食堂車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
食堂車(しょくどうしゃ)とは、鉄道の客車(鉄道車両)の一種で、広義には車内に調理を含む供食設備を設けているものをいう。
1970年代(昭和50年代前半)までは、ほとんどの長距離列車が食堂車を連結していたが、現在は列車の速度向上等により運転時間が短縮されたなどから食堂車を連結する列車は減少傾向にあり、現状では本州~北海道を結ぶごく少数の夜行列車に限られている。
目次 |
[編集] 食堂車とビュフェ
狭義で食堂車・ダイニングカーは、市中のレストラン並みに労力のかかる本格的な料理の調理・供給が可能な調理設備と接客に充分なテーブル席を備える本格的なものを指し、簡易食堂車であり一般の座席車との合造となっている場合も多い「ビュフェ(車)」を含まないが、広義にはビュフェもまた食堂車に含められる。旧国鉄・JR在来線における車両記号は、食堂車・ビュフェとも「シ」で表記される(詳細は下記の構造の節を参照)。
旧国鉄・JR各社の用語では「ビュフェ」と表記されるが、車内の案内放送では車掌や食堂会社従業員が「ビュッフェ」と発音することがある。
ビュフェでは調理設備が本格的な食堂車に比べて簡略化されており、人員も少ないことから、本格的な調理を行なうことは少なく、比較的簡単に労力をかけずに調理できる軽食や飲料、調理済みの冷凍食品や冷蔵食品を電子レンジで再加熱して利用者に供するのみとなっている。また、ビュフェではカウンターに椅子すら用意されていない立食スタイルが一般的で、カウンター席があってもテーブル席がないか、テーブル席があってもその数は極少なくなっている。
[編集] 日本以外の食堂車
[編集] アメリカ
[編集] 歴史
アメリカで本格的な食堂車が登場したのは1860年代である。それ以前にも供食設備を持つ客車は存在し、列車内における食事の提供は1830年代から行われていたようだが、継続的なサービスに繋がっていなかった。この時代、駅や車内では物売りが果物や軽食を販売し、食事時には食堂のある停車駅で食事のための停車時間がとられていたので、車内での飲食を望む優等旅客はそれほど多くなかった。
このような事情から、初期の食堂車のほとんどは、客車の一部を食堂とした小規模なものであった。寝台車サービスで有名なプルマン社は1868年に全室食堂車「デルモニコ」を建造したが、これは例外的な存在であった。プルマン社は優等旅客への供食サービスにも力を入れていたが、その主役はホテル・カーと呼ばれる厨房付きの寝台車で、食事時には座席にテーブルが据え付けられ食事が提供された。
全室食堂車が流行したのは1870年代後半で、東部や中西部の鉄道会社はこぞって食堂車を建造し、コース料理の提供をはじめた。この傾向は貫通路が開発され、車両間の移動が簡単になったことで加速し、19世紀の終わりには長距離列車には食堂車の連結が当たり前となった。
アメリカの食堂車は慢性的に赤字であった。優等旅客を対象とすることからメニューはフランス料理やクレオール料理のコースが主流で、客単価も高かったのだが、一流レストランと同等以上のサービスを提供するために多数の要員を必要とし、それ以上の費用を要した。このため、プルマン社は波動輸送用の数十両を除けば全室食堂車を経営することはなく、各鉄道会社は自社で食堂車を経営し、旅客誘致の目玉としてサービスや味を競いあった。全盛期の1920年代には60の鉄道会社が1000両以上の食堂車を運営していた。なお、食堂車運営にあたっては個々のサービスの向上は勿論の事、経営主体が同じであれば、列車が異なっても同質のサービスを提供することが重視され、食器やウェイター、ウェイトレスの制服の統一が図られた。左図のフレッド・ハービー社(アッチソン・トピカ・サンタフェ鉄道で食堂車を受託経営)の制服はその典型的な例で、この制服をまとった女性従業員「ハービー・ガール」は中西部から西海岸にいたる広大な営業エリアで提供された均質で高いサービスの象徴として好評を博した。
(なお、使われた食器が一級品で、鉄道会社独自のデザインが反映されたものであったために、これらを「レイルウェイ・チャイナ」と総称し、コレクションする趣味がアメリカでは盛んである)。
全盛期のアメリカの鉄道では、食堂車のほか、ビュフェやカフェ・カー、ランチ・カウンター・カーといった簡単な厨房を持つ車両で供食サービスを提供するケースも多かった。その目的は、コース料理を必要としない普通旅客に対する安価な食事の提供と、優等旅客の軽食や喫茶の需要に応えることにあり、長距離列車では目的に応じてこういった設備を持つ車両が数両連結されるのが通常であった。
上記のようにアメリカの食堂車は1920年代から40年代にかけて全盛を極めたが、それ以降は急速に衰退する。優等旅客は航空機に、普通旅客は長距離バス(グレイハウンド)にシェアを奪われ、旅客は大幅に減少、多数の要員を必要とする食堂車の経営は成り立たなくなってしまった。多くの場合、食堂車は列車の廃止とともに消滅したが、食堂車サービスのみ削減し、車内販売に置き換えるケースも散見される。サザン・パシフィック鉄道では大陸横断の長距離列車でも自動販売機による軽食販売に置き換えるケースなどがあり、その劣悪なサービスがアムトラック成立の後押しをしたとも言われている。
その後、アメリカの長距離旅客列車の多くは1971年にアムトラックに移行し、食堂車もアムトラックの経営となり、現在に至っている。
[編集] 現状
アメリカのアムトラックの列車のほとんどは供食設備を備えている。夜行列車のほとんどは、コース料理を提供する食堂車を連結しており、中距離列車もカウンターとテーブル席を備え、ホットドッグやサンドウィッチを提供するカフェ・カー(ビュッフェ)を連結している。運転時間が長大であることと、駅構内の売店が少ないことなどがその理由である。カナダの旅客列車を運行するVIA鉄道においても事情は似たようなものであるが、中距離列車では、供食車両を設ける代わりに、飛行機の機内食同様の食事のシートサービスが行われている。
[編集] ヨーロッパ
西ヨーロッパでは日本と同様、食堂車は減少・簡略化傾向にあるが、その様相は国ごとに異なる。
フランスでは、かつて「ル・ミストラル」などの優等列車ではフルコースのフランス料理が提供されていたが、夜行列車を含めてサンドウィッチ程度の軽食を提供するビュッフェ車以外は全廃されている。ドイツ、イタリア、スペインなどに向かう国際列車の中には料理を提供する食堂車を連結するものがあるが、これらはすべて乗り入れ先の国側の鉄道事業者が運営するものである。ユーロスターなど一部の高速列車では狭義の食堂車は連結されていないが、二等車乗客向けにビュフェ車が連結されており、一等車の乗客には座席に飛行機の機内食同様の配膳サービスが行なわれている。
ドイツでは、食堂車の慢性的な経営難により、国際列車や夜行列車を除く本格的な食堂車のビュフェ車(ビストロ)への改装が進められている。但し、ドイツのビュフェ車のメニューは他国の同種の車両に比べると豊富で、経営規模も比較的大きい。
一方、イタリアやスイス・スペインでは昼行列車の食堂車のてこ入れが積極的に行われている。ユーロスター・イタリアの食堂車は本格的な厨房設備を擁する。スイスではファストフード店に似た供食設備を持った車両の試みも行われている。スペインでは、国内の長距離列車・国際列車などでのフルコースメニューを中心としたサービスが継続されている。
なお、西ヨーロッパの夜行列車の個室寝台車では、簡単な朝食のサービスを行う列車が多く、朝食料金は寝台料金に含まれている場合が多い。夜行列車の夕食・朝食時刻は前夜指定するのが通例だが、客席まで朝食が届けられる場合と、夕食同様に指定した時刻に食堂車へ客が赴く場合と二通りがある。
[編集] 中国
中国の場合、広大な国土ゆえ現在でも24時間以上(最も長い上海 - ウルムチ間列車は48時間以上)かけて走破する列車が多数有り、寝台特急等の長距離列車には大抵食堂車が連結されている。中国語では「餐車」(ツァンチョー cānchē)という。中華料理は地方によって味付けがかなり違い、特色があるが、食堂車も所属管理局によって味付けに多少地方色がある。朝食は麺料理のみの場合が多い。最近では、車内売りの弁当も食堂車で作っている。短距離の特急の場合は、車内の売店で弁当、カップ麺、フルーツの盛り合わせ、菓子などを用意して販売しているだけの場合が多い。
[編集] その他
この他、長時間走行を行う列車が存在する国や地域においては何らかの供食設備を持つ事が普通である。東ヨーロッパやロシアなどの長距離列車は、食堂車を連結し、インドの長距離列車は、調理設備を持つ車両を連結し、調製した料理の客席へのサービスを行っている。韓国では、セマウル号を中心にソウルプラザホテル運営の食堂車を連結し、車内で韓国料理の提供を行うなどしていたが、ソウルプラザホテルが運営から撤退し(現在は別業社が運営)、KTX開業により、食堂車を連結した列車自体が減少した。
[編集] 日本の食堂車
日本の場合、日本全土に建設・運営を行ってきた日本国有鉄道及びJR各社に連なる私営鉄道・官営鉄道によるものと地方鉄道法・軌道法による都市間ないしは観光鉄道が起源とした20世紀後半以降現在に連なる私鉄・民鉄によるものが挙げられる。この車種を乗客が必要とする長距離列車の運行は主に前者が行うが、後者でも乗客サービスのために設ける場合もある。
[編集] 国鉄・JR
[編集] 歴史
[編集] 在来線
日本初の食堂車は、1899年5月25日に私鉄の山陽鉄道(現在の山陽本線)が運行した官設鉄道京都~山陽鉄道三田尻(現・防府)間の列車に連結した食堂付一等車である。しかし、当初は一等車の付随施設の側面が大きかった。なおこの時の車両は、山陽1227-1229号、国有後のホイシ9180形と考えられている[1]。官営鉄道(国鉄)では1901年12月15日[2]に、日本鉄道では1903年に導入された[3]。
この時は一等・二等車の客しか使用できず、官営鉄道、日本鉄道でも同様の措置をとっていた[3]。三等車の客には当時行儀の悪い者が多かったため、一等客に不愉快な気持ちを抱かせないようにする配慮、あるいは本来の座席より良い車両で漫然と時間をすごすことの防止[4]であったとされる。その後、1903年10月から山陽鉄道では閑散時間帯には三等客への部分開放を行ったが、三等車から一・二等車を通って食堂車へ来るのは禁じられ、駅に停車している時に車両の外を移動することと、身なりを整えることが求められたという。鉄道院でも、1919年8月から「一部食堂車に改造を加え、あるいはその連結位置を変更」して列車全体の旅客に開放した[5]。食堂車を挟んで一等・二等車と三等車を分ける施策は、戦後の初期まで続けられた[6]。
当初はどの食堂車もいわゆる洋食を供給していたが、1901年より第二次世界大戦前にかけて、一部の列車においては和食を給したものもあった。例として、1929年に運行を開始した特別急行列車「富士」は一等・二等車のみで編成された関係で洋食を給していたが、「櫻」に連結されていたものは三等車のみで編成していた関係で和食を給していた。そして1934年になると洋食を提供する食堂車は、「富士」と1930年に運転を開始した「燕」、更に山陽本線(京都~下関間)において一等展望車を連結するなど格式の高かった急行7・8列車、更に東京~神戸間運転で一・二等車のみによって組成された急行17・18列車(名士列車)の4往復のみとなり、他はすべて和食堂車になった。
大戦前は特別急行列車・急行列車に限らず、山陽本線、東北本線、日光線、参宮線、日豊本線、根室本線などの準急列車(現在の快速列車に相当)や、普通列車にまで食堂車が連結されていた。ただし、普通列車では長距離・観光用のものに限られた。直行列車も参照されたい。
日中戦争や太平洋戦争による運行統制により、1944年4月に一時的に中断。戦後1949年9月の特急列車「へいわ」復活と同時に、同列車と東京~博多間の急行列車に連結・営業を復活させ、以後順次拡大していったが、1960年代頃より普通列車・急行列車が徐々に客車から電車・気動車化される際に、気動車では特急用車両を除き食堂車が製造されなかったこともあり、食堂車連結・営業は客車による夜行列車ないしは、特急列車が中心になっていった。
最初の電車特急列車として151系電車を用いて運行を開始した「こだま」号については、「ビジネス列車」として運行されたことや試作的な要素があったため、当初は簡易食堂車であるビュフェ車のみであった。なお、これが簡易食堂車を「ビュフェ」と呼ぶことの初出とされる。このため、10系客車で夜行・寝台急行列車に用いるために製造された「オシ16形食堂車」は全室ながら、「ビュフェ」の扱いを受けていた。なお、現在のロビーカーに相当する扱いとされるが、これは目的が寝台設営・解体の際の避難場所と言う位置づけもあったため、「フリースペース」に準ずる扱いから来ている。
急行列車が電車化される際には、半室食堂車をビュフェ車として急行列車に連結した。サハシ153形による東海道本線急行列車群では寿司を、以降サハシ165・169形、サハシ451・455形による東北本線急行列車群・信越本線急行列車群などではそば・うどんを供していた。なお寿司営業は、山陽線転出後に職人の確保が困難となり、次第に営業休止となり1972年3月全ての寿司営業が中止されるとともにサハシ153形の営業列車はなくなった。
営業面では戦後復活した食堂車では日本食堂(現・日本レストランエンタプライズ<NRE>)1社体制であったが、独占批判を受け、復活後数年後には帝国ホテル、都ホテル、新大阪ホテル(リーガロイヤルホテルの前身)の参入に始まり、鉄道弘済会、上越線列車で営業した聚楽(大日本食堂→現・聚楽ティエスエス)、また昭和40年代半ばには鉄道弘済会系の大鉄車販、金鉄車販(現・北陸トラベルサービス)、中国車販、九州車販(現・西日本トラベルサービス)なども数年であるが在来線急行ビュフェ営業に参入しその食堂車・ビュフェ黄金時代を支えた。
しかし、在来線においては1972年以降、食堂車の営業休止もしくは不連結となるケースが多くなった。これには以下のような理由がある。
- 1972年に発生した北陸トンネル火災事故の出火原因が、食堂車の石炭コンロとされたため、裸火を使っての調理が出来なくなった。このため、電熱式のレンジを持たない旧型食堂車は必然的に使用できなくなった。なお、実際の出火原因は、後の検証で電気暖房関連の電気配線からの漏電によるものと判明している。
- 旧国鉄の財政難により、旧型客車を廃止する代わりの車両の製作が予算的に困難になった。
- 旧国鉄の合理化および労使間の抗争によりサービスが低下した。
- 食堂事業者の人員確保が難しくなった。
- これについては、労働条件が通常の食堂と異なり、「常に揺れる」・「厨房が狭い」・「専門化されアラカルトメニューの豊富さをまかなえない」などの特殊性があるが、事業者側も利用率の減少によりそれに対するノウハウを伝える様な教育制度を採用しなかったという面もある。
- 昼行特急列車の増発並びに新幹線との連携により夜行列車の需要が長距離であっても減退してきたことにより、夜行列車自体の運行区間の短縮及び効率化を図るために相対的なサービス低下を余儀なくされた。
- 新幹線を含む昼行特急列車の増発による特急列車の一般化やスピードアップなどで乗車時間が短縮され、比較的高価である食堂車での食事を摂る必要性が減少した。
- 特に1990年代以降、コンビニエンスストアなどにおける弁当販売の普及などにより、食習慣の変化などから食堂車の利用率が低下した。駅のホームで駅弁を購入して車内に持ち込む乗客も多い。
- 価格の割にメニューが貧弱で、コストパフォーマンスに欠けていたため。1980年頃からは電子レンジで加熱しただけの料理が多く、中には牛丼やたこ焼きなどファストフード並みのメニューまで登場していた。フルコースもしくは定食が当たり前であった戦前では考えられないような簡易なメニューでは乗客の支持を得ることはできなかった。
在来線の食堂車はビュフェ車連結の電車急行列車では1976年12月に中央東線の「アルプス」、信越本線の「信州」・「妙高」を最後に、昼行特急列車は1986年に「おおとり」・「オホーツク」を最後に連結が中止され、1993年3月の改正で東京~九州間の寝台特急の食堂車営業がそれぞれ廃止された。
787系電車に連結されていたビュフェは、2003年に営業を終了した。九州新幹線開業による利用距離・利用時間の短縮に伴い廃止されたものである。
[編集] 新幹線
1964年開業の東海道新幹線では列車の速度が速く、最大乗車区間である東京~新大阪間を開業当初は「ひかり」で4時間、「こだま」で5時間、翌年より1時間短縮されそれぞれ3時間10分・4時間程度と乗車時間が短かったため新幹線車両については、ビュフェ車のみ連結していた。
転換期となったのは1975年に山陽新幹線の博多開業に際して、乗車時間が最速の「ひかり」でも全線乗車する際では6時間以上と長時間となるために1974年より食堂車も合わせて製造し連結・営業を開始した。この36形は96両が製造され、1976年に3両を追加増備した。なお、戦後一時期に大量の食堂車が新規に製作されたのはこの時だけである。
最盛期は、日本食堂、ビュフェとうきょう(ジェイダイナー東海→ジェイアール東海パッセンジャーズに吸収合併)・帝国ホテル列車食堂・都ホテル列車食堂・丸玉給食(山陽新幹線内のウエストひかりビュフェのみ)・にっしょく西日本→Jウェストラン(現・ジェイアール西日本フードサービスネット、丸玉と同)・聚楽(上越新幹線ビュフェ)など多数の業者が参入した。当時の時刻表には列車ごとに担当の業者が書かれていたが、これは業者によって若干メニューが変わるためであり、乗客の中にはわざわざ好みの業者が営業している列車に乗るという人も多く見られた。また、業者によってはステーキなど一部の特化メニューで営業を行う事例も見受けられた。
1982年開業の東北新幹線・上越新幹線の場合は、乗車時間が短いためビュフェ車のみとした。
1985年に東海道・山陽新幹線に2階建車両を連結した新型新幹線車両「100系」がデビューした際に、食堂車として製造された2階建車両を東京駅 - 博多駅間を走る「ひかり」に連結した。しかし、100系車両は分割民営化後の増備車から食堂車に代えてカフェテリア車を連結したが、JR西日本が製造した「グランドひかり」編成については食堂車を連結した。
だが、1995年の阪神・淡路大震災発生以降0系電車の食堂車は営業休止となり、2000年には100系電車に連結していた食堂車の営業も停止した。
東北新幹線・上越新幹線で運行されていた200系電車に連結されていたビュフェは、2003年に営業を終了した。
新幹線の場合、在来線の項に指摘したような理由で食堂車の利用率が低下したこと、またスピードアップによる乗車(所要)時間の短縮したことなどの状況を踏まえ、JR各社も不要と判断したのである。
[編集] 現状
21世紀初頭の現在の日本の鉄道では、夜行列車の「北斗星」・「カシオペア」・「トワイライトエクスプレス」にのみ狭義の本格的な食堂車が営業している。
また、2006年に廃止された「出雲」では、営業していないがロビーカーと同等の扱いの「フリースペース」として食堂車を連結していた。
ビュフェは、JR九州の久大本線を走る「ゆふいんの森」にのみ連結・営業されている。
[編集] 北斗星・カシオペア
「北斗星」・「カシオペア」の食堂車は、出発時より21時すぎまでの間は「ディナータイム」として和洋食ともコース料理のみの予約制営業である。ディナータイム終了後、21時30分頃(利用状況により変動あり)から23時(オーダーストップは22時30分頃)までは「パブタイム」となり、列車利用者であれば予約なしでも利用できる。ハンバーグステーキやビーフシチュー(単品・定食)、スパゲッティ、カレーライス、ビール・ワイン等のドリンク類などが用意される。ただし、食材は上野でしか積み込まないため、上り(札幌発)では売り切れか売り切れ間近、となっていることが多い。
翌朝6時30分より朝食営業を行っており、こちらは予約なしで利用が可能。メニューは和定食・洋定食・ドリンク類などが用意される。現在はおかずを統一しているため、おかず以外ではご飯・味噌汁(和定食)かパン・スープ(洋定食)のどちらかを選択するだけとなっているが、和定食は積込食数が少ないため、早めに売り切れることが多い。
[編集] 夢空間
JR東日本がかつて保有していた夢空間編成には食堂車があり、これを連結して運行されるときには食堂として営業していた。
営業内容は、基本的に「北斗星」・「カシオペア」と同じ扱いで運行されていたものの、列車ダイヤの設定状況により異なる場合があった。
[編集] トワイライトエクスプレス
「トワイライトエクスプレス」については、17時30分から21時頃までを乗車前からの予約定員制である「ディナータイム」とし、季節ごとに内容の変わるフランス料理フルコース(1万2000円)を提供している。以後、21時頃から23時頃までを上記の「北斗星」・「カシオペア」と同様に「パブタイム」とし、ビーフピラフ、ビールやワインなどドリンク類のほか、地鶏のから揚げやフレンチポテト、ミックスナッツといった軽いおつまみを提供している。なお、「北斗星」・「カシオペア」とは異なり、和風日本海懐石御膳(6000円)は食堂車で食べることはできず、ルームサービス(A寝台のみ)かサロンカーなどで食べることになっている。
翌朝6時00分からは「モーニングタイム」となっているが、30分刻みの定員制であり、希望者は乗車後に車内で和食・洋食のいずれか、また利用時間を予約をすることになっている。
大阪発では13時から16時まで、カレーライスやサンドイッチなど品数限定ではあるが「ランチメニュー」を提供しており、現在の日本の列車の中で唯一、朝昼晩3食を提供する列車である。一方、札幌発は14時台と遅いため、発車後から16時頃までコーヒー、紅茶程度を提供するティータイムのみの営業となっている。
[編集] ゆふいんの森
「ゆふいんの森」の場合はビュフェであるが、目的地の由布院まで博多からでも2時間程度のため、移動中の喫茶店としての側面が強く、食事らしい食事は提供されていない。かつてはカレーライスやスパゲッティなどフード関係も充実していたが(在来線時代のつばめビュフェで販売されていたものとほぼ同じメニュー)、現状は地ビールなどのドリンク類やおつまみ程度に限られており、食事と見做せるものは「あんかけ堅焼きそば」のみとなっている。
[編集] 私鉄
[編集] 歴史
国鉄・JR以外の日本の鉄道事業者(いわゆる私鉄。以下単にこう称する。)では、主に座席指定席を有する長距離の特別急行列車を運行する会社で運行する事例が多い。
電車に初めて食堂車を連結したのは南海鉄道(現・南海電気鉄道)である。これは、1924年に登場した電7系という木造17mの4両編成の電車で、大阪-和歌山間の急行列車に連結されていた。食堂車は電付6形で手荷物室・特別室・食堂の合造車であったため、俗に「クイシニ」と呼ばれている。この電付6形には本格的な厨房を備え、12名分の席が設けられていた。またこの電7系は便所付きで、貫通幌を備えていたことも特筆に価する。
戦後においては、長距離列車としては近畿日本鉄道"京都 - 伊勢志摩間特急"(「京伊特急」とも。近鉄特急を参照のこと)の京都駅 - 賢島駅間が195.2km・2時間45分、東武鉄道「きぬ」の浅草駅 - 新藤原駅間が136.6km・2時間15分であり、JR東海と共同ながら小田急電鉄が運行する「あさぎり」の小田急新宿駅 - JR沼津駅間が121.8km・2時間、小田急が単独で運行する「はこね」・「スーパーはこね」の新宿駅 - 箱根湯本駅間で88.6km・1時間30分などの列車が運転されているが、概ね200km以内・2 - 3時間程度となることから、JR九州の「ゆふいんの森」の事例と近く、これらの私鉄列車の供食設備・メニューも茶菓・軽食中心になっている。
かつては、こういった列車の場合、運行時間が日中・休日などに限られていたが、朝夕の通勤時間帯や走行距離の短い列車で運行される事例が多く見受けられる。そういった列車の場合では「従事者の帰宅・出勤が困難になる」、「人員の確保が難しい」、「着席サービスが優先であり、物品の補充を行っても翌日の運行までに捌ききれない(ないしは補充が出来ない)」等の理由により営業されない事例もある。
また、営業形態としても立食が主体であった国鉄・JRのビュフェと同等に扱うか意見が分かれる。例えば、かつて小田急3000形「SSE」が「あさぎり」として国鉄・JRに乗り入れていた際は、御殿場線の時刻表には食堂車に相当するビュフェのマークが配されていた。一方、小田急は調理施設を有する車両に「シ」の形式記号を配していない。
かつて近鉄特急に存在した「スナックコーナー」も、調理スペースで調理(電子レンジで加熱)した軽食を座席まで運ぶシートサービス方式であった。
[編集] 伊豆急行「スコールカー」
戦後私鉄で唯一、国鉄・JRの車両と同じ事例として本格的食堂車を連結したのが伊豆急行である。
伊豆急行100系電車の「サシ191形車両」がそれであり、1964年、サントリーが後塵を拝していたビール事業テコ入れのために、観光地でのPRも兼ねて、「10年間は食堂車」、「車内でサントリー製品を販売する」という契約で「伊豆急行にプレゼント」という形で登場した。「食堂車」と称してはいるが、前記のような理由から車内で本格的な食事が供される機会は少なく、さながらビアガーデンのような営業形態であった。
スウェーデン語・デンマーク語などで乾杯を意味するスコールにちなみ「スコールカー」と名付けられた食堂車はデビュー当初は話題になったが、当時国鉄が「あまぎ」など伊東線 - 伊豆急行線乗入列車に食堂車を連結していなかったこともあって伊豆急行食堂車の伊東線乗入に難色を示し、自社線内のみの営業となってしまった。晩年は伊東線へ乗入を果たしたものの、食堂車は伊東線内営業休止であった。そのため、収益が上がらず次第に存在意義が薄れてしまった。結局、営業自体も早期に中止となり使用されないまま駅に留置され、契約の切れた1974年になって普通車化改造(→サハ190形)され、2004年に廃車された。
[編集] 現状
[編集] 東武鉄道
東武鉄道では日光線特急スペーシア「けごん」・「きぬ」及びJR線直通特急「スペーシアきぬがわ」においてビュフェサービスを行っている。この発端としては、戦前に展望車「トク500形」に給食設備を備えさせ、最後尾に連結した物が緒とされている。第二次世界大戦の激化に伴い運転そのものが中断したが、戦後「トク500形車両」、5700系及び1700系に備えた売店で茶菓を供したもので復帰、本格的な固定編成を採用した1720系"デラックスロマンスカー"(DRC)で本格的なビュフェを初めて採用。1990年の100系「スペーシア」デビューの際にも座席までメニューを運ぶ「シートデリバリーサービス」を導入した。特色の一つとして、6号車の個室からインターホンで注文できるシステムも備えられていた。しかし、人件費等々の問題からデリバリーサービスについては1995年に廃止されている。
なお、伊勢崎線特急「りょうもう」及び日光線特急「しもつけ」・「ゆのさと」・「きりふり」については、給食設備としてのビュフェの設置はなく、ジュースの自動販売機による販売で補われている。
[編集] 小田急電鉄
小田急電鉄では小田急ロマンスカーの緒とされる1924年の「週末温泉特急」運行以来茶菓のサービスが行われたとされるが、戦後1948年に復活した際に日東紅茶と森永エンゼルがスポンサーとして茶菓販売サービスを開始し、シートサービスを実施した。このシートサービスは「走る喫茶室」の愛称が与えられ、森永エンゼルが撤退する1995年まで存続した。
しかし、30000形「EXE」の増備により3100形「NSE」が廃車。同時にドアの開閉要員でもあったシートサービス要員が減少。これにより、一時期シートサービスを中止し、車両販売が代替する結果となったが、「ロマンスカーの復権」を合い言葉に2005年にデビューした50000形「VSE」ではこれらのサービスが復活することとなった。
- 小田急ロマンスカーも参照されたい。
[編集] 構造
日本の鉄道では、食堂車は1両の一部でも給食設備を備えているものを指し、構造上1両の半分(実際には2/3程度)がそのようなスペースを持つものをビュフェ(ビュッフェ・ビッフェ)と称し、それを備える車両であるからビュフェ車(ビッフェ車・ビュッフェ車)ということもある。JR在来線における車両記号は「シ」である。
食堂車の構造として、1951年に登場しそれ以降食堂車の標準とされた「マシ35形食堂車」の場合、客席は複層固定窓、冷房装置を備え、4人席と2人席を備え、定員は30名とした。但し、厨房内の調理設備は石炭レンジと氷冷蔵庫であった。後に、10系客車の「オシ17形食堂車」では客席のテーブルを4人掛けとした。
同時期に電気レンジや電気冷蔵庫を装備した「カシ36形食堂車」が登場したが、電化調理設備に故障が多かったことから調理設備を上記の車両のものへ変更し、「マシ35形食堂車」に称号を変更した。調理設備を電化した食堂車が再び登場するのは客車としては20系客車の「ナシ20形食堂車」の登場からとなる。また、これ以降新造される車両も大部分の設備の基本的なものはこれを踏襲している。
電車及び気動車については、共に特急形車両として製造された物が主であったことや、大量に電力を消費をする関係もあり電動発電機を別に搭載し簡易運転台を設けるなど車両運用上の要として運用される事例が見受けられた。これは、「固定編成」として運用される側面があった為で食堂として営業されない事例が増えた1980年代前半でも連結される事例があったとされる。また、車内販売の基地の一つとしての機能もあったとされる。
2008年現在運行されているものでは、「北斗星」・「トワイライトエクスプレス」に連結されている「スシ24形客車」が「ナシ20形食堂車」の電化調理設備と客席を基本的に踏襲している。この「スシ24形客車」はもともと24系客車に存在した「オシ24形食堂車」とは全く別の車両で、電車特急である485系のサシ481形若しくはサシ489形食堂車を改造して組み入れたものであり、寝台車特有の高い屋根の並びから一転して低屋根にユニットクーラーの並んだスタイルが異彩を放っている。なお余談だが、スシ24形の中で興味深い車両としてスシ24 506があげられる。1974年にサシ489-12として落成、1978年にサシ481-83へ改造、さらに1982年にサシ489に再改造されるも番号は12にもどらずそのまま83を継承、北斗星増発時にまたもや改造されスシ24 506となった(詳細はこちらを参照のこと)。
JR化されて以降に新造されたE26系客車を使用している「カシオペア」については、編成全体が2階建車両として設計・製造されたことから、食堂車である「マシE26形食堂車」も2階建車両を採用。編成中の通り抜け廊下と従業員用寝台を1階に置き、2階に客席を、上野寄り車端部(平屋部分)に厨房を設置している。
[編集] 脚注
- ^ 長船友則『山陽鉄道物語―先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』、JTBパブリッシング、2008年、144頁。なお同所載の図によれば当初は長手方向に置かれた大テーブルの両側の席に旅客が着席する形だったようである。
- ^ 長船、146頁。
- ^ a b 『鉄道ピクトリアル』No.761 p.9。
- ^ 長船、143頁。
- ^ 『大正8年度鉄道院年報』1921(大正10)年、33頁。
- ^ 長らく日本の列車編成は、食堂車で等級を区分してかつ上の等級の車両を下の等級の乗客が、また寝台車を座席の利用者が極力通り抜けないように、1等車+2等寝台車+2等座席車+食堂車+3等車+3等寝台車 のように編成するのがいわば「常識」となり、戦後になっても例えば1956年の寝台特急「あさかぜ」の車両編成を見れば明瞭なように、これが踏襲されてきた。ただし「あさかぜ」の場合20系になったときに緩急車を3等座席車にしたため、3等座席・寝台に関してはこの原則が守られなくなった。
[編集] 参考文献
- かわぐちつとむ『食堂車の明治・大正・昭和』(グランプリ出版、2002年) ISBN 4876872406
- 1994年7月から1997年5月まで『鉄道ジャーナル』に連載された記事の単行本化。
- 岩成政和『食堂車ノスタルジー 走るレストランの繁盛記』(イカロス出版のりもの選書、2005年) ISBN 4871496538
- 『鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 10 国鉄客車開発記 1950』(電気車研究会、2006年)
- 星 晃「食堂車の復興」(初出:『鉄道ピクトリアル』1953年2月、3月号 No.19、20) p54~p60
- 交友社『鉄道ファン』2000年8月号 No.472 特集:食堂・オープンスペース
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年5月号 No.761 特集:食堂車
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2007年10月号 No.794 特集:ビュフェ