虫プロダクション
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虫プロダクションは(むし-、虫プロ)は日本のアニメーション制作会社である。漫画家でアニメーターである手塚治虫が関係したアニメーション専門プロダクションである。本項では1961年に設立され1973年に倒産した「株式会社虫プロダクション」(旧虫プロ)とその子会社である虫プロ商事、1977年に旧虫プロの労組を母体として設立された「虫プロダクション株式会社」(新虫プロ)に分けて記述する。
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[編集] 虫プロダクション株式会社(新虫プロ)
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場
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本社所在地 | 177-0034 東京都練馬区富士見台二丁目30番5号 |
設立 | 1977年11月 |
業種 | 情報・通信業 |
事業内容 | アニメーション制作および著作権管理 |
代表者 | 伊藤叡(代表取締役) |
資本金 | 12,000,000円 |
外部リンク | www.mushi-pro.co.jp(公式サイト) |
特記事項:練馬アニメーション協議会幹事 | |
虫プロダクション株式会社は1977年に創設されたアニメーション制作および著作権管理を主な事業内容とする日本の企業である。旧虫プロの労働組合が中心となって設立された。主に劇場用アニメーション映画の制作を行っている。創立時に、旧虫プロ作品の著作権が手塚から新虫プロに譲渡されたため、旧虫プロ作品の著作権管理も主な業務になっている。本社は東京都練馬区富士見台二丁目30番5号。
手塚プロダクションとは、起源として手塚治虫が関係していると言う点以外は、企業としては直接的な関係がないことに注意を要する。ただし、手塚治虫と共同でアニメ作品を手がけている点からも手塚本人との関わりはあったことは確かである。
[編集] 主な作品
- 北極のムーシカ・ミーシカ(映画、1979年)
- 綿の国星(映画、1984年)
- ワンダービートS(テレビシリーズ、1986年)- 手塚治虫 企画・監修作品
- 伊勢湾台風物語(映画、1989年)
- うしろの正面だあれ(映画、1991年)
- ライヤンツーリ-のうた(映画、1994年)
- PIPI とべないホタル(映画、1996年)
- マヤの一生(映画、1996年)
- えっちゃんのせんそう(映画、2002年)
- 明日をつくった男(映画、2003年)
- NAGASAKI 1945 アンゼラスの鐘(映画、2005年)
[編集] 株式会社虫プロダクション(旧虫プロ)
株式会社虫プロダクション(通称、旧虫プロ)は、1961年6月に手塚治虫が創設したアニメーション専門のプロダクション。
最初期の名称は手塚動画プロダクション(手塚治虫プロダクション動画部であったという説もあり)。手塚はこれ以前に、東映動画嘱託としてアニメ制作に携わったことがあり、その経験と人脈を生かしてプロダクションを立ち上げた。1962年1月、虫プロダクションに名称を変更した。名称の由来は、「動画の虫」、「漫画の虫」、スタジオが狭く蒸していたので「蒸し風呂」から「虫プロ」にしたという。手塚本人は言及していないが、手塚治虫の筆名の最後の1字もとっている。
同年11月、第1作である短編アニメーション映画『ある街角の物語』及び『鉄腕アトム』第1話を公開。同年12月、株式会社として法人登記。翌1963年1月、日本初の本格的連続テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を、1965年に日本初のカラーの本格的連続テレビアニメ番組『ジャングル大帝』などの多くのアニメ作品を制作(その後も「どろろ」などのモノクロ作品は制作していた)し、従業員数も400人を数える日本有数のアニメーションスタジオになった。テレビ向け作品は多くがフジテレビで放送された。初期には手塚原作の作品のみを制作していたが、末期には『あしたのジョー』など手塚作品ではない漫画のアニメ化も行った。多忙な手塚の決済を仰いだり、手塚からリテイクの要求が出て、スケジュール遅延の原因となったことが、手塚作品を原作に用いなくなった理由の一つと言われる。なお現在と異なり、当時のアニメーターの給与はとんでもなく高く(航空会社パイロット並)、高卒で5年働けば家が建つ唯一の職場と呼ばれていた(某商業高校では、60年代にそのようなキャッチコピーの求人案内が貼られていた)。
1970年代に入り、極端な人材難(ベタ塗り等の必要な概念を持っている人間のみを採用する行為により、美術分野の学生を採用できなかったため入社試験合格者の大幅な減少を招いたことも一因とされている。)から、人件費が高騰。テレビアニメ制作プロダクションが多く設立されると他プロダクションとの受注合戦となり、これに破れる形でテレビ局からの受注が減少し、資金繰りが悪化した。子会社の虫プロ商事の経営悪化と労働争議も、金融機関が虫プロ本体に警戒を抱く原因になった。劇場用作品の興行的な失敗もあり、資金繰りが短期間に極端に悪化。1973年8月22日に関連会社の虫プロ商事が倒産。この後、銀行などからの融資が引き上げられたことが倒産の直接のきっかけとされるが、実際には、子会社の倒産を回避できないほどに、虫プロ本体の経営状態も悪化していた。8月現在で9月放映終了の『ワンサくん』以後の制作作品のめどはたっておらず、この時点で既に虫プロ本体の倒産は免れない状態となっていた。『ワンサくん』放映終了直後の1973年11月5日に3億5千万円の負債を抱えて倒産した。なお、手塚原作作品の率が少なくなってきた1971年に、手塚は社長を退任している。ただし、手形の保証などを手塚個人名義で行っていたため、手塚はその後残務処理に忙殺された。この倒産から新社設立までの間に、多くのスタッフは他のスタジオへと移籍していった。また、プロ野球球団・ヤクルトアトムズがヤクルトスワローズに名称変更したきっかけになった。
手塚自身もアニメーターであったため、「アニメーターにあらずんば人にあらず」というアニメーター尊重の社風であったことを在籍した豊田有恒、富野由悠季らが証言している。そして、手塚はアニメーターに「作家であれ」と主張し、実際に虫プロで『おす』『しずく』『タバコと灰』『創世紀』『めもりい』といった短編の非商業作品を制作した。虫プロ社内には、手塚の発案で、20万円の実験作品製作資金助成制度まで設けられていたという。テレビアニメ制作に忙殺されて、この制度が活かされることはなかったというが、商業性にとらわれない実験的作品を発表させるという趣向は、手塚が発刊した漫画雑誌『COM』とも共通するものである。
旧虫プロがアニメ史に果たした役割には、テレビアニメの時代を切り開いたこと、日本のアニメが漫画を原作とするストーリー性の強いものになったこと、虫プロのビジネスモデルをならってそれに続く新興アニメスタジオが勃興したこと、虫プロ出身者がその後のアニメ界で活躍し人材の育成供給の場になったことなどがある。
人材は、作家精神が旺盛だった東映動画から移籍した若手スタッフや横山隆一のおとぎプロ出身者などアニメ制作の経験者、貸本漫画などを描いていた漫画家、虫プロの生え抜きスタッフなどに負っていた。
[編集] 虫プロダクションのビジネスモデル
旧虫プロのビジネスモデルは、その後のアニメ製作の規範となった。2006年現在も、日本国内では、基本的に、旧虫プロが行ったものと同じ形態で資本回収が行われる形でのアニメ制作が行われている。
虫プロダクションが、制作プロダクションとしてテレビ局から受け取る制作費は実際にかかった経費よりも大幅に下回っていた。その赤字を関連商品の著作権収入(マーチャンダイジング収入)・海外輸出で補う日本におけるテレビアニメのビジネスモデルを確立したのは旧虫プロである。手塚が『鉄腕アトム』で予算的に引き合わないテレビアニメに参入したのは、自らの漫画の原稿料で赤字を補填し、他社の参入を妨げて、テレビアニメ市場の独占を図るためであったと言う。著作権収入というビジネスモデルについてはディズニーに倣ったものであったが、この著作権ビジネスでの副収入は他社の参入を許すこととなった。「鉄腕アトム」後、旧虫プロ主宰者の手塚は、当たりはずれの大きいマーチャンダイジング収入にはなるべく頼らない作品作りを目指そうと考えた。しかしそのような方式のアニメ制作は定着せず、「鉄腕アトム」式のビジネスモデルが旧虫プロ以後の時代も引き継がれた。
旧虫プロは、基本的に作品の著作権をテレビ局に売り渡さなかった。もちろん、そのような形態の作品は当時から存在はしたが、虫プロダクションの場合、マーチャンダイジング収入なしでは制作費の回収が事実上不可能なビジネスモデルであったため、戦略的に著作権を売り渡さない契約を行った。また、版権部という部署を設け、積極的に自社作品の著作権の管理を行った。ただし、他プロダクションの下請けや、人形劇番組のアニメーション部分を下請けの形で請け負ったことはある。
『鉄腕アトム』を輸出する際も、期限を区切った配給契約を結び、放映時に必ず虫プロダクションの名を表示することと、フィルムの編集には虫プロダクション側の合意を必要とする契約を、アメリカのテレビ局NBCの子会社NBC FILMSと締結した。NBCのネットワーク放送に乗せられず、シンジケーションによる番組販売という形で放送される形だった。30分枠52話という長時間の番組をアメリカに配給契約という形で輸出したのは「鉄腕アトム」が最初、というのが当時旧虫プロ社長だった手塚治虫の説明である(のちに、契約話数は104話に増加)。ただし虫プロ文芸部に所属した豊田有恒によれば、『鉄腕アトム』は世界配給権はアメリカのNBC FILMSが取得して、ドイツやメキシコで放映されても虫プロの収入にはならず、またNBC FILMSへの納品にはアメリカで放映できるものという条件だったため、英語への吹替費用を虫プロ側が負担し、アメリカでの放送に適さない場合の編集は虫プロ側が行なっているのが実態であった。こうした経験から、『鉄腕アトム』に次いでNBC FILMSと契約した『ジャングル大帝』は当初から輸出を前提とした作品作りを行なっている。しかし、この形での輸出は定着せず、後に輸出を開始した竜の子プロダクション(タツノコプロ)作品などは、日本側スタッフ・プロダクション名の表示なしで、現地で大幅に編集して放映することが許可された。
(なお、虫プロダクションと異なり、テレビ局側が用意した企画・脚本を元に、プロダクション側は動画制作のみを行う形態の作品も、1960年代には存在した。ただし、この形式での製作は主流にはならなかった)
旧虫プロは、東映動画など従来のアニメーション制作スタジオと同様に、企画・脚本・キャラクター設定から動画や彩色、録音などのすべての工程を社内で行う内制システムをとっていた。この方式によって、作品を早く仕上げ、品質を保つことができた。その後、他プロダクションが相次いでテレビアニメを制作するようになると、注文の奪い合いになった。しかし、受注が減ってくるようになっても、全スタッフには基本給を支給しなければならない。最終的には受注減が根本的な理由になって、旧虫プロは倒産した。この後、同様の内制システムをとっていた東映動画でも労働争議が起き、最終的に東映動画でも内制システムを破棄。動画・彩色はさらに下請けのプロダクションに出来高払いで発注するようになった。
その後はアニメ制作プロダクションは、テレビ局から直接受注を請ける企画プロダクションと、そこから動画・彩色などを孫請けの形で請ける動画プロダクションにはっきり分けられるようになった。(企画プロダクションでも、若干の動画・彩色スタッフは存在することは多い)この点では、現代のアニメの制作システムは、旧虫プロ時代の頃とは異なっている。
旧虫プロも外注は行ったが、まるまる1話を下請けプロダクションに制作させるという方式(いわゆるグロス請け)で、動画・彩色などの工程ごとに孫請けプロダクションに発注する21世紀初頭での主流の外注方法とは異なる。
[編集] 主な出身者
- 山本暎一
- りんたろう
[編集] 虫プロ出身のアニメ制作会社
- サンライズ (営業系の人材が主体となり独立)……岸本吉功等
- マッドハウス (制作系の人材が主体となり独立)……りんたろう・川尻善昭 等
- グループ・タック(音響系の人材が主体となり独立)……田代敦巳等
- ナック……西野聖市・小柳朔郎・月岡貞夫等
- アートフレッシュ ……杉井ギサブロー等
- アニメフィルム (動画撮影系の人材が主体となり独立)……清水達正等
- シャフト……若尾博司
- スタジオ・ライブ……芦田豊雄
- ぎゃろっぷ……若菜章夫
- 京都アニメーション……在籍経験がある八田陽子が設立
- アナザープッシュピン・プランニング……在籍経験がある野村和史が設立
- グルーパープロダクション……波多野恒正・波多正美
- イマジン……在籍経験がある酒井明雄が設立
[編集] 主な作品
[編集] 手塚治虫原作作品
- 鉄腕アトム(テレビシリーズ、1963年-1966年)
- W3(テレビシリーズ、1965年-1966年)
- ジャングル大帝(テレビシリーズ、1965年-1966年)
- 悟空の大冒険(テレビシリーズ、1967年)
- 新宝島(単発テレビ作品、1965年)
- リボンの騎士(テレビシリーズ、1967年-1968年)
- バンパイヤ(虫プロ商事製作、テレビシリーズ、1968年-1969年)
- どろろ(テレビシリーズ、1969年)
- ワンサくん(テレビシリーズ、1973年)
[編集] 手塚治虫原作以外の作品
- わんぱく探偵団(テレビシリーズ、1968年-1969年)
- アニマル1(虫プロ商事製作、テレビシリーズ、1968年)
- 佐武と市捕物控(テレビシリーズ、東映動画、スタジオ・ゼロとの共同制作、1968年-1969年)
- アンデルセン物語(テレビシリーズ、1971年)
- さすらいの太陽(テレビシリーズ、1971年)
- あしたのジョー(テレビシリーズ、1970年-1971年)
- 国松さまのお通りだい(テレビシリーズ、1971年-1972年)
- アニメラマ三部作(劇場作品)
[編集] 虫プロ商事
虫プロ商事(むし-しょうじ)は旧虫プロの子会社。元々は虫プロの出版部門であり、『鉄腕アトム』のファンクラブ会報などを制作していた。『鉄腕アトム』のテレビ放送終了と前後して、1966年9月、出版社として独立。虫プロの今井義章常務が社長に就任した。漫画雑誌『COM』と児童向けの漫画レーベル『虫コミックス』の発行や、海外販売などの営業、特撮テレビ番組の制作、グッズの著作権管理を行っていた。1971年9月に労働争議が発生。その後これが知れ渡ると、銀行からの資金調達なども難しくなり、最終的には資金繰りの悪化などから、1億2千万円の負債を抱えて1973年8月22日に本体の虫プロダクションより若干先に倒産した。虫プロ最後の作品『ワンサくん』をプロデュースした西崎義展が一時社長の代行を務めた。倒産時、手塚は名目上、同社役員になっていたため、残務処理のためにこの時期、作品数が減少した。