輪上重量 蒸気暖房 86.40t、電気暖房 87.00t
最大軸重 14.4t
電気方式 1,500V
1時間定格出力 1,900kW
1時間定格引張力 10,250kg
最高運転速度 100.0km/h
1時間定格速度 (全界磁)68.0km/h

(弱界磁)87.0km/h

主電動機 MT42×6
動力伝達装置 1段歯車減速、吊り掛け式
歯車比 28:75=1:2.68
制御方式 比重連、3段組合、弱界磁制御
制御装置 電磁空気単位スイッチ式
ブレーキ装置 EL14AS 空気ブレーキ、手ブレーキ
台車形式 主台車HT60、先台車LT221
保安装置 ATS-S形 EB装置 TE装置
備考 1952年以降の改良型

EF58形電気機関車(イーエフ58がたでんききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客列車牽引用直流電気機関車である。


目次

[編集] 概要

当初、1946年から1948年にかけて初期形車が製造されたものの、31両が完成したところで諸事情により一旦製造中止となった。

1952年以降、全くの別形式というべき大改良を経て量産を再開した。以後初期形車も車体載せ替えを含む仕様統一の改造を受け、1958年まで増備された。のべ製造両数は172両である。

戦前以来の設計を強化した旧式システムの機関車ながら、1952年以降の改良型は高速運転時の性能に優れ、特急列車の牽引にしばしば用いられた。この改良型は、流線型を取り入れた秀逸でなおかつ独特のロバストネス(逞しさ)を感じさせる車体フォルム(デザイン)も手伝って、多くの鉄道ファンから「ゴハチ」の通称および愛称で親しまれている。

1950年代1970年代にかけ、東海道山陽本線高崎上越線、そして東北本線黒磯以南といった主要幹線において、旅客列車牽引の主力として用いられた。

1980年代までにほとんどが営業運転から撤退したが、お召し列車牽引指定機関車の61号機をはじめとする数両が2008年現在でも稼働状態で残存している。

なお、同時期の1947年から1958年まで製造された貨物列車牽引用電気機関車EF15形は、電気機器などの多くをEF58形と共通設計としており、外見は著しく異なるが「兄弟形式」と評されている。

[編集] 形態別概説

[編集] 初期形

1946年から1948年にかけて1~31の31両が製造された。「旧EF58形」などの呼び方もある。

太平洋戦争中に旅客用電気機関車の新規製造は中止されていた。しかし、終戦後の旅客輸送需要は買い出し客を中心に激増する一方、戦前形の機関車は戦時中の酷使によって疲弊が著しく、旅客用電気機関車は所要数の不足をきたしていた。EF58初期形は、このような事情から急遽製造されたものである。

[編集] 性能

性能的には戦前最後に新造された旅客用電気機関車EF57形と同等の水準を狙ったもので、旅客用大型機関車の原則に沿った2C+C2の軸配置を採用し、MT41形主電動機[1]を搭載していた。制御方式は戦前からの標準であった手動進段の単位スイッチ式、デザインも戦前からの伝統に則った「前後デッキ付の箱形車体」であった。

しかし、その実質は良質な材料と工作で製造されたEF57形とは似て非なるものであった。随所に代用部材や簡易構造が用いられ、戦時設計の貨物用機関車EF13形に近似した「準戦時型」車両で、粗悪と評しても過言ではなかった。唯一評価に値するのは、車軸の軸受けに初めてローラーベアリングを採用したことであったが、このローラーベアリングも、当初品質不良で発熱を起こすなどの問題を生じさせた。

  • パンタグラフは本来電車用のバネ作動式PS13形。強度に難のある簡易構造。電気機関車用の空気圧作動式はコストや資材難から採用されず。
  • 漏電などの事故を防ぐために必要な高速度遮断器は高価で複雑なことから省略。
  • 車体外板は薄手でゆがみが多く、工作不良、等々。

また、EF57形に搭載されていた暖房用蒸気ボイラーは省略された[2]。したがって冬季には別にボイラー付の「暖房車」を連結する必要があった。

[編集] 就役後

極めて粗悪な構造のため、就役当初から故障や事故が頻発し、現場からは不評であった。一時は製造中止措置や使用中止命令が出された時期もある。また労働組合による乗務拒否運動もあった。

製造期間の途上で徐々に品質の改善は進められていたが、1949年初頭のドッジ・ラインに基づく経済抑制政策の影響により、31両が就役したところで製造中止となった。なお、実際の製造・就役は必ずしも番号順ではなく、かなり前後する部分がある。

後の1953年1957年に新造の流線型車体への載せ替え改造を受けた。この際に捻出された古い箱形車体は、機器ごと凸型の簡易車体だったEF13形に転用された。寸法がほぼ合致し[3]両数もちょうど同じ31両で、全車の車体載せ替えが実現した。

[編集] EF18形 32~34

EF58形の半製品を設計変更して就役させた貨物用機関車である。

1949年初頭、EF58形32~34号機の3両は東芝府中工場で製造の途上であり、ほぼ完成していた。ところが、ドッジ・ラインの影響で就役は保留され、2年間に渡って東芝でデッドストック状態に置かれることになった。やむなく貨物用機関車として転用されることになり、歯車比をEF15形並の低速形としたが、先輪が多い分だけ動輪軸重が不足することから、車内にデッドウェイトを積載して補っている。東芝府中工場で留置されている車体を撮した写真が雑誌に掲載された事があるが、これが32~36号機のどれであるかは特定されていない。

1951年より就役した。形式と番号はEF58形として計画されていた番号をそのまま受け継ぎ、下一桁の8をそのままに直流旧型高速を表す50番台の「58」を直流旧型低速の10番台の「18」としただけである。将来のEF58形への再改造を視野に入れていたとも取れるが、実際には最後まで実現していない。この3両によりEF58形では32~34番に欠番が生じている。

東海道本線などで貨物列車牽引に用いられ、初期形EF58全車の車体更新後も旧EF58形の外観を残す貴重な存在であったが、オリジナル形のEF58に比べると側窓が増えており、新車体型でありながら側窓の多い35・36号機との共通点が見られる。

3両とも、1979年に浜松機関区を最後に退役し、廃車された。

[編集] 改良形

1952年から1958年にかけて新規製造された35~175号機(計141両)、および初期形の台車・一部機器を流用して1953年から1957年にかけて新造グループ同様の車体・性能に改造された1~31号機である。「新EF58形」とも呼ばれ、一般にEF58形と言えばこの形態を指す。

初期形EF58とは「完全に別の機関車」と評しても過言でないほどに変化した外観となったが、「EF58形」の形式称号は継承された。兄弟形式であるEF15形も製造期間中に出力向上をはじめとする性能変更が多く生じているが、同様に一貫して「EF15形」の形式称号を継続している。

[編集] 開発の経緯

上越線は、1931年の全通時から清水トンネルを擁する水上石打間が電化されていたが、1947年には高崎長岡間の全線電化が完成し、160kmに及ぶ長距離電化区間となっていた。しかし上越国境の山岳区間を越える勾配路線であり、低速の貨物用電気機関車が、旅客列車にも用いられていた。

そして、1952年には高崎線の電化が完成し、上野~長岡間270kmの連続電気運転が可能となった。高崎線は平坦路線であり、東京近郊の重要幹線である。上越線直通の長距離列車や高崎線内のローカル列車を牽引するため、電化に先立ち旅客用電気機関車が多数必要とされた。

一方、日本の最重要幹線である東海道本線の電化区間は、戦前の1934年丹那トンネルが開業して以来、長らく東京沼津間に留まっていた[4]

戦後、輸送力の逼迫と石炭の供給欠乏を背景として沼津以西への電化が進展した。電化区間は1949年2月に静岡まで、5月には浜松へ延伸された。そして1950年代初頭には浜松~名古屋間の電化も目前となり、東海道全線電化の完成も視野に入りつつあった。この電化延伸にあたっては、東京地区の普通列車を電車化することである程度の電気機関車を捻出した[5]が、それでも将来にわたって旅客用電気機関車の著しい不足が見込まれた。

折りしも日本は1950年朝鮮戦争勃発を機に新たな経済成長期(神武景気)に入っており、また1951年サンフランシスコ講和条約によって進駐軍の支配を脱したことで、国鉄も自律的な経営方針を採ることが可能となっていた。このような情勢から同年より新型電気機関車の開発が開始され、1952年初頭よりEF58形として順次落成した。

[編集] 運用の拡大

1952年4月の高崎線電化に伴い高崎・上越線に就役し、相前後して東海道本線にも進出した。

なお、EF58形は高速性能優先で登坂能力が弱いため、急勾配の峠越え区間である上越線水上~石打間は、前部補機EF16形を連結して通過した。

東海道本線電化は1953年7月に名古屋、1955年7月には米原へと西進した。そして1956年11月、最後の区間である米原~京都間の電化完成で、全線電化を達成する。

また東北本線も1958年4月に大宮宇都宮間が電化され、翌1959年5月には黒磯までが直流電化区間となった。

EF58形はこのような情勢下で大量増備され、1950年代後半の最盛期には、東海道本線の特急・急行列車普通列車を問わず、客車列車のほとんどを牽引するまでに至った。

[編集] 車体

EF58形113号機(廃車後、運転台部分のカットボディ)(2002年10月撮影)
EF58形113号機(廃車後、運転台部分のカットボディ)(2002年10月撮影)

自動式の暖房用ボイラーを搭載するため、そのスペースを確保する目的で車体が延長され、斬新な半流線型となった。

鉄道省→国鉄によって1920年代1940年代に製造されてきたすべての大型電気機関車は、蒸気機関車と同様に、長大な台車枠を相互に連結して土台とし、前後への牽引力もこの台車枠で受け持つ構造になっていた[6]。車体については、台車枠の動軸部分上に短い車体を載せるのが普通であった。この車体は蒸気機関車のボイラーと同じで牽引力を分担せず、単に機器室外覆の役割を持つだけである。

台車枠前後両端に配置された無動力の先輪上には、乗務員の乗降や入れ換え作業時の要員搭乗に使われるデッキとなっていた。乗務員は車体端面のデッキ側ドアから運転台に出入りしていた。

改良型EF58では台車枠を土台とする古い構造自体に変化はなかったが、先輪上のデッキを廃し、車体を先輪上の車端いっぱいにまで延長した。戦前の流線型機関車EF55形で片側の流線型部分のみ車端まで車体とした例はあったが、全長いっぱいの車体を載せたのはEF58形が最初である。結果としては全長19m弱に達する長大な車体となった。

車体支持点位置の関係上、車端部まで中央部並みの車体幅とするとカーブ通過時に車両限界を突破してしまう。そのため、先輪上に当たる運転台部分は車幅が徐々に狭まる形となり、断面が小さくなって、車体の長大さを強調することになった。

この運転台の前頭形状は、貫通扉を廃した半流線型の正面2枚窓となった。1950年下期から製造された80系クハ86形増備車のデザインの流れを汲む「湘南形」である。

床の高さと前頭部断面の小ささ、屋根部から接合された外板の曲げ半径の大きさが重厚な印象を持たせる。一方で、正面中央に折れ筋が入り、窓部分に傾斜の付いた湘南形の形態は、正面窓下に双曲線を描くクロームメッキの飾り帯と相まって、流麗さをも兼ね備えていた。

戦後形機関車らしい斬新な車体と、戦前技術の延長上にある古典的な台車枠の組み合わせは、この機関車のユニークな特徴である。

デッキ廃止により運転台は車体の先端に位置することになり、乗務員の乗降は運転台直後に設けられた側面ドアから行われるようになった。運転台からの視界は広がり、正面デッキ扉の廃止で隙間風も軽減され、乗務員からは好評を得た。運転室自体も広くゆとりがあり、乗務員の中には「相撲が取れる運転台」とオーバーに褒める者もあった。もっとも、隙間風が減った反面で風通しが悪くなったため、盛夏期には運転室が非常に暑くなるというデメリットも生じた。

[編集] 暖房用ボイラー

改良型EF58形には暖房用蒸気供給のため、自動式の重油ボイラー(蒸気発生装置)が搭載された。

冬期における客車の暖房は長らく蒸気暖房方式が主流であった。これは蒸気機関車の走行用蒸気の一部を流用して客車に引き通すものである。

1912年信越本線碓氷峠に電気機関車が導入されると、旅客列車に暖房用蒸気が供給できないことから、別にボイラーを搭載した「暖房車」を連結して蒸気を供給した。この手法はその後の他線区における電気機関車牽引列車にも踏襲され、結果として暖房車は1970年代後半まで使用されていた。

しかし、暖房車は起・終点でつなぎ換えの手間が掛かり、また重量がかさむため機関車には余分な重荷となった。加えてその多くは石炭焚きボイラーを用い、電化された路線でありながらホームに蒸気機関車並みの黒煙が漂うこともしばしばであった。さらに、暖房車には専属の係員を乗務させる必要もあった。

これを嫌い、1925年から電化された東海道本線横須賀線の普通客車列車の一部は、電気暖房装置装備の客車を使用し、機関車から直流1,500V電源の供給を受けて暖房を行っていた。だが電気暖房車は東京近郊のみの限定運用となっており、非電化区間に直通する大多数の客車は蒸気暖房のみの装備であった。なお、この1,500V電気暖房は電車への置き換え進展により、1950年頃までに廃止された。

暖房車問題に対する一策として、1937年に開発された旅客用電気機関車EF56形は、機関車内に暖房用の重油ボイラーと水・重油タンクを装備する手法を初めて採用、これは1939年に登場した強化改良型のEF57形にも受け継がれた。だがこれらにおいても係員の配備は必要で、改良の余地を残していた。

改良型の本形式に搭載されたのは、新たに開発された自動制御の水管式重油ボイラー「SG1形」である。EF56形・EF57形の煙管式ボイラーよりも強化され、かつ乗務員のボタン操作のみで簡単に扱えるという画期的なボイラーであった。

だが、短期間で設計された急造のボイラーであり、しばしば故障を起こした。

作家の内田百閒は、1953年の早春に(新)EF58形の牽引する上野発新潟行急行「越路」に乗車したが、機関車のボイラーが故障したため、高崎で機関車が交換されるまで暖房が効かず、寒い思いをした。内田は、この時の旅を描いた作品『雪中新潟阿房列車』の中で、EF58形のボイラーがあまりにしばしば故障するので、関係者に「『冷凍機関車』とあだ名されている」むねを記述している。

このため、自動ボイラーは1957年途中から改良型のSG1A形に移行し、それ以前のSG1搭載機も後にSG1Aに載せ替えている。

ボイラーの標準搭載は機関車運用の合理化に寄与し、本形式の運用範囲を著しく広げることになった。

[編集] 電装部品

電装品の規格は戦前同等の良質な水準を回復し、高速度遮断器をはじめとする安全策も十分に取られている。パンタグラフは電気機関車用として正式に設計された空気圧上昇式のPS14形となったが、末期形はやや幅狭に改良されたPS15形に移行、それ以前のタイプもPS15形に換装されたものがある。なお、末期になるとPS14・PS15形の部品不足から下枠交差式のPS22形に載せ替えた例も生じた。

モーターは新開発のMT42形[7]となった。MT38形とは基本的に同型で、給電側の改善により、架線電圧1,500Vを前提にした設計が可能になったためである。それまで、国鉄では電車・電気機関車とも、架線による抵抗や起動時の電圧降下を意識して、架線電圧を10%減の1,350Vとしてモーター出力を計算していた。とはいえ、戦中戦後期製造のMT38形に比して工作精度・部品などの質が格段に改善されている。初期形改造機については旧モーターのまま就役したものもあったが早期にMT42へ換装された。

[編集] 台車

基本レイアウトは旧EF58形から引き継いだ古典的なものである。動軸・従軸の別なくローラーベアリング装備としており、長距離運転に有利である。

先輪台車については、初期形以来のイコライザー式を継続して採用していたが、日立製作所で改造された5号機と28~30号機、及び新造された45号機については、イコライザーを廃した一体鋳鋼台車を装備していた。試験的なもので、一般化はしておらず、後に他のEF58からの廃車発生品であるイコライザー台車に交換されたものもある。

[編集] 前面窓

流線型車体となった当初のタイプは比較的大型の前面窓を備えていたが、1954年途中に製造の71号機以降については、前面窓の上下幅が縮小された。31号機以前の車体乗せ換え車についても時期により違いがある。また、いずれも後に窓ガラスをHゴム支持とするなどの改造で形態が崩れた例が多く、最終製造分には当初からHゴム支持となっていたものもある。

[編集] 耐寒設備各種

EF58 89 ひさし装備車(2004年5月29日、JR大宮工場にて撮影)
EF58 89 ひさし装備車(2004年5月29日、JR大宮工場にて撮影)

改良型EF58形の前面窓上には特にひさしは付けられなかった[8]が、上越線に投入されたEF58形については、冬期にトンネル坑口から垂れ下がったつららによって前面窓ガラスが破損することを防ぐため、前面窓上につらら切りを兼ねた大きなひさしを装備するとともに、汽笛にカバーが取り付けられた。後年、温暖地に転属となり汽笛カバーが撤去されてもこのひさしだけは取り外されず、上越型EF58の特色を廃車になるまで維持していた。

ひさしの取り付けは、この他に広島工場で一部の車体について施工されたが、これは左右一体型の大型ひさしで、取り付け目的も上越型のようなつらら対策ではなく、日よけを目的としている。

連結器下には線路上の排雪のためにスノープラウを装備することが可能である。その取付部形状には多くのバリエーションがあり、スノープラウ自体も角度固定式や角度可変式などの種類がある。角度可変式の場合は、運転室下にある専用シリンダによってスノープラウの尖り角度を変更することが可能となっている。

車体側面下部の冷却風取り入れ口は本来金属製であるが、後に温暖地配属のEF58形については新型機関車並みにビニロックフィルター化された。寒冷地運用のEF58形は凍結対策面で有利な金属製のままとされた。

[編集] EF58の特殊型

[編集] 7窓機(35・36号機)

EF58 36(2004年6月 広島にて撮影(許可済)
EF58 36(2004年6月 広島にて撮影(許可済)

1949年に東芝府中工場で製造が始められた。後にEF18形となった初期形EF58の32~34号機に続く増備車であり、本来はデッキ付の初期形の形態で完成する予定だった。

前述のドッジ・ラインの影響によって未完成のまま放置されたが、こちらの2両は32~34号機ほど工程が進んでおらず、1951年に至って流線型車体の改良型EF58に改造され、就役することになった。その際、半完成していた旧型車体の両端を切断して流線型の前頭部を接合し、完全新製車体並みの仕上がりとしている。

しかし、完全新製の流線型車体は側面窓が5枚であるのに対し、旧車体は7枚であるため、流線型で完成した35・36号機もそのまま7枚窓の異形車体となってしまった。

[編集] お召し列車牽引指定機(60・61号機)

改良型の新製機グループとしては初期にあたる1953年に製造された。60号機が東芝、61号機が日立製作所の製造である。1953年7月15日に60号機が浜松機関区へ、61号機が東京機関区へ新製配属された。

それまでお召し列車牽引用の電気機関車としては、戦前の1934年に製造されたEF53形後期形16・18号機が用いられていたが、車齢が高い上暖房用ボイラーがなく、東海道本線電化延伸に伴う長距離運転では旧式なプレーン・ベアリングゆえ摩擦で車軸が過熱する恐れもあった[9]

このため、お召し列車運用を前提として最初から特別に製造された[10]機関車が、EF58形60・61号機である。これらの就役により、EF53形は1954年にお召し列車の牽引から退いた。

天皇の乗用列車を牽引するという事情から、以下のような特別な装備が施されている。

  • 運転上の安全対策
  1. 連結器接触面、車輪の外輪部側面、台車バネ吊り部材、ブレーキロッドなど重要部材を磨き上げ、点検時に亀裂などの発見を容易にした。これは同時に装飾の効果もあった。
  2. 確実な速度監視のため、速度計を運転席の他に助士席側にも増設した。
  3. 電動発電機用の界磁抵抗器を増設し、一部が故障した場合のバックアップとした。
  4. 故障時用に予備部品と工具を搭載。
  5. 自動連結器が外れる事故を確実に防止するため、上錠揚止装置(連結解除レバーのロック)を装備した。
  6. 停車位置を確実にするため、運転室の側面下部に列車位置停止基準板を装備(引き込み式)。
  • 連絡設備
お召し列車編成内の供奉車(随行員・警備要員の乗車する車両)との連絡電話、および機関車前後の運転室相互間の伝声管を装備した。

さらに、両端の運転台前面には国旗掲揚器具を装備し、EF58形の特徴である前面の飾り帯は磨き出しのステンレスとして車体側面全周を取り巻くデザインとしている。これはお召し列車牽引指定機を識別するポイントであり、非常に美しい仕上がりとなっている。塗色は、当初はどちらも他車と同じくぶどう色2号であったが、61号機については1965年頃より御料車編成と釣り合う「深紅色(ため色)」と呼ばれるお召し機専用色[11]とされている。

日立、東芝ともにお召し列車専用の指名であるため、会社の名誉を懸けて製造・点検を入念に行い、国鉄納入前の社内試験も厳重に行われ、極めて良好な状態で納入された。予算は一般のEF58形より130万円高い6,300万円であったが、上記の特別仕様により、これらの機関車製造では両社共に大赤字を出したという。

61号機が初めてお召し仕業に充当された際の逸話であるが、新しい機関車であるとの話を耳にした昭和天皇は、列車出発前の東京駅ホームで、お召し列車牽引機の同機を間近に見たと言われている。機関車が(天皇の意向によって)天覧に浴したのは、希な事例であろう[12]

61号機は東京機関区、60号機は浜松機関区にと分けて配置された背景には、関西方面は浜松機関区が担当する計画があったためとされる。実際には当初は上りと下りで両機を使い分け、その後は61号機が本務機、60号機が予備機とされ、故障防止を兼ねて、毎月数回は一般の列車牽引にも用いられた。

両機はお召し列車運転時には入念な整備の上国旗を飾り、御料車編成の牽引に充当された[13]。本務機の61号機は昭和天皇のご乗用列車を100回以上牽引したと言われる。その他、お召し列車が交流区間や非電化区間で運転される時の1号編成の回送にも、直流区間は61号機が指名されることが多かった。

60号機は1967年5月、浜松で踏切事故の被害を受け2エンド側左台枠を折損した。1973年にお召し指定が解除された後は一般機と同じ扱いとなり、側面フィルタのビニロック化、正面窓のHゴム支持化などの改修工事が施工されたが、老朽化による故障多発により1983年5月18日付で廃車となり、6月初旬に大宮工場で解体された。61号機は60号機が廃車・解体された後の1987年に国鉄から東日本旅客鉄道(JR東日本)へ承継された。1980年代以降はその来歴を買われ、イベント列車の牽引機にも多く用いられた。2004年全般検査を終えてからも、多くのイベント列車で運用され、とくに2006年には10列車以上の牽引に充当された。2007年現在も稼働状態にある。

平成に入ってからはお召し列車の運転回数も減少しており、本来牽引すべき御料車の一号編成客車ともども老朽化が進行している。2007年7月に電車形式のハイグレード車両と特別車両(E655系電車)が落成し、一部の鉄道ファンの間ではその去就が注目されていたが、『Rail Magazine』誌2008年4月号(ネコ・パブリッシング刊)の記事で廃車される予定であることが公表された[14][15]

[編集] 電気暖房改造

1950年代末期から地方主要幹線の交流電化が進展する過程で、東北・上信越・北陸地区の幹線については電気機関車に電源供給設備を搭載、列車には電気暖房装置搭載の客車を充当することが一般化した。暖房用ボイラーを搭載しないことで電気機関車の小型化や軽量化に効果があるためで、主変圧器の3次巻線から簡単に暖房用電源を取り出すことができる交流電気機関車のみならず、搭載機器が多く重量制限の厳しい交直両用機関車や直流機関車にも波及した。

ただし、九州や北海道については非電化区間直通列車も多く、蒸気機関車やディーゼル機関車との兼ね合いもあって蒸気暖房のままとなっていた。結果、1960年代以降に開発された電気機関車の多くが電気暖房仕様となったが、客車には蒸気暖房配管も残されたため、電源供給ができない場合は蒸気暖房も可能であった。

そして、東北・上信越地区の客車のほとんどが電気暖房装備となると、その区間専用の電気機関車に保守点検や給油給水の手間がかかる暖房用ボイラーを載せておく必然性が低くなった。そのために1970年代初頭以降、高崎・上越・東北本線(黒磯以南)などで限定運用される本形式機はボイラーを下ろし、代わりにサイリスタインバータを搭載して電気暖房対応型となった。

電気暖房改造車
35・50・51・58・59・70~73・84~87・89・90・102~110・114・116・117・119~123・130~137・141・144・145・151~154・168・172~175

[編集] 運用の推移

1960年以降、昼行の特急・急行列車の分野で電車列車が台頭してくると、本形式は夜行列車を主な運用とするようになった。ブルートレイン牽引の本格的後継機であるEF65形500番台(P形)が登場した後も、寝台列車運用には盛んに用いられた。

最高許容速度こそEF65形に僅かに劣った(EF58形=100km/h、EF65形=110km/h)が、定格速度では著しく勝っており(EF58=68.0km/h、EF65=45.0km/h)、平坦線での高速域に限ればその牽引力はEF65形とも大差なかった。したがって110km/h運転が可能な区間の少ない路線や急行列車以下で主力だった旧型客車の牽引(最高速度95km/h)では、1970年代に至っても十分に実用機たり得たのである。なお、1950年代中期の速度試験でEF58形は123km/hの最高速度に到達してもいるが、営業運転ではそこまでの高速は出さなかった。

1960年代以降の国鉄は、高出力で貨客両用として用いることのできる新系列電気機関車を大量増備したが、これらは貨物列車牽引機としての牽引力をも満たせる汎用性を重視したため、高速性能は必ずしも十分に高くなく、旅客列車の高速牽引能力においてEF58形を上回るものはなかった。「旅客列車牽引のみ」を念頭に、高速性能最重視で設計された機関車は、事実上日本ではEF58形以降量産されていない。高速旅客列車対応形式としてはEF61形0番台が存在するものの、本形式の補完用として18両が新製されたのみで中止され、また機構的欠陥の問題からEF58形より先に運用を終了している。

新性能世代で本形式と同等の高速性能を備えた機関車の出現は、1968年から量産されたEF66形電気機関車まで待たなければならなかった。しかし、EF66形にしてもその開発目的は「重量・高速貨物列車の牽引」であり、国鉄末期に至ってようやく寝台特急運用に充当されるまでは貨物列車専用機であった。

また、新系列の直流電気機関車でも多数派であるEF60形とEF65形は、一般型客車牽引に必要な暖房供給装置、つまり暖房用蒸気発生ボイラーないし電気暖房用電源を搭載しておらず、1980年代初頭まで主要幹線で運行されていた旧型客車の暖房サービスの見地から、本形式を用いる必然性もあったのである。

それでも1978年以降は老朽化が顕著となって廃車が生じ、国鉄末期の荷物列車牽引運用を最後に、ほとんどが廃車された。荷物列車運用で重用された背景にも、暖房供給能力と高速性能の両立というEF58形の特性が存在していた。東海道・山陽本線の定期列車からは1984年2月に撤退、1985年3月には東北本線の定期列車から撤退し、最後まで残った紀勢本線の定期列車も1986年3月に撤退した。

[編集] ブルートレイン牽引

1958年10月ダイヤ改正で、後に「ブルートレイン」と呼ばれることになる特急列車用固定編成客車20系が東京 - 博多間の特急「あさかぜ」で使用を開始し、牽引機に本形式が使用された。当時においては戦後新製された唯一の旅客列車用大型機関車で、かつ、特急牽引機として既に実績を有していたことが主たる理由である。

1960年になると、本形式の一部に20系牽引の対応がなされた。外部塗色は従来のぶどう色2号塗装から20系に揃えた青塗装(青2号)に変更され、車体裾部のみをアクセントとしてクリーム色とした。20系乗務員室との有線電話回路が設置され、後に架線電源式の電動発電機 (MG) を搭載したカニ22形が20系編成に組み込まれた際には、架線異常時のMG緊急停止・パンタグラフ降下スイッチを追加している。車両番号の変更は行われず、後継形式のEF60形500番台やEF65形500・1000番台のような明確な番台区分は行われなかった。

本形式が東海道・山陽ブルートレインを牽引する際の最大の問題は、山陽本線上り列車での難所である瀬野駅 - 八本松駅間(通称「瀬野八」)において単機では登坂力不足のため、EF59形電気機関車などの補助を必要とすることだった。これを解消すると同時に、牽引定数向上(20系11両→13両)を図るため、1963年からEF60形500番台への置き換えが始まった。だが、一般貨物列車での大きな牽引力確保を重視してEF15形電気機関車と大差ない高速特性しか持たないEF60形は、高速の特急列車牽引には不向きで、高速巡航可能な本形式と同等のダイヤを維持することが難しく、故障や遅延を頻発させた。

1964年10月、東北方面初のブルートレインとして「はくつる」が運転を開始し、上野 - 黒磯間の牽引に本形式が使用された。1968年10月ダイヤ改正583系電車が投入され、当該運用は終了している。

1965年以降、東海道・山陽ブルートレインはEF60形に代わりEF65形500番台を主として使用してきたが、1972年の関西 - 九州間ブルートレイン増発に際しては本形式が牽引に充てられた。これは1960年代中期以降の度重なる関西 - 九州間ブルートレイン増発でEF65P・F形が不足気味になっていたこと、貨物列車増発のために山陽本線では並行ダイヤを組まざるを得ず、速度を110km/hから95km/hに引き下げたことが一因として挙げられる。

本形式はこの時点でクリーム色+青色の標準塗色になっていたが、該当する車両は既にブレーキを改造済であった20系に対応すべく空気関連装備を改造(元空気溜め管ホースの増設)し、P形と称した。

1984年に紀勢本線の客車運用が12系客車に置き換えられた際、同線で使用する本形式に同様のP形化改造が施工された。これはカーブの多い同線で12系客車の空気バネ台車に空気を充分に供給するための措置である。

P形改造車
35・36・38・39・42・50・62 - 66・69・71・74・77 - 82・84・85・96・99・103 - 105・107・110 - 119・139・147・149・170

本形式による関西 - 九州間ブルートレイン牽引はEF65形1000番台に置き換えられる1979年7月まで続いた。客車が次第に1424系化されるに伴い、牽引機関車を問わないこれら客車の牽引についてはP型以外の車両も使用された。

急行列車に転用された20系客車の牽引にも使用された。「銀河」(東京 - 大阪)では1976年の20系投入以降も引き続き本形式が牽引し、1980年10月まで使用されたほか、1970年代後期からは「天の川」(上野 - 秋田)の上野 - 新潟間を牽引し、EF64形1000番台が増備されるまで用いられた。

[編集] 現存する保存機

国鉄民営化時には61号機、89号機、122号機、150号機の計4両がJR各社に引き継がれ、1988年には東海旅客鉄道(JR東海)が157号機を購入し車籍復活させた。その後、イベント列車などに使用されてきたが、老朽化や客車列車の廃止に伴う機関車運用の減少に伴い3両は運用を離脱し、2007年現在は東日本旅客鉄道(JR東日本)の61号機と西日本旅客鉄道(JR西日本)の150号機のみが稼動状態にある。また、静態保存機は部分保存も含めて10両存在する。

[編集] 動態保存機

動態保存機は2007年11月現在、JR2社に2両在籍する。

団体専用列車として12系を牽引する61号機。群馬八幡-安中間にて。
団体専用列車として12系を牽引する61号機。群馬八幡-安中間にて。
  • JR東日本:61号機

現存するEF58形動態保存機の中でも最も古く、JR移行後もお召し列車牽引機に指定されているが、移行後にお召し列車として一号編成を牽引したのは3回である。そのため、主にイベント列車としての運用が目立つ。同機は過去に伊豆急行などに入線した実績がある。廃車予定が公表されたことは前述した。

  • JR西日本:150号機

イベント列車で瀬戸大橋を通過して四国旅客鉄道(JR四国)に乗り入れた実績があり、EF58形としては唯一本州以外の路線を走行した。2000年代に入ってからは本線を走行する機会が少ない。映画テレビドラマのロケにも使用され、2006年には映画旅の贈りもの 0:00発』(後述)に、2007年にはテレビ朝日系列のドラマ『松本清張 点と線』にも使用された。

[編集] 静態保存機

93号機
93号機
122号機
122号機
42号機(番号は44号機表示)の前頭部(鷹取工場イベントにて。前灯は取り外されているが、前灯部分のハウジング周辺に2灯式のシールドビーム化(「豚鼻」化)改修を施された跡が残っている)
42号機(番号は44号機表示)の前頭部(鷹取工場イベントにて。前灯は取り外されているが、前灯部分のハウジング周辺に2灯式のシールドビーム化(「豚鼻」化)改修を施された跡が残っている)

完全な状態で残っているもの

  • 89号機

JR東日本に引き継がれたものの、重大な故障を起こし1999年10月に運用を離脱した。その後、茶色から一般色に塗り替えられ、大宮総合車両センターで保管されていたが、2007年10月14日にさいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、展示されている。この展示にあわせて、再び茶色塗装へ戻された。

  • 93号機

前述のように青大将色で大宮総合車両センターにて保存されている。

  • 122号機

JR東海に引き継がれたが、飯田線トロッコ列車「トロッコファミリー」の運転終了に伴い、2006年5月に二次休車となった。2007年現在は車籍が残っており、浜松工場ED18形2号機とともに保存されているが、今後の取り扱いについては明らかにされていない。JR東海に引き継がれた当初は一般色であったが、後に茶色に変更された。

  • 157号機

国鉄時代の1985年に廃車となり日本国有鉄道清算事業団に引き取られたが、1988年にJR東海が購入し車籍復活した。その後は122号機とともに「トロッコファミリー」や各種イベント列車の牽引に使用され、122号機の運用離脱後も飯田線や東海道本線のレール運搬列車などに充当されたものの、2007年11月に運用を終え、浜松工場で122号機、ED18形2号機とともに保管されていたが、2008年3月31日付で除籍された。今後の取り扱いについては明らかにされていない。なお、同機は2007年まで最後に残った動態の一般色EF58形であった。

  • 172号機

1985年に廃車された後、1999年群馬県安中市(旧・碓氷郡松井田町)に開園した碓氷峠鉄道文化むら日光線お召し列車牽引時の装備を再現した状態で保存されている。

車体の一部が保存されたもの

前頭部のみが保存されている154号機
前頭部のみが保存されている154号機
  • 36号機(車体半分)

広島県内で個人保存

  • 42号機(番号は44号機となっている。前頭部のみ)

JR西日本鷹取工場内にて保存されていたが、同工場閉鎖後は大阪府内の企業が保有しており、イベントなどで展示されることもある。

  • 113号機(前頭部のみ。台車付き)

JR貨物広島車両所内にて保存されている。

  • 144号機(前頭部のみ)

1エンド側がさいたま市内、2エンド側が栃木県内で保存されている。

  • 154号機(前頭部のみ)

大宮総合車両センター内で保存され、青大将色である。

[編集] 塗色

長年にわたって使用されたことから、塗色にも幾多の変遷がある。

まず、全車とも一度は戦前以来の標準色である焦げ茶色(ぶどう色2号)単色であった時期がある。

後述の東海道本線全線電化、および青大将色採用に先立ち、1954年から4・16・18・31号機を用いて塗色試験が行われていた。これらは4両とも初期形(車体載せ替え機)ゆえ当時は主電動機の出力が低かったためか、試験終了後はぶどう色2号に戻された。このうち濃淡緑色の上下2トーンに彩色された4号機は当時のフランス国鉄 (SNCF) の電気機関車の塗色を模したものと言われ、また東海道本線全線電化時の記念切手にも同車が描かれている。

1956年の東海道本線全線電化に際し、特急「つばめ」「はと」牽引機用として実際に採用されたのは淡緑色(淡緑5号)に下部黄色(黄1号)というもので、東京機関区および宮原機関区所属の計25両にこの塗装が施された[16]。これも当時としては斬新であり、同系の淡緑色単色(屋根部銀色)とされた客車ともども「青大将」と呼ばれた。

「青大将」塗装対象車
37・38・41・44~47・49・52・55・57~59・63・64・66・68・70・86・89・90・95・99・100・140

しかし、1960年にこの2列車が151系電車に置き換えられた後は、順次元のぶどう色2号に戻された。ちなみに青大将色と、ほぼ入れ替わりに登場した寝台特急牽引機塗色の双方が施工された車両はない。93号機は廃車後に青大将色に塗装されて大宮総合車両センターに保存されていることは前述したが、同機は1956年の電化時に青大将色への塗り替えは実施されていない。

1960年以降、寝台特急牽引機は前述の通り青に下部クリーム色塗色となった。

「寝台特急色」塗装対象車
92・97・101・114~117・119・122~124・128・138・139・142~144・148・149・154

1965年以降、後述の60・61号機を除く全車が新型直流電機標準色の青(青15号)に前面下部クリーム色(クリーム1号)に順次変更された[17]。EF58形は機構的には旧型に属するが、高速性能に優れているため、警戒を促す意味を持たせたためである。わずかに元お召し列車用の60号機が廃車までぶどう色2号を保ったほか、お召し列車用の61号機が1965年頃から大宮工場で独自調合された深紅色(ため色)であった。

のちに1984年になって89号機がぶどう色2号とされ[18]、1999年に廃車された後の大宮工場保存時に元の標準色に戻されるまでぶどう色2号で使用された。また150号機がJR化直前に車籍復活する際、ぶどう色2号塗装とされたほか、同時期に車籍復活した122号機も1992年以降ぶどう色2号とされている。

[編集] EF58形に関連する商品

[編集] EF58形が登場する映画作品

[編集] 脚注

  1. ^ 端子電圧675Vで出力275kW、EF57形のMT38形と同等出力。
  2. ^ 燃料にする重油の入手にも事欠いた時代である。
  3. ^ 台車の心皿間隔を100mm修正した。
  4. ^ 関西地区では1934年~1937年にかけて京都神戸間が電化されていたものの電車専用で、この区間の客車・貨物列車は蒸気機関車牽引であった。
  5. ^ 湘南電車および国鉄80系電車の項を参照。
  6. ^ 台車枠の両端に連結器が装備されている。
  7. ^ 端子電圧750Vで出力325kW。
  8. ^ ごく小さな水切りを装備するのは1954年新造分およびその頃から後付け。
  9. ^ EF58形は全車軸がローラーベアリングで長距離運転でも車軸発熱しにくい。
  10. ^ 21世紀初頭の現在まで唯一の事例である。
  11. ^ ぶどう色に似ているが、ぶどう色ではない。大宮工場が独自に調合したものである。
  12. ^ 交友社刊『EF58ものがたり』による。
  13. ^ なお、お召し列車運転前の整備は61号機の場合、長年大宮工場が専属で受け持っており、その名残からJR移行後も定期検査は大宮工場の機関車部を引き継いだ日本貨物鉄道(JR貨物)大宮車両所に委託している。
  14. ^ 東日本旅客鉄道(株)鉄道事業本部運輸車両部車両運用計画グループ 白土裕之「3月15日ダイヤ改正 JR東日本 客車・機関車の動き さようならEF58 61、夢空間、ゆとり…」『Rail Magazine』2008年4月号(通巻295号)、ネコ・パブリッシング。
  15. ^ 編集長敬白 「あの“ロクイチ”にもついにその刻が…。」(ホビダスブログ)
  16. ^ このときの塗り替え対象車には鉄道博物館で保存されている89号機も含まれている。
  17. ^ 157号機がこの塗色であったが、2007年11月15日付けで廃車となった。写真参照。
  18. ^ この時、同機がつらら切りひさしを装備したEF58形として解体を免れていたため、EF58形の人気にあやかり当時の国鉄東京北鉄道管理局の計らいで計画を変更したためと言われている。
  19. ^ 1991・95年発売分はデッキ付の旧型車体仕様。
  20. ^ この発売年については異説もある。『鉄道模型趣味』No.484(1987年3月)、p.19には「16番ゲージでEF58が初めて製品化されたのは1954年にさかのぼるが…」の記述がある。
  21. ^ 香港ケーダーが製造を担当した。当時トミーは『TOMY HO Scale』なるブランドを設け、『TOMIX』はNゲージ用ブランドとして区別していた。

[編集] 関連項目

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