国鉄165系電車
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国鉄163・165・167・169系電車 | |
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165系新前橋電車区所属国鉄色車 |
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営業最高速度 | 110km/h |
設計最高速度 | 130km/h |
軌間 | 1,067mm |
電気方式 | 直流1,500V |
主電動機 | MT54形直流直巻電動機 120kW |
歯車比 | 80:19(4.21) |
台車 | DT32・TR69系 (空気バネインダレイクトマウント台車) |
制御装置 | CS15形電動カム軸式抵抗制御 |
ブレーキ方式 | 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ 勾配抑速ブレーキ* |
備考 |
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国鉄165系電車(こくてつ165けいでんしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流急行形電車。
国鉄分割民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・西日本旅客鉄道(JR西日本)にそれぞれ承継された。
本稿では同じ用途で製造された163系、修学旅行列車(修学旅行のための団体専用列車)用として製造された167系、碓氷峠対応の169系についても記述する。
目次 |
[編集] 165系
[編集] 概要
勾配・寒冷路線向けの急行形電車として開発され、1963年3月から営業運転に投入した。
1960年代前半、信越本線長岡~新潟間と高崎~長野間、中央東線の電化により首都圏から直通する長距離連続電化区間が完成し、電車による急行列車を運転することが計画された。しかしいずれも連続急勾配が介在し、寒冷・多雪な気候条件の路線であり、東海道本線などの平坦・温暖区間向けに設計された153系電車では、これらの路線には出力や耐寒能力不足で不適であった。このため勾配・寒冷路線での運用に耐える性能を備え、153系に代わる標準型の直流急行形電車として開発されたのが165系である。
車体構造はほぼ153系を踏襲してはいるが、以下のような改良が行われている。
- モーターは、従来標準であったMT46形(端子電圧375V時定格出力100kW/1,860rpm(70%界磁)、最高回転数4,320rpm)に代えてMT54形(端子電圧375V時定格回転数1,630rpm(全界磁)、定格電流360A、最高回転数4,320rpm)を採用した。20%の出力向上で、MT比1:1の編成を組んでも25‰程度の勾配を登坂できるようになり、経済性と輸送力を両立させた。このMT54系電動機は列車併結などによる混用を考慮して、MT46形と極力出力特性を揃えてある。なお速度種別は、MT比1:1の編成でも営業最高速度と同じA10である。
- 主制御器に「自動ノッチ戻し機構」搭載のCS15形制御装置を採用(製造時期によりCS15A・B・C・E形を搭載)、山岳区間での走行も考慮し勾配抑速ブレーキを搭載し、主抵抗器の容量も153系などに比べ大きく増強されている。
- 寒冷な積雪地での運用に備えて耐寒耐雪装備が施されている。
- ダイアフラム形空気バネの横剛性を生かして揺枕吊を廃止したインダイレクトマウント方式の新型空気ばね台車DT32(電動車)・TR69(付随車)系を装備し、高速安定性や乗心地が改善された。
[編集] 新製車の形式
[編集] クモハ165形
モハ164形とユニットを組む二等制御電動車(Mc)で、主制御器・主抵抗器を搭載。勾配線区で使用される特質上電動車比を高める必要から、基幹形式の一つとして1963年から1970年にかけて製造された。定員76名。外観上は、主電動機冷却風の取り入れのため前部出入台(デッキ)屋根上部に設けられた大型の通風器および床下ギ装の関係でまくらぎと平行に設置された水タンク(他車の700リットルに対して当形式及びモハ165形は550リットル)が特徴である。また、451・471系では電動車ユニット(McM')を両方向に使用可能としていたが、165系では奇数(東海道本線基準で上り東京方)向きに固定を原則とした。
- 1~141:当初は非冷房だったが、1968年の利用債増備車の123~125はAU13E形冷房搭載準備仕様で、1968年4次債務負担以降の増備車である126~は新製時から冷房装置を装備して落成した。
- 901~904:900番台の詳細はこちらを参照のこと。
[編集] モハ165形
モハ164形とユニットを組む二等中間電動車(M)で定員84名。165系の特質上、地方線区や支線直通にも使用されるため短編成組成を容易とする必要があり、165系グループ内での中間M車の需要は小さく1963年から1969年にかけてわずか21両が製造されるにとどまり、うち1963年~1965年製造の17両は波動用として製造された。当初はクモハ165形と同様に非冷房だったがのちに冷房改造を施工、1969年増備車の18~21は新製時からAU13形6基搭載で落成した。
[編集] モハ164形
クモハ・モハ165形とユニットを組む二等中間電動車(M')で、電動発電機(MG)や空気圧縮機(CP)、パンタグラフを搭載している。1963年から1970年にかけて166両が新製された。定員84名。
- 1~84:普通屋根車で当初は非冷房、のちにAU72形集中冷房装置を全車搭載。81~は新造時から冷房車で落成している。空気圧縮機は当初はMH80A-C1000形を2基であったが、1965年度第2次民有車両以降の増備車の69~・836~はMH113A-C2000M形1基に変更した。
- 501~514:500番台。山陽準急増結車として分割・併合が簡単に行えるようにサロ165形と同型の回送運転台を装備しており、デッキとトイレの配置が入れ替わっている。後位妻面に装備された小窓と後部標識灯、デッキ屋根上部の前照灯と大型通風器が特徴である。全車がクモハ165形とユニットを組む。
- 801~864:800番台。中央本線・篠ノ井線・身延線の建築限界(狭小トンネル)対策としてパンタグラフ取付部を180mm切下げた低屋根構造としている。低屋根部の車内天井にはファンデリア(換気扇)が装備され、パンタグラフ脇に換気用のルーバーが設置された。やはり当初は非冷房であったが846~848は冷房準備車、849~は新製時からの冷房車で、ファンデリアが無く(非冷房車も冷房搭載時に撤去した)、パンタグラフ脇の換気用ルーバーも当初より設けられていない。
- 901~904:900番台の詳細はこちらを参照のこと。
[編集] クハ165形
二等制御車(Tc)で、定員76名。1963年から1970年にかけて210両が製造された。電動車が奇数向きに固定されたのに対して上下向き両用とされたが、のちの冷房改造によりほとんどが偶数(東海道本線基準で下り神戸方)向きに固定された。
- 1~206:当初は非冷房であったが、156~190はAU13E搭載準備仕様で、191~は新製冷房車で落成している。
- 901~904:900番台の詳細はこちらを参照のこと。
[編集] サロ165形
一等付随車(Ts)で、定員48名。1963年~1969年に134両が製造された。台車以外はサロ152形とほぼ同形で、二連式の大きな下降窓が特徴的である。また、回送用の簡易運転台を装備している。当初は非冷房であったが29はAU12S搭載準備仕様、30~129の100両は新製時からAU12S形6基を搭載して落成。また130~134の5両はAU13E形5基である。なお、この最終グループ5両について窓下のグリーン車を表わすグリーン帯を製造当初から省略して登場したとする文献が一部に見られるがこれは誤り。また、14と15は1970年10月1日から1972年10月1日までの間、115系電車による急行列車運用のため、制御用引通線を115系用に改造していた。
現在サロ165-106号車が静岡車両区に在籍、通常は浜松工場に留置されている[要出典]。
[編集] サハ164形
1966年10月のダイヤ改正で増発された中央東線急行用に2両のみ製造された売店付きの二等付随車(Tk)で、定員は56名。当初は非冷房であったが、1970年に売店部も含め冷房化されAU13E形6基が搭載された。その際に自車給電用の5kVAMGを撤去して、冷房電源用の110kVAMGを搭載した。後位寄車端に物資積卸口を設けていることが外観上の特徴である。
1983年に2両とも廃車されて形式消滅している。
[編集] サハ165形
1969年10月のダイヤ改正で増発された山陽本線急行用に11両が製造された付随車(T)で、車体構造・車内設備はモハ165形と同一の定員84名。サハ153形ではMG・CPの有無により三種類の番号区分が起こされていたが、165系では一種類のみとなっている。全車が新製時からAU13E形冷房装置6基と冷房電源用110kVAMGを搭載して落成している。
[編集] サハシ165形
1963年に12両が製造された二等室・ビュフェ合造付随車(Tb)で、二等客室部の定員は36名。車体中央部に幅700mmの扉を設置し、前位寄りを二等客室、後位寄りをビュフェとしており、トイレと洗面所は備えられていない。ビュフェの一画には、サハシ153形の「寿司コーナー」に対して、当形式ではサハシ451形に続いて「そばコーナー」を設置していた。また、電子レンジを標準装備している。ビュフェは新製時からAU12形4基が設置され側窓も固定式としたが、1969年~1972年に客室にも冷房装置AU13E形2基を設置し完全冷房車となった[1]。
1978年から余剰車の廃車が開始され、1983年に形式消滅した。
[編集] 改造車
[編集] 165系としての改造車
- クハ164形
- 1965年の山陽準急増発で下関運転所所属車は165系と153系を混用していたが、165系編成の先頭車にクハ153形を組み込むと勾配抑速ブレーキが使えなくなるという問題があり、車種統一も兼ねて1966年にクハ153形0番台車8両を幡生工場で改造したものである。内容としては主幹制御器をMC37A形に電気連結栓をKE57A形からKE64形[2]に交換した程度で外観はクハ153形と変わらず、さらに種車が低運転台構造の初期車で塗装も153系時代のまま正面に緑が回らない塗分の異端車となった。1~4の4両は非冷房のまま1979年~1980年に廃車[3]になり、5~8の4両は1972年と1976年に冷房化改造を施工したほか、5と7の2両はさらに前面強化と前照灯のシールドビーム化改造を施工した[4]。山陽新幹線開業後は大垣電車区(現・大垣車両区)へ転出し中京地区で使用されたほか(1~4は1974年から1975年に宮原電車区へ転出)、「東海」の153系編成の先頭車や「伊那」「富士川」の先頭車としても使用されたが、1983年に廃車されて形式消滅している。
- クハ153-1・2・17~20・25・26→クハ164-1~8
- クハ165形方向転換改造
- 1982年に飯田線の80系電車を165系へ置き換える際にあたって制御車の向きを揃えるため、奇数(上り)向きであったクハ165-9を偶数(下り)向きに方向転換を行ったもので、同車はクハ165-208に改番された。他にも方向転換を行ったクハ165形は3・115・165・167などがあるが、これらはいずれも改番されていない。
- サハシ165形50番台
- 1965年10月の中央東線急行の電車化に伴い東海道・山陽筋で使用されていたサハシ153形を改造したものであり、改造時にビュフェの寿司コーナーをそばコーナーおよび業務控室に変更し、業務控室にはさらに小窓を新設すると共に、ジャンパ連結器をKE57A形からKE64形に交換している。また改造直後は空気圧縮機を残していたが、1967年に撤去した。
- サハシ153-2・4→サハシ165-51・52
- 1968年10月のダイヤ改正でも中央東線急行を増発したため、同様の改造を実施している。こちらのグループは転用日程の都合上、第1次改造としてジャンパ連結器の交換のみを実施し、後にビュフェ部分の改造と空気圧縮機の撤去を実施している。この時の番号変更は第2次改造の際に実施した[5]。1980~1982年に廃車となり、区分消滅している。
- サハシ153-6・8・14→サハシ165-53~55
- サハ165形100番台
- ユニットの相手方を他形式への改造で失ったモハ164形とモハ168形900番台を電装解除し、「天竜」用に転用したものである。車体関係はほとんど手を加えられることなく、パンタ台や集中式の冷房装置もそのままであった。0番台と異なり、電動発電機は搭載されていない。また、モハ168形の改造車はパンタ取付部分が低屋根のままとなり、さらに異彩を放った。全車1987年に廃車され、JRへは承継されなかった。
- モハ164-71・モハ168-901~904→サハ165-101~105
- クヤ165-1
- 1974年、名古屋鉄道管理局の165系電車教習用車両として浜松工場でサハシ153-15から改造された事業用車。客室を運転実習室としているが、旧ビュフェ部分にはCS15形主制御器など電気関係の電車用床下機器(除主電動機・MG・CP)が架台に設置され、各機器の作動状況が一目で分かるようになっており、このほか回路のパネルなどを設置している。運転台も両端に新設したが、前面は非貫通切妻形状ではあるものの高運転台で新性能急行形・近郊形電車に近い前面形状となった。運転室内レイアウトは165系に準じている。パンタグラフは運用エリアに狭小トンネルの中央西線があることから、それに対応したPS23形を搭載していた。1987年2月3日付をもって廃車となり大垣電車区で保管されていたが、現在は佐久間レールパークに保存されている。
- サハシ153-15→クヤ165-1
- 169系900番台
- サロ169形
- サハシ169形
- 169系を参照のこと。
[編集] 改番を伴わない改造
※主なもののみ
- 座席の交換
- 格下げで普通列車用となった車両の一部は、近郊形化と称される出入口近くをロングシート化改造を行ったものがあるが、457系等と異なりごく少数に止まった。
- 一方でオリジナルのボックスシートを特急や新幹線普通車用のリクライニングシートやグリーン車用の座席と交換して居住性を改善し、優等列車始業に投入され続けた車両もある。
- 前面強化改造
- JR東日本では、成田線大菅踏切事故後このような踏切事故での乗務員の保護のためにステンレス板[6]を前面に追加する工事を積極的に進めた。この工事は国鉄型電車のほぼすべてに施工され、本系列も例外ではない。
- 前照灯のシールドビーム化
- 国鉄型電車は前照灯の光源として長く白熱電球を標準採用してきた。しかし、フィラメントが後方に放つ光を反射し前方への投光量を増やすために反射板が必須で灯具が大型となり、しかも低照度で電球交換後は焦点調整を行う欠点があった。このため、電球自体に反射板が組み込まれている構造でコンパクトかつ高照度で焦点調整不用のシールドビームが普及するにつれ、既存の白熱電球が問題とされるようになった。そこで保安性向上を目的にシールドビーム化改造が、1970年代以降順次進められた[7]。
- サロ165形ユニット窓改造
- サロ165形の下降式客室側窓は、雨水などが侵入しやすく車体外板腐食が激しかったため、1977年・田町電車区所属のサロ165-114を試験的に改造。その後一部車両に外板張替と同時に客室側窓のユニット窓化を施工したものがある。こちらも、車両によりユニット枠の意匠に差異があったと言われる。
- 冷房化改造
- 国鉄急行形電車の冷房化は、1等車(グリーン車)が1968年夏期までに完了したが、引き続き計画された2等車(普通車)の冷房化ではいくつかの課題が残った。
- 冷房の電源となるMGはサロ165・169形では自車搭載給電としたが、その他は4両分まで電源供給可能な110KVAMGをクハ・サハに搭載した。
- ビュフェ部がすでに冷房化されていたサハシ165形は、自車給電用に40kVAMGを搭載していたが、客室部冷房化に際しては新潟運転所の5・7・9・11~12は他車からの給電される方式が取られ、松本運転所の1・2・3・4・6・8・10・51~55については従来の自車給電用MGを撤去し新たに冷房電源用として110kVAMGを搭載している。
- モハ164・168形には分散式AU12S形が7基必要なところ、5基分のスペースしかなく冷房能力が不足することが問題となったため、新規開発の集中式AU72形を搭載[8]した。
- 冷房試作車ではAU12S形を搭載していたが、その後AU13E形6基搭載に変更となった。また、全車AU72形で統一しなかったのは当時集中式が高価であり、搭載のために車体の補強改造も必要だったためである。
- 冷房改造が施された先頭車は、運転室の作業環境改善のために客室内の冷えた空気を吸引し運転席に導くダクトが前位デッキ天井部分に設置された。集中式であれば冷房用風洞を延長して冷気を運転室内に直接放出させることも可能だが、分散形を採用したためにダクト[9]による簡易冷房化を実施した。
[編集] 他形式への改造車
- サロ110-401
- 1984年度に余剰となったサロ165-130を東海道本線東京口113系用のグリーン車に改造したもので、ジャンパ連結器をKE64→KE76に交換、簡易運転台、冷房用MGの撤去、側面方向幕の取付を行ったが外観はほとんど変わっていない。この車両は側窓がユニット窓に変更されているが、これはサロ165形時代の施工である。外部色の塗分線は当初165系時代のままであったが、1986年頃に113系に合わせて変更されている。
- サロ165-130→サロ110-401
- サロ110-501
- 1982年の上越線急行削減に伴い余剰となったサハ165-7を老朽化した東海道本線東京口113系用のグリーン車置き換えのために改造したもので、座席をサロ110形1200番台並みの簡易リクライニングシートに交換したほか、ジャンパ連結器をKE64→KE76に交換、側面方向幕の設置及び冷房用MGの撤去、外部色塗分線を113系に合わせる改造を実施している。なおサロ110形には車掌室が備わるが、本車に車掌室は設置されず、また定員を60名に揃えるためシートピッチが1,010mmとされている。
- サハ165-7→サロ110-501
- クハ455形300番台
- 1985年3月のダイヤ改正用にクハ165形と169形900番台を455・475系用の制御車に転用したものであり、客扉へのステップの追設、運転台への交流関係機器の取付を行った。両系列から24両が改造された。
- クハ165-139・140・143・145~147・156・157・159~161・169・171・179~181・185・186・188・189・クハ169-901~904→クハ455-301~324
- クハ455形400番台
- 300番台と同様にクモハ165形と169形900番台を455・475系用の制御車に転用したものであり、電装解除及び方向転換、冷房電源用MG及びその付帯装置の新設、客扉へのステップの追設、台車をTR69系に交換、運転台への交流関係機器の取付を行った。種車の前位寄り押込通風器(主電動機冷却風取入用)が従前のまま設置していたが、一部車両では後に撤去している。これに加えてまくらぎと平行に設置した水タンクが外観上の特徴である。両系列から5両が改造された。
- クモハ165-107・クモハ169-901~904→クハ455-401~405
- クハ455形500番台
- 1984年2月のダイヤ改正用に余剰となったサハ165形の前位寄りにステップ付側出入口を設け、MGには脈流対策を実施し、別途製造されたクハ411形500番台仕様の運転台ブロックを接合し455・475系用の制御車に改造した。一般のクハ455形とは前位扉の戸袋窓の幅が狭いこと、乗務員室助士席後部に側窓のないことで区別が可能。501と502~505で若干の改造内容が異なる。
- 501はデッキ間仕切なしで近郊化改造を併せて施工し、冷房装置の撤去は行われていない。
- 502~505は前位デッキに客室仕切を新設し、冷房装置1基を撤去ている。また同時に後位客用扉にもステップを追設も行った。
- サハ165-1~4・6→クハ455-501~505
- クハ455形600番台
- 1985年3月のダイヤ改正で不足となるクハ455形補完のため、サロ165形にブロック工法で運転台を接合し、制御車とした。その他に前位デッキの新設と後位客用扉へのステップの追設[10]、前位側冷房装置1基の撤去が行われている。種車の冷房電源用MGは自車用40kVAから110kVAに交換された。種車はすべて側窓がユニット式に改造済。
- 区分番台はサロ455形改造車から続き番となっている。
- サロ165-101・122~124・129・133→クハ455-606~611
[編集] ジョイフルトレインへの改造
国鉄末期の1980年代後半より一部の余剰車両によるジョイフルトレインへの改造がなされることとなった。
[編集] 和式電車「なのはな」
1985年に千葉鉄道管理局にも「和式列車」を導入することになり、幕張電車区(現・幕張車両センター)に所属していた波動用6両を大井工場(現・東京総合車両センター)で改造した。他局では客車を種車とすることが多かったが、運転上と保守上の観点から電車が採用されたものである。
車体は扉を1か所塞ぎ、側面に各車両の愛称表示器を設置し、前面形状も貫通扉に愛称表示器を設けた程度で大きな変化はない。外板塗装は、菜の花の色である黄色を基調とし、車体両端には青緑色で房総半島を図案化して表わし、車体裾部にはエメラルドグリーンのラインで黒潮を表現している。側窓は従来のユニット窓をそのまま活用したが(上窓は隙間風防止と防音効果を上げるために固定)、カーテンはすべて撤去し、雪見障子を取付けて遮光と和風のイメージを強調した。車内は浮床構造の畳敷[11]となっている。
1998年まで使用されたが、代替として485系「ニューなのはな」[12]が落成したため、同年9月のさよなら運転で房総半島を一周したのを最後に廃車となった。その後、クロ165-1が千葉県内の某所に保存されている。
- クモハ165-134・128→クモロ165-1・2
- モハ164-857・851→モロ164-801・802
- クハ165-199・193→クロ165-1・2
[編集] 「シャトルマイハマ」
1990年3月10日の京葉線新木場~東京間の開業に伴い、舞浜駅最寄の東京ディズニーランドへの行楽客輸送のため、クモハ165-129・モハ164-852・クハ165-194を東京~西船橋間臨時快速「シャトルマイハマ」用に改造したが、改番はされていない。改造内容は先頭車の前面貫通扉に愛称表示器を新設し、車内をイメージに合った内装に改装した。またクハ165形の座席はすべて海側に向けられている。運転当時車内では東京ディズニーランドにちなんだ音楽を流していたが、数年後に廃止された。「シャトルマイハマ」廃止後は、1995年に上沼垂運転区に転属。「アルファ」に改装され、新潟地区で「ホリデー快速アルプ[13]」などに使われていたが、その後2001年5月8日に廃車されている。
[編集] 「パノラマエクスプレス アルプス」
1987年3月JR化移行直前、東京西鉄道管理局向けに三鷹電車区(現・三鷹車両センター)所属の6両を大井工場で改造したジョイフルトレインで、前面展望構造を採用した国鉄では珍しい展望電車である。
編成はTsc(クロ)-Ms'(モロ)-Msc(クモロ)の3両ユニットを基本とした6両編成である。両端が展望室のTscとなるように新宿方のユニットを方向転換し、Msc同士を編成中間で連結させた。Tscは国鉄初の前面展望電車で、最前部に大型曲面ガラスと細いピラーで構成されたフリースペースの展望室(定員12名)、展望室後部左側に運転台[14]、その後部にソファ6名分とスタキングチェア3脚を配置したラウンジ室を設けた。冷房装置は種車のAU13E形から換気機能を備えた集中式のAU71D形に変更し、通風器は設置していない。一般客室は腰掛取付部を通路部より170mm高くし、窓を幕板方向に100mm拡大すると共に固定窓とした。これにより、視野が大幅に広がり、一味違った車窓を楽しめるようになった。また、シートピッチも最大1,460mmまで拡大。Ms'の低屋根部には個室を設置し、団体旅行での幹事・添乗員の打ち合わせ及びグループでの使用を考慮し、ソファ6名分を設置した。183系電車との併結を考慮してKE70形ジャンパ連結器に交換し、特急並の120km/h運転に対応した機器設備も追加した[15]。
1993年には167系メルヘン車も「パノラマエクスプレス アルプス」に準じた塗装に変更され、同車を併結した「しんせん・やまなし」などの臨時急行にも充当されたが、2001年にJRでの運用を終了した後に富士急行に譲渡され、2000形「フジサン特急」として特急運用に主についている。
- クモハ165-127・123→クモロ165-3・4
- モハ164-850・846→モロ164-803・804
- クハ165-192・148→クロ165-3・4
[編集] 「ゆうゆう東海」
1989年、JR東海静岡支社が改造したジョイフルトレイン。改造後は普通車扱いの700番台に改番。施工は2・3号車が日本車輌製造豊川製作所、1号車が名古屋工場で行った。
外観は先頭部が大形前面窓の非貫通スタイルが特徴で、客室は2人掛けのリクライニングシートを備え、ハイデッカー構造としている。2号車(モハ164-701)の中央部にはイベントステージが完備され、フロアそのものが低音スピーカーとなるボディソニックシステムを鉄道車両で初めて採用している。塗装はライトグリーンとゴールドのツートンに静岡県の名産であるみかんと茶をイメージして楕円形を配した。
愛称名は一般公募で「ゆうゆう東海」と命名され、7月28日に完成、8月3日に快速「ゆうゆう東海森林浴列車」(清水~飯田間)で営業運転を開始する。以降、団体専用列車のみならず、静岡地区を中心とした「ゆうゆう~」で始まる多客臨時列車としても運用された。このほかに「花の木金号」や代走として急行「富士川」、373系検査時には「ホームライナー」にも充当された。
運行終了年となった1999年は団体臨時列車よりも「ホームライナー」で使用されていることが多かった[16]。しかし、車体の老朽化や団体の需要の減少により、1999年11月11日に運転された急行「静岡葵博号」をもって営業運転を終了し、運転終了後は静岡に戻って備品などを撤去した後、浜松工場へ回送され同年11月15日付けで廃車された。
- クハ165-205→クハ165-701
- モハ164-862→モハ164-701
- クモハ165-139→クモハ165-701
[編集] 163系
電動機出力 | 抑速ブレーキ | 直流急行形 | 交直流急行形 |
100kW | - | 153系 | 451系・471系 |
120kW | - | 163系 | 453系・473系 |
120kW | ○ | 165系 | 455系・475系 457系 |
165系を元に平坦・温暖な区間に充当するため、耐寒耐雪設備・勾配抑速ブレーキを省略した形で計画された系列である(右表)。先頭車の塗り分け案も実際に考えられ、検討された資料が残っている。しかし、無闇に派生系列を増やし過ぎることは運用・保守上様々な問題を引き起こす原因となり、広域転配時に大きな制約ともなるため、運転サイドの165系への統一の声が強く、153系の一等車の冷房化を目的にサロ163-1~7が1964年に製造された段階で計画は中止とされ、以後の直流急行形電車の増備は165系に統一された。またサロ152形との相違点は、冷房装置の有無及び台車形式の変更(TR59形→TR69形)で、標準電動機形式のMT46系からMT54系への変更に伴う153系の製造中止、165系への移行の影響を受けた製造で実質的な153系の増備となっている。
サロ163形は終始153系編成に組込まれて運用され、153系と同じく1983年までに全車が廃車になっている。またサロ163-7はグリーン車の需要の関係で近郊形電車用のサロ112-51に改造されたが、こちらは一足先に1978年に廃車となっている。
房総地区などの首都圏平坦線区を運行する急行列車については、性能上153系あるいは計画が中止された163系が適当と考えられたが、その電化時期や車両需給との兼ね合いから、過剰装備を承知で165系が直接新製投入された。ところが、特に総武快速線が未開業で各駅停車の101系と同一の線路を走り高加速性能が要求された当時の総武本線においては、165系の走行特性が思わぬ形で発揮されることとなった。
- 153系などのCS12形を筆頭とする従来の電車用自動加速制御器は、一度マスコン操作をすると手動操作でのノッチ(制御段)下げができなかった。そのため勾配線区では、一度マスコンをオフの位置に戻してから、再び手動段に投入するという作業を繰り返すことになる。運転曲線がノコギリ状になることからこれを「ノコギリ運転」と呼び、運転士にとっては取扱いが煩雑で上り勾配でのスムーズな運転の妨げにもなっていた。対してCS15形制御器はいずれも「自動ノッチ戻し機構」を備え、制御器の並列段~弱界磁最終段[17]の自動ノッチ戻し扱いが可能になり、運転士の負担を大きく軽減した。また、この機能は頻繁に加減速を行う必要がある東京近郊の過密ダイヤ線区においても役だてられたのである。
都心も年々進む高架化と立体交差化で局所的な勾配があちこちにでき、急行形電車はそのような区間を加速力に勝る103系や113系などによる普通・快速列車等の合間を縫って走ることになった。この条件ではCS12形制御器を搭載する計画[18]であった163系ではダイヤ上のネックを解消しきれたかどうかは微妙で「165系への1本化は正しかった」という見解もある。
[編集] 167系
[編集] 概要
1965年に155・159系と同様165系をベースに山陽地域の修学旅行列車用に製造された系列。乗降頻度が少ないことからドア幅を狭め、大型の脱着可能な折畳式テーブルを備えている。また、それ以前の155・159系に合わせた組成とするため、モハ167・166形ユニットの中間電動車とクハ167形制御車のみの構成になっている。しかし一般の列車にも使用することを想定して、室内設備については165系との相違点は少なく、低屋根構造はパンタグラフ部のみである。
1965年7月に4両編成4本16両を田町電車区(現・田町車両センター)に配属し、同年10月より品川~京都間に「わかくさ」として運転が開始。翌1966年1月から2月にかけて4両・6両編成36両を下関運転所(現・下関車両管理室)に配属し、同年4月から下関を起点に広島行「なかよし」、京都行「友情」、東京行「わこうど」として、それぞれ運転を開始した。
修学旅行の新幹線への移行に伴い、下関運転所所属車は1974年から1975年にかけて、田町電車区に4両編成5本20両、宮原電車区(現・宮原総合運転所)にクハ167形4両、モハ167・166形ユニット6組12両の計16両が転出した。
修学旅行列車以外に特筆されるのは、オフシーズンに「わこうど」の時刻で運転された臨時急行「長州」での運用で、東京~下関間1,000km以上を直通運転した。しかし、定期急行列車での運用は1981年10月から1985年3月まで「ごてんば」2往復に田町区のものが使用されたのが唯一である。
当初の塗色は、カナリヤイエローとライトスカーレットの修学旅行色で非冷房だったが、1978年9月の車両塗装に関する規定の改定で修学旅行色が廃止されたため、1979年以降塗色を湘南色に変更し、165系と互して山陽・上越方面の臨時急行及び波動輸送用に転用された。なお冷房化改造は1978年初夏から1981年にかけてであり、1981年中頃までは修学旅行色・冷房仕様の車両が見られた。冷房改造時に出入台部の飲料水タンクと洗面台の撤去、宮原運転所のモハ166形を除く各車の物置を洗面所に改造する工事を施工している。
1982年には、クハ167-2が伊豆急行線内での災害により使用不能となったため、当時神領電車区(現・神領車両区)で休車中だったクハ165-3[19]が代車となった。なおクハ167-2は1984年に廃車となり、修学旅行用電車で唯一の事故廃車例となった。
分割民営化後は、JR東日本には田町区に4両編成9本36両が波動用として承継され、後に全先頭車の前面強化とシールドビーム、ATS-P取付、モハ166形のパンタグラフのPS21形への交換などを行ったが、その後は編成によって特化した改造を行っている。
- H11編成
- 湘南色で先頭車の前面改造以外は原型を留めた編成。
- H12~16編成 アコモ改造車
- 座席がR51形簡易リクライニングシートに換装された。アイボリーをベースに窓下にオレンジと赤、すそに黄緑の帯という通称「田町色」に塗装も変更された。登場当初「JR東日本ジョイフルトレイン」と表記したヘッドマークを先頭車の前面に掲出し、臨時快速「葉ッピーきよさと」などに使用された。
- H17・18編成 通称「メルヘン車」
- 1988年に廃車発生品のグリーン車用R24系リクライニングシートを装備し、東京ディズニーランドへの行楽客輸送を目的とした快速「メルヘン号」に使用されたのち、田町色に変更。さらに1993年には「パノラマエクスプレス アルプス」に準じた塗装となり、臨時急行「しんせん・やまなし」の普通座席車に充当された。
- H19編成
- 湘南色。角形ヘッドライトとバケットタイプのボックスシートに改造。
- 他の編成のモハ167形と偶数向クハ167形のトイレ・洗面所は撤去されていたがこの編成だけはすべて残っていた。
波動用であるため、日光方面の修学旅行臨と「臨時大垣夜行」と呼ばれる列車番号9375M及び9372Mの運用にしばしば投入された。これら運用は、最終期にはボックスシート装備のH11とH19の2編成が充当され、シーズン中の毎晩に他区の165系(新前橋区・三鷹区の165・169系も投入された)と東京(上りのみ)・品川~大垣間を往復する一方、これ以外の列車への運用は少なく、シーズンオフは神奈川県内~日光までの修学旅行列車に使用される以外、留置状態の日が多かった。
また、「ホリデー快速むさしの号」や「ホリデー快速ピクニック号」、「ホリデー快速河口湖号」など、山梨・湘南・鎌倉方面への準定期運用の「ホリデー快速」にも多用された。アコモ改造車・メルヘン車はホリデー快速運用に就く機会が多かった一方、定員が少ないため前述の臨時大垣夜行には例外的に数回使用された程度である。
一方JR西日本には宮原区配置の16両が承継され、クハ167形は全車奇数(東海道本線基準で東京方)向へ方向転換のうえで偶数(同神戸方)向にクハ165形を連結した4両編成4本と、両方の先頭車がクハ165形の4両編成2本の合計6編成に組成変更が行われた。臨時急行「ちくま」「くろよん」等の夜行列車での運用が主体であったことから、冷房改造時にモハ166形のトイレ・物置を撤去して乗務員室を設ける工事が施工された。通常は京都総合運転所野洲派出所と吹田工場高槻派出所に留置されて、「ちくま」「くろよん」のほかは各種団体列車に使用されてきたが、1997年に大多数が廃車となり、両先頭車がクハ165形の6両編成1本のみが生き残るも2001年に廃車となった。
2003年春季臨時大垣夜行での運用を最後に、老朽化のため同年内に全車廃車となった。
2006年5月14日に閉館した交通博物館に展示されていた167系の車体前頭部は、実車と同様の部品を利用して日本車両が交通博物館にて出張製作したモックアップである。修学旅行色の車体に「なかよし」のヘッドマーク(閉館直前は「さよなら交通博物館」に取り替えられた)を前面貫通扉に掲出していた。なお閉館後に大宮に移設されており、鉄道博物館のノースウイング(北側別館)に展示されている。
田町区所属H19編成JR大宮工場 2000年撮影 |
通称「メルヘン車」 新町駅 1991年頃撮影 |
「パノラマエクスプレス」色 入谷駅付近 2003年1月撮影 |
アコモ改善車 JR大宮駅 2000年撮影 |
[編集] 形式
本系列は電動車ユニット15組30両、制御車22両の計52両が製造された。製造時には全車非冷房だったが155・159系とは異なり、後にモハ167形は分散式のAU13EN形6基、クハ167形は5基、モハ166形は集中式のAU72形を搭載し冷房化されている。
[編集] モハ167形
モハ166形とユニットを組む二等電動車(M)で主制御器を搭載。定員は84名。基本的な構造はモハ165形と同様だが、側扉が700mmに変更されたため窓配置が異なっている。
[編集] モハ166形
モハ167形とユニットを組む二等電動車(M')で電動発電機や空気圧縮機、パンタグラフを搭載。定員は84名。基本的な構造はモハ164形800番台と同様だが、窓配置は異なっている。空気圧縮機は1~4がMH80A-C1000形を2台、5~15がMH113A-C2000M形を1台搭載している。国鉄ではパンタグラフ部低屋根構造車両を慣例として800番台にしていたが、本形式は全車が低屋根車に該当するため特に区分せず155・159系同様0番台としている。10~15は冷房化時にトイレと物置を撤去して乗務員室を設置している。
[編集] クハ167形
二等制御車(Tc)で編成の両端に連結される。定員は76名。クハ155・159形同様客室には速度計と電池時計が設置されたが一般転用時に撤去された。冷房化時に田町車では偶数車にのみ冷房電源用MGを設置、宮原車では偶数向にMG搭載のクハ165形を連結することでクハ167形の向きを奇数向に統一した。
[編集] 169系
[編集] 概要
信越本線横川~軽井沢間で専用補助機関車EF63形との協調運転を可能とした派生系列。協調機器の搭載以外は、車体構造や車内設備、性能とも165系と同一であり、協調運転は不能となるが165系との混結運転も可能である。
1967年に試作車である165系900番台が落成し、試験の結果翌1968年~1969年に169系として量産車の製造が開始された。量産車McM'ユニット27組54両Tc27両の新製車、長野所残留のサロ165形改造のサロ169形19両、サハシ153形改造のサハシ169形10両の110両が長野運転所(現・長野総合車両センター)に、試作車は1968年の量産化改造の際に169系900番台へ改番編入し、引き続き新前橋電車区(現・高崎車両センター)に配置され、同区の165系電車と共通運用された。
現在はJRからは系列消滅し、しなの鉄道に譲渡された3両編成4本の12両が在籍する[20]。
[編集] 形式
新造された量産車はクモハ169形・モハ168形・クハ169形それぞれ27両ずつ。3形式とも1968年製の1~25は冷房準備車。1969年製の26・27は落成時からの冷房車。また、その他はすべて他形式からの改造車である。
[編集] クモハ169形
モハ168形とユニットを組む二等制御電動車(Mc)で、主制御器・主抵抗器を搭載している。協調運転用の機器としてKE70形ジャンパ連結器、SRB8形界磁接触器が新たに設置され、制御装置は協調運転対応、抵抗器には容量が増大した物を採用している。定員76名。量産車27両と試作車4両の合計31両が製造された。
- 1~27
- 901~904:試作車。すべて冷房準備車であったが、冷房装置は0番台のAU13E形5基とは異なりAU12S形を6基搭載する(クハ169形も同じ)。
[編集] モハ168形
クモハ169形とユニットを組む二等中間電動車(M')で、電動発電機や空気圧縮機、パンタグラフを搭載している。定員84名。
- 1~27:空気圧縮機は全車MH113A-C2000M形を1台搭載している。
- 901~904:試作車。0番台は通常屋根構造なのに対し900番台はモハ164形800番台同様のパンタグラフ部が低屋根構造になっているのが特徴的である。すべて冷房準備車でAU12S形を5基搭載可能な構造で製造されたが、実際に冷房化する際には0番台同様AU72形を1基搭載した。このために屋根と天井を大改造している。
[編集] クハ169形
二等制御車(Tc)で、協調運転時に下り列車(軽井沢方面行)では先頭車となるため、EF63形との連絡装置や非常制動時に衝撃を抑える特殊構造の非常弁、主幹制御器への防護回路等が設置された。定員76名。
- 1~27
- 901~904:試作車。
[編集] サロ169形
一等付随車(Ts)で1968年にサロ165形19両から長野工場で改造された。改造工程低減のため、169系投入前から長野運転所所属の信越急行に使用されていた横軽対策施工車が改造種車とされた。冷房装置はすべてAU12S形を6基搭載する。定員48名。
1982年改正で運用を失い、1982年から1985年にかけて廃車となり形式消滅している。
- サロ165-43~48・64・65・72~78・86~89→サロ169-1~19
[編集] サハシ169形
二等室・ビュフェ合造付随車(Tb)で1968年にサハシ153形から10両が改造された。基本的な構造はサハシ165形50番台に準じているが、空気圧縮機は碓氷峠通過時にパンクさせた空気バネへの圧縮空気の再供給を迅速に行うため残されている。改造当初客室は非冷房[21]であったが、翌1969年にAU13E形2基で冷房化された。客室部の定員はサハシ165形と同じく36名。サハシ165-53~55同様に転用日程の都合上、第1次改造としてジャンパ連結器の交換と横軽対策などの169系化を郡山工場(現・郡山総合車両センター)・松任工場(現・金沢総合車両所)で施工し、のちにビュフェ部改造を長野工場で行った。
1978年10月改正で運用を失い、同年中に廃車。唯一残った5は、松本運転所に転出したが、これもほどなく1979年に廃車となり形式消滅している。
- サハシ153-1・3・7・10・24・5・9・13・25・27→サハシ169-1~10
[編集] 165系の活躍…全盛期からJR化直後まで
ただし、臨時列車の走行は別記する。
[編集] 上越線(水上以北)・信越本線(新潟口)
(新潟鉄道管理局 新潟運転所⇒JR東日本新潟支社 上沼垂運転区)
1963年に新潟運転所(→上沼垂運転区→現・新潟車両センター)に新製配置され、同年3月26日から上越線の急行下り「弥彦」、上り「佐渡」で運用開始。当初は8両から11両編成であったが、6月には夜行便の「越後」にも投入されサハシ165形を2両連結の13両編成に増強される。
- ←上野TcM'McTbTsTsTbTcM'McTcM'Mc新潟→
その後もクハ165形1両増結の14両編成での運転なども行われるが、東海道本線の急行に比べてビュフェ車の利用率が低かったことや中央東線急行への連結が決まったため、サハシ165形の連結は1両になったが、クハ165形1両が増結されたために大きく依然13両編成で運転された。
- ←上野TcM'McTsTsTbTcM'McTcTcM'Mc新潟→
また、越後湯沢~新潟間の準急「ゆざわ」が「佐渡」用の付属編成を使用して運転が開始された。なお、「ゆざわ」は翌1966年3月5日に急行格上げが行われている。1968年には愛称も「佐渡」に統一され、翌1969年には定期5往復・季節2往復までに増発され、編成の組成が一部変更となった。
- ←上野TcM'McTsTsTbTcTcM'McTcM'Mc新潟→
1970年10月2日の改正では、「佐渡」の季節1往復が特急「とき」定期1往復に格上げされ、それまでキハ58系で運行されていた上田~新潟間の「よねやま」2往復を本系列で電車化を行った。
1972年3月15日国鉄ダイヤ改正では、「ゆざわ」を廃止。「よねやま」は上野~長岡~柏崎間の気動車急行の愛称に変更され、従来の上田までの列車は「とがくし」と改称。2往復中1往復には、サロ165形の連結が開始された。
さらに同年10月1日の改正では、「佐渡」1往復が「とき」格上げ。余剰編成は、再度「よねやま」に投入され運転区間を直江津まで延長。また、下関運転所から転入のサハ165形を7号車に入れた13両編成も誕生した。後には、松本運転所からのサハ164形(1974~1978年在籍)、回送運転台付のモハ164形500番台などの転入もあり、車両構成はバラエティに富んだものであった。
- ←上野TcM'McTsTsTb(Tc)TcM'McTcM'Mc新潟→
- (Tc)は、サハ164・165形の場合あり。
1973年10月1日改正で「佐渡」は季節列車が廃止され定期4往復。また「とがくし」は2往復ともグリーン車連結の7両編成に統一された。
- ←上田TcM'McTsTcM'Mc新潟→
その後、しばらく安泰の時期が続いたが、1977年11月1日の改正で「とがくし」のサロ165形がサハ165形に置き換えられモノクラス化。1978年6月には、サハシ165形が編成から外され「佐渡」「よねやま」は12両編成となった。
- ←上野TcM'McTsTsTcM'McTTcM'Mc新潟→
1982年11月15日の上越新幹線大宮開業で「佐渡」は夜行1往復減の3往復に、また「よねやま」と共にサロ・サハが減車され10両編成になった。また「とがくし」もサハ減車で6両化する一方、名古屋~新潟間の気動車急行「赤倉」電車化に転用され、共通運用が組まれた。また中央西線通過対策としてモハ164形にPS23形パンタグラフが搭載された。
- ←上野・名古屋TcM'McTsTcM'McTcM'Mc新潟→
1985年3月15日の上越新幹線上野開業では「佐渡」「よねやま」「赤倉」が全廃。新潟運転所に残る急行仕業は「とがくし」「南越後」のみとなり、最早風前の灯とも言える状態になり、新潟エリアのローカル運用が主流となった。
民営化でJR東日本が発足すると、東京~新潟間で夜行高速バスに対する競争力を高めるため、1986年以降臨時列車として14系客車で運転されていた夜行快速列車「ムーンライト」を165系に置き換えて定期列車化。一方で1988年3月には、それまでの「とがくし」「南越後」を松本・小諸・長野~新潟間の「赤倉」へ発展的解消。「赤倉」は1997年まで、「ムーンライト」も「ムーンライトえちご」に改称され2003年まで165系で運用された。
[編集] 東北本線・日光線・両毛線・高崎線・上越線(水上以南)・長野原→吾妻線
(東京鉄道管理局 田町電車区・高崎鉄道管理局 新前橋電車区)
田町電車区の157系電車は、1963年になると冷房取付工事改造が始まり、4月から東海道線特急「ひびき」が定期列車化することも決定していた。そのため165系McM'TcX5本の15両を投入し、それまで157系で運転していた「湘南日光」「なすの」を3月25日から、「中禅寺」は4月25日から置き換えたことが起源である。その後10月1日は、新前橋電車区から6両の転入車が加わったが、1966年10月1日付けで運用をすべて新前橋区に移管している。
これらの車両とは別に当初新前橋区に配置されていた波動輸送用モハ165形組込4両編成5本が、1964年10月1日に田町区に転入している。このグループには、モハ165形・モハ164形800番台のトップナンバーも含まれており、東北本線運用にも投入されたが、1975年に神領電車区に転属している。また、153系10両編成に組み込まれていたサロ165形が配置されていた。
しかし、田町区と新前橋区との165系に関しては密接な関係があり、1968年に急行「ごてんば」運転開始の際には新前橋区よりMcM'Tc編成2本を借り受けており、1973年には1編成が転属している[22]。
一方、新前橋区でも1963年3月から165系電車が投入開始されており、10月1日より、「あかぎ」「苗場」など80系電車で運転されていた上越線準急列車の置き換えと信越急行への充当からスタートする。その後も徐々に勢力を拡大し、1966年にまで80系使用の準急・急行列車をすべて置き換えると共に 同年10月1日で「軽井沢」を除く信越急行は長野運転所に移管。同時に田町電車区が担当していた東北線黒磯以南の急行仕業を移管されている。
1968年10月1日の改正では、同一方面列車の愛称統一が行われたが、新前橋区では以降、次の急行列車を担当している。
- 「ゆけむり」上野~水上・石打
- 「草津」上野~長野原・万座・鹿沢口(万座・鹿沢口延長は1971年)
- 「伊香保」上野~渋川(1972年以降の運転)
- 「あかぎ」上野~高崎~新前橋・前橋・桐生
- 「わたらせ」上野~小山~桐生・前橋・高崎
- 「なすの」上野~宇都宮・黒磯
- 「日光」上野~日光
- 「湘南日光」伊東~日光(1970年まで)
- 「軽井沢」上野~中軽井沢
- 「ごてんば」東京~御殿場(1973年まで、田町区へ貸渡しでの運用)
新前橋区の編成は、信越本線横川~軽井沢間(碓氷峠)での運用があるために電動車ユニットが他区所と逆向きになっているのが特徴で次の3種類が存在していた。
- 基本編成
- ←上野・日光McM'TcMcM'TsTc水上・軽井沢・宇都宮・黒磯→
- 付属編成
- ←上野・日光McM'Tc水上・軽井沢・宇都宮・黒磯→
- 「軽井沢」専用編成(1972年3月15日で消滅)
- ←上野McM'TcMcM'TsTsTc軽井沢→
最盛期には基本編成15本、付属編成29本を巧みに組み合わせ3両から最大15両編成で上野を中心として、急行列車からローカル普通電車まで幅広い運用を行っていた[23]。しかし、1973年に発生した上尾事件がきっかけとなって朝夕ラッシュ時間帯の通勤電車への使用は以後減少していった。
新前橋区の165系に大きな変化が起ったのは、1982年のことである。東北・上越新幹線の大宮暫定開業により、新幹線リレー号が運転されることになるが、その使用車両こそ新前橋区に新造投入された185系電車200番台である。11月15日の改正では、「日光」が全廃されたほか、一部列車での運転本数削減が行われ、状態の悪い初期車の一部に廃車が出た。また、余剰となったクハ165形11両が松本運転所(現・松本車両センター)に大量転属している[24]。
そして1985年3月14日改正では新幹線の上野延伸開業が行われ、リレー号廃止で余剰になった185系電車は、一部が田町電車区に転属となったものの新前橋残留車によって165系で運転されていた定期急行列車は新特急に格上げとなり全廃。新前橋区の165系は他区所に転属する車両、廃車になる車両(一部機器は、107系電車用に供出)、残留する車両に別れ、以後はローカル運用や臨時急行列車、または波動輸送に使用されていくことになった。
[編集] 信越本線
(長野鉄道管理局 長野運転所・高崎鉄道管理局 新前橋電車区)
1963年10月1日、横川~軽井沢間の碓氷峠が粘着方式による複線運転が開始され、同時に長野までの電化が完成した。それに伴い、新前橋電車区の165系電車により、上野~長野間にそれまでの「丸池」を統合した急行「信州」4往復、「信州いでゆ」(全車指定席列車)1往復、「とがくし」(夜行)1往復、上野~長野・長野電鉄湯田中「志賀」2往復、上野~中軽井沢間準急「軽井沢」1往復(もう1往復は、80系電車で運転)が運転開始された。
1965年10月1日の直江津電化で、上野~直江津間の「妙高」2往復にも投入。一方、「軽井沢」は80系電車運転分が廃止され1往復になった。なお、「軽井沢」は翌1966年3月5日に急行列車に格上げされている。
1966年10月1日改正では、特急「あさま」が181系で運転開始されたが、信越線に関する電車急行は、「軽井沢」を除き長野運転所に移管。新造車と新前橋からの転属車で運用に充当されると共に「信州いでゆ」は「信州」に統合、またそれまで不定期客車列車で運転されていた「高原」も165系化された。
しかし、碓氷峠はEF63形による牽引・推進運転のために連結両数が8両まで制限されていたために次のような編成であった。
- ←上野McM'TcMcM'TsTsTc長野→
165系のままでは、抜本的な輸送量増強に対応ができないためにEF63形と協調運転をすることによって12両編成まで碓氷峠を通過できる165系900番台を1967年に12両(McM'TcX4本)試作し、新前橋電車区に配置。横軽区間で試運転を行ったところ良好な結果を残したために翌1968年に169系量産車として長野運転所に投入[25]されることになる。
1968年10月1日の改正で信越急行は169系電車に置き換えられ、全列車9両もしくは12両編成での運転が開始された。
- ←上野McM'TsTsTbTcMcM'Tc+McM'Tc長野→
- 上野方9両が基本編成。長野方3両が付属編成。
この改正では、「高原」「志賀」の長野発着列車は「信州」に統合され7往復、「丸池」「とがくし」の直江津発着列車は「妙高」に統合され定期2往復・不定期1往復・夜行客車列車1往復の計4往復になる。また、「軽井沢」は季節列車に格下げされた。
1969年10月1日改正では、「信州」2往復が妙高高原まで運転区間が延長されたために「信州」は5往復、「妙高」は6往復となった。 また、「信州」の湯田中編成が「志賀」と改称(2往復)。なお、この列車は下りのみ先頭車(12号車)が指定席とされていた。
1972年3月15日の改正で専ら新前橋区の165系で運転されていた「軽井沢」のサロ165形が1両減車され7両編成での運転になった。同年11月25日には「妙高」1往復が特急「白山」に発展的解消。しばらくの間、「信州」5往復・「妙高」5往復(うち客車夜行1往復)・「志賀」2往復の体制での運転となる。
1978年10月改正を前にして、基本編成から1976年一杯でビュフェの営業が休止となっていたサハシ169形が外され、全車翌年までに廃車となった。基本+付属で11両編成となると共に「志賀」1往復が不定期列車となる。
1982年11月15日の改正で、「妙高」は客車使用の夜行1往復のみとなり169系使用列車は全廃。また、「志賀」も全廃となり長野電鉄への乗り入れが中止された。「信州」は5往復健在なるも、サロ169形1両減車の10両編成に短縮。また5往復中4往復が、軽井沢~長野間が普通列車、もしくは快速列車による運転となった。
- ←上野McM'TsTcMcM'Tc+McM'Tc長野→
- この改正で余剰車が松本運転所に大量転出している。松本所への転出は、1978年の8両から始まり、その後は1985年と1988年にまでMcM'ユニットとTcは一度は必ず松本に転属が行われた。その後は、長野に出戻った車両。松本で廃車になった車両。三鷹電車区に転属した車両などに別れた[26]。
- 松本運転所転属の際にモハ168形は、中央東線の狭小トンネル対策を施工されており、パンタグラフはPS23形に交換された。
- 新前橋電車区所属の900番台は、1984年~1985年にかけてクモハ・クハ169形がクハ455形に、モハ168形がサハ165形100番台に改造され区分消滅している。
1985年3月14日改正で「信州」は全廃される。しかし、客車運転を行っていた夜行「妙高」が169系化され、McM'TcX3の9両での運転となった(長野~直江津間は普通列車)。だが、その期間も短く翌1986年11月1日には189系による運転に移行。またこの改正では、サハ165形を挟み込んだ4両グレードアップ車による「かもしか」が、長野~飯田間に設定されたものの2年後には快速列車に格下げされてしまい、信越本線における169系定期急行の歴史は閉じられた。
なお、169系電車としてのその後はローカル運用、もしくは波動輸送用としての活動が主になるが、しなの鉄道にMcM'Tc4本12両が譲渡されており、富士急行2000形6両と共に現役で残る最後の165系グループ車両でもある。
[編集] 中央本線・大糸線・篠ノ井線・飯田線(辰野口)
(国鉄:東京西鉄道管理局 三鷹電車区・長野鉄道管理局 松本運転所・長野運転所・名古屋鉄道管理局 神領電車区・新潟鉄道管理局 新潟運転所) (JR東日本:東京地域本社(→八王子支社) 三鷹電車区・長野支社 松本運転所・長野運転所)
中央東線で最初の165系運用は、1963年4月28日から5月26日までの休日、新宿~甲府間を下り臨時準急「かいじ」と上り臨時普通列車として、新前橋電車区配属の波動用165系4両×2編成で運転された。定期急行が誕生したのは1964年の上諏訪電化時で、三鷹電車区に配属された11両を用いた「たてしな」が新宿~上諏訪[27]が運転された。当初は最終期の「アルプス」基本編成と同様の編成で一等車1両を含む7両[28]であった。
- ←新宿McM'TcTsMcM'Tc上諏訪→
1965年の松本電化[29]に伴い松本運転所へ新製車53両と三鷹区の11両が投入され、同年7月に3往復が、10月に気動車急行置換などで計11往復が設定された。このダイヤ改正で上越急行から転用したビュフェを組み込んだ12両編成に改められ、12月からビュフェの営業が開始された。1966年3月には売店車サハ164形が就役した。
- ←新宿McM'TsTsTbMcM'Tc+McM'TcTc松本→
- 松本方4両は付属編成。
- Tbは、Tkの場合がある。
1968年10月1日改正では、松本発着が「アルプス」、甲府発着が「かいじ」、飯田線直通が「こまがね」(「天竜」から分離)に愛称が統一され、「アルプス」11往復、「こまがね」3往復、「かいじ」5往復、「かわぐち」6往復となった。編成は「アルプス」「こまがね」は12両、「かいじ」「かわぐち」は11両[30]での運転となった。1972年10月改正からは新宿から身延への季節急行「みのぶ」が運転を開始[31]、甲府まで「アルプス」[32]に併結した。
1975年のキハ58系で残っていた「アルプス」の電車化の際に下関運転所、大垣電車区及び新潟運転所などから増発用の165系が転入した。この時にモハ164形500番台は狭小トンネル対策としてパンタグラフのPS23形への交換と避雷器移設工事済を行う。また新製時からの冷房車で最終製造ユニットのクモハ165-141+モハ164-864[33]も転入する一方でサハ164形が新潟運転所に転出している[34]。また、1978年から1988年にかけて信越急行の廃止に伴い169系が長野運転所から転入[35]
松本所基本編成の5号車にはビュフェ車のサハシ165形と売店車のサハ164形の2種類があったもののビュフェの営業は1976年限りで休止となった。しかし、1・2号車の冷房装置をはじめとするサービス電源の供給をサハシ165形もしくはサハ164形のMGから行っていたために外すことができなかった。そこで1982年3月、185系200番台の投入により余剰となった新前橋区のクハ165形11両を転入させ、サハシ165形9両とサハ164形2両と差し替えた[36]。
- ←新宿McM'TsTsTcMcM'Tc+McM'TcTc松本→
1982年11月15日国鉄ダイヤ改正では、中央東線の急行の基本編成からサロ165形が1両減車され、基本7両+付属4両の11両編成に変更されている。
さらに1986年11月1日のダイヤ改正で中央東線の昼行急行が全廃され、残存した定期夜行「アルプス」も183・189系に車両変更されたので、165・169系は臨時列車用と松本地区のローカル輸送用に役割を転ずる。またMcM'TcX11本は紀勢本線に残っていた客車列車を置き換えるために日根野電車区に転出した。
一方、中央西線への投入は1973年の中津川~塩尻電化時であり、キハ91系・58系で運転されていた「きそ」「つがいけ」などに投入した。また車両は、神領電車区に元山陽急行用車両から転用のモハ164形500番台やモハ165形、そしてサハ153・165形、クハ164形などバラエティーに富んだ形式の転入でファンを楽しませた。
1978年に夜行列車を除く「きそ」と「つがいけ」の165系化が完了したが、1982年11月には新潟運転所の車両で「赤倉」が165系化されたものの「天竜」と併結を行う中津川→長野間1本を除いて昼行の「きそ」は廃止。また、運用が松本運転所に移管されている。1983年7月には、中津川発「きそ」は快速へ格下げとなり、西線を全線走行する165系急行は、「赤倉」のみとなるがこちらも1985年3月改正で廃止となっている。
長野県内のローカル急行として存続していた松本(一部天竜峡)~長野間の「天竜」は、1986年11月に新幹線からの発生品の転換クロスシートや簡易リクライニングシートを装着のうえ車内装備をグレードアップし、愛称を「かもしか」と改めた。この車両は長野運転所の165系・169系4両編成で、クリーム10号地に緑14号のストライプを巻いたものであるが、長野(Nagano)の頭文字Nを図案化したもので、「新急行色」とも呼ばれたが、2年後の1988年に全列車が快速「みすず」に格下げされ、急行運用は消滅した。
なお、この「新急行色」は、その後松本運転所の169系3両編成にも施された。座席を簡易リクライニングシートに交換しており、「改座車」とも呼ばれ、主に臨時列車に使用された。
[編集] 総武本線・房総各線
(千葉鉄道管理局 津田沼電車区・幕張電車区)
1960年代の千葉鉄道管理局管内の電化区間は、国電区間である千葉までで気動車王国と呼ばれる程であったが、1968年に房総西線(現・内房線)が木更津までを電化。翌1969年7月11日千倉電化の際に165系最終増備車44両を津田沼電車区に投入して急行「うち房」で運行を開始した。編成は基本編成がグリーン車付きの7両+付属編成3両の10両。さらに1971年7月1日には安房鴨川まで電化区間が延長されに、「うち房」は下り7本・上り9本(うち2往復は季節列車)が安房鴨川まで延長運転された。
1972年7月15日ダイヤ改正では、総武快速線の東京地下駅~錦糸町間開業、ならびに房総東線(同日から外房線に改称)蘇我~安房鴨川間電化によって、従来の「うち房」「そと房」を廃止し、房総半島を一周する循環急行「みさき」(新宿・両国→勝浦→館山→両国・新宿)「なぎさ」(新宿・両国→館山→勝浦→両国・新宿)それぞれ2本ずつ計4本の運転が開始された(両列車とも勝浦~館山間は普通列車)。また、津田沼区から新規開設された幕張電車区に転属。
1975年3月10日のダイヤ改正では、「みさき」「なぎさ」を廃止し、新宿・両国~館山間「内房」、新宿・両国~安房鴨川間「外房」各3往復に再編。さらに前年10月26日に電化が完成していた総武本線佐倉~銚子間、成田線成田~松岸間および鹿島線への「水郷」「犬吠」「鹿島」についても電車化した。この運用増に対し下関運転所と田町電車区から153系37両が転入し、165系と共通運用化。また編成は通常7両編成となり、付属編成は多客期のみの連結となる。
1982年11月15日ダイヤ改正で総武・房総急行は廃止されたが、運行末期にはヘッドマークの一部撤去やグリーン車が編成から外され普通車のみ6両で運転が行われていた[37]。
その後、幕張の165系は首都圏波動用の12両を残し新潟・豊橋などに転出したが、1986年には169系(クモハ169-9+モハ168-5+クハ169-9)が松本運転所から転入して総数は15両となった。また、ジョイフルトレインへは1986年に和式電車「なのはな」へ6両、1990年に「シャトルマイハマ」へ3両が改造された。
[編集] 東海道本線・御殿場線・身延線・飯田線(豊橋口)
(東京南鉄道管理局 田町電車区・名古屋鉄道管理局 大垣電車区・大阪鉄道管理局 宮原電車区など)
東海道本線電車急行は153系電車が長らく主力であったが、対中部・関東方面への165系の運用は1963年10月からの準急「比叡」「するが」の12両化時に153系の編成に宮原区のクモハ165+モハ164形500番台を連結したのが同線における起源である。
1968年、「ごてんば」に新前橋電車区から貸出された165系が使用された。碓氷峠の関係でこの編成も逆向き(クモハ165形が下り側)に連結された。
また「ごてんば」は、1973年に上野~東京間の回送線が使用停止になると新前橋区と大垣区から田町区に転入のモハ164形500番台組込の3両編成2本を投入した。この編成は1981年10月に幕張区に転出し、「ごてんば」は首都圏の波動あるいは団体輸送用として使われていた167系に変更された。これにより「東海」12両+4両の16両編成[38]となり、ホーム有効長の関係で一部駅では最後部車両のドアは締切扱(ドアカット)となっていた。
大垣電車区には、1968年にクハ165形・サロ165形が配置され「東海」に投入。これにより捻出されたサロ152形は1969年までにサロ112形に改造されて転出していった。
1972年3月、山陽新幹線新大阪~岡山間の開業により、山陽本線の電車急行の改廃が行われ下関所の165系が大垣区へ転入し、80系電車を使用していた飯田線の「伊那」、身延線の「富士川」を165系に置き換えた。なお、「富士川」編成にはサービス電源と圧縮空気の確保のために1982年11月までサハ153形200番台を組込んでいた。
一方で、共に153系の出発点となった「東海」と「比叡」は1983年春に165系化されている。
[編集] 山陽本線
(大阪鉄道管理局 宮原電車区・岡山鉄道管理局 岡山電車区・広島鉄道管理局 下関運転所など)
山陽本線での165系使用は、1963年10月1日大阪~宇野間準急「鷲羽」と大阪~三原間準急「びんご」の12両化時に宮原区のクモハ165+モハ164形500番台を連結したのが最初である。 「鷲羽」が、当時宇野線の変電所容量の関係で電動車が4両までに抑えられていたため、岡山で分割・併合する都合で、下り向きに連結[39]されていた。
1964年には宮原区にクハ165形・サロ165形が投入され、サロ165形は「なにわ」「いこま」等の153系編成の一等車冷房化に用いられ、捻出されたサロ152形は大垣区へ転出。153系準急「東海」一等車のリクライニングシート化がはかられた。さらに宮原区には1967年~1968年にかけてもサロ152形→サロ112形改造種車の捻出が目的でサロ165形が新製配置されている。
1965年には、宮原区[40]と岡山電車区にモハ165形組込による4両編成を1単位にした165系が32両と16両配置され、波動用として主に団体輸送に使用された。 山陽本線でも153系は多く使われていたが、瀬野~八本松間に存在する連続急勾配区間、通称「瀬野八」は、登坂力の弱い153系にとっては電動車比率の高い編成を組まなければならなかった。このため1965年10月に80系電車と気動車準急の置き換え用に下関運転所にも165系は配置された。これには、新造車の他に宮原区からもモハ164形500番台の以前は増結ユニットとした活躍していた車両も多数含まれていた。しかし一等車はサロ152形のままであったため抑速ブレーキを使用できず、しかも非冷房のために後にサロ165形も投入された[41]。また、クハ153形8両がクハ164形に幡生工場で改造された。そして1972年3月の山陽新幹線岡山開業時に宮原運転所から153系が転入し、下関所の165系は大垣電車区や宮原区に転出していった。また岡山区の車両も神領電車区に転出している。
さらに1975年3月10日の山陽新幹線博多開業までには、本来の修学旅行用の務めを終え波動用に転用され下関所から宮原区に転属した167系電車の不足する先頭車や新快速用にクハ165形と153系に組み込むサロ165形が宮原区に残った程度で、多くの車両は関東・中部へ転属となった。
なお、1972年から運転された新快速用宮原所属のクハ165形は、不足するクハ153形を補うために充当されたもので、これらは153系と同様の灰色9号に青22号の帯を巻いた「ブルーライナー」塗装とされていたが、1980年の117系投入開始後は順次元の湘南色[42]に戻された上で転用されている。
[編集] 165系の活躍…末期
165系の本来の使用の場とされた急行列車自体が1980年代より減少したことにより、1990年代には東海道本線の「東海」や信越本線の「赤倉」など僅かな列車が残ったが、それらも特急への格上げなどで、急行列車としての運用そのものが消滅することとなった。
そのため、余剰車両の活用を目的に、国鉄末期から一部の車両はジョイフルトレインへ改造された(「ジョイフルトレインへの改造」の項を参照のこと)。
すでに1981年から普通車の老朽廃車は開始されていたが、急行運用が減少したため、新潟・長野・松本・甲府地区、飯田線豊橋口、関西本線名古屋口、それに国鉄末期に残っていた紀勢本線の客車列車の電車化のために松本区から転属した和歌山地区などでは、普通列車の運用に充当され、夏期の冷房化率向上に貢献した。JR発足後、JR東日本の一部地域では、車体のカラーも変更され、イメージを一新している。
しかし、2枚扉でデッキ付きという構造が災いして乗降に時間を要し、列車遅延の原因となるなど使い勝手が悪く、結果、115系・E127系・119系・213系5000番台・105系などに置き換えられ、営業運転の機会は徐々に狭まっていった。ただし、後継車両のほうが座席数・車内設備等で劣る例が多く、線区によっては余程の混雑時でもない限り置き換えが不評なこともある。
JR化後、165系などの急行形電車は車両の老朽化を理由に廃車されたも多く、また急行運用の間合で首都圏のラッシュ時の通勤列車運用に入っていたものに関しては、「上尾事件」(外部リンクを参照)に象徴されるように重通勤輸送には不適であり、早急なる置き換えは必須であった。
地方・郊外路線の準優等列車としてリクライニングシートの装備などアコモデーションの改善がなされた車両で運行されていた快速「みすず」や「むさしの」などもあり、また車両の一部は普通列車にも使用されていたが、これらの列車が一般型の車両に置き換えられたことは直接的なサービスの低下となった。他方首都圏で急行形車両で運用されていた「ホリデー快速」の多くは特急形車両に置き換えられ、サービス水準は維持された。
なお、北関東で運用されていた車両の一部は、107系電車新製にあたって主電動機・台車・冷房装置などの機器を供出しているが、165系との車籍上のつながりはない。
[編集] JR東日本
幕張電車区の165・169系6両は1995年10月から運転を開始したホリデー快速「ときわ鎌倉号」として常磐線取手~三河島(通過)を走行し、三河島から田端操車場へ入り、池袋・新宿経由で横須賀線鎌倉まで運転され話題を呼んだ。特に常磐線では普段湘南色の電車は入線しないため沿線の乗客が驚くといったエピソードが残っている。この列車に165・169系が運用されたのは1995年10・11月の7日間だけで終わり、翌1996年3月の運転再開時からは田町電車区の167系アコモ改造車が使用された。なお、幕張区の6両は1996年8月に廃車となった。
三鷹電車区の169系5編成と165系1編成は、東京近郊で運行されていた「こまちリレー号」(→「新幹線リレー号」→快速「むさしの」)や各種「ホリデー快速」などに使用されたが、「むさしの」は2002年12月に豊田電車区(現・豊田車両センター)の115系に、「ホリデー快速」も183・189系にそれぞれ置き換えられたことにより、これら準定期運転を終了した。その後これらは徐々に廃車され、2003年1月2日の臨時列車(169系3+3連)の運行を最後に運用を終了した。なお同日に三鷹区まで回送された際には「急行」の種別幕が表示された。
田町区の167系も他区所の車両と同様に各種「ホリデー快速」や臨時列車に使用されていたが、5月から9月にかけて廃車され、JRグループから165系列は営業運転から完全に離脱した。
2002年、新前橋電車区165系のS9~11の3編成を湘南色にリペイントし、以下のようなイベント急行列車としての運転を実施した。6月末の急行「さよなら165系上越号」をもって、新前橋区の165系が全車廃車とされ、長野工場で解体された。
- 2002年11月2~4日 「草津」(上野~万座・鹿沢口駅間)
- 2002年11月9・10日 「ゆけむり」(上野~水上間)
- 2002年11月16日 「内房」(両国~館山間)
- 2002年11月17日 「外房」(両国~安房鴨川間)
- 2002年11月23日 「犬吠」(両国~銚子間)
- 2002年11月24日 「鹿島」(両国~鹿島神宮間)
- 2003年3月29・30日 「伊香保」(上野~水上間)
- 2003年4月12・13日 「奥利根」(上野~水上間)
- 2003年4月27日 「わたらせ」(上野~小山~桐生間)
- 2003年5月24・25日 「妙高」(上野~横川間)
- 2003年6月14・15日 「さよなら165系信越号」(上野~横川間)
- 2003年6月21・22日 「さよなら165系吾妻号」(上野~万座・鹿沢口間)
- 2003年6月28・29日 「さよなら165系上越号」(上野~水上間)
「ムーンライトえちご」と「フェアーウェイ」で使用されていた上沼垂運転区所属の「M編成」も老朽化に伴い、2003年3月のダイヤ改正をもって485系電車と交代し、最後まで残った定期運用から165系の運転が完全に終了した。
その後、M1・6編成を使用して善光寺のご開帳を記念した臨時快速「とがくし」を5月に運転。また、M2・3編成を湘南色にリペイントして、JR東日本は165系ゆかりの路線で「さよなら運転」を以下のように実施した。
- 2003年6月21・22日 「懐かしの急行佐渡」(上野~新潟間)
- 2003年6月28・29日 「懐かしの急行アルプス」(新宿~松本間)
- 2003年7月12日 「懐かしの急行かいじ」(新宿~甲府間)
- 2003年7月13日 「懐かしの急行かわぐち」(新宿~河口湖間)
8月23日の大井工場一般公開時に展示が行われたのを最後に、M2・3編成は8月27日に長野総合車両所へ廃車回送された。
165系による最後の営業列車運用は、2003年4~9月に運行された上越線・信越本線の臨時快速「こころ」(越後湯沢~長岡)であった。上越線沿線を舞台とするNHK2003年度上半期朝の連続テレビ小説「こころ」の放映にちなみ、前述した「ムーンライトえちご」で運用されていたM編成[43]によって土曜・休日を中心に運行された。当初は6月末までの運転予定であったが、好評のため運転が 延長され、「こころ」放映最終日の翌日である9月28日で運用が終了し、新潟への返却回送を営業運転へ変更した。団体急行「さよならこころ」(越後湯沢→新潟)をもって、165系による営業運転が終了した。この列車のサボには『越後に生まれ 越後に消える 40年間ありがとう 上沼垂運転区165系直流急行型電車 Last Run』の文字が添えられていた。
10月には「とがくし」で使われたM1編成と共に、住み慣れた新潟を去り、長野総合車両所へ廃車回送され、これを持ってJR線上からすべての165系が姿を消した。
[編集] JR東海
1995年10月1日のダイヤ改正で「富士川」の特急格上げにより、静岡運転所(現・静岡車両区)のF編成(4両)は「花の木金号」や「ホームライナー」の371系が検査入場した際の代走運行や、朝の菊川~興津間の普通電車に充当されるのみになった。これに伴い、F編成は5本中4本と予備車のモハ164-801+モハ165-1が早期に廃車された。なお、この予備車には廃車までトイレの汚物処理装置が装備されていなかった。
1996年3月16日のダイヤ改正により「東海」が特急格上げとなり、静岡運転所の165系は定期運用から完全に撤退した。なお、格上げと165系運転終了記念として3月1日から15日までヘッドマークを掲げて運転された。
K1編成は3月15日の静岡→東京の普通列車366Mとして8両で運行、翌朝身延線西富士宮の留置線へ回送された。
K2編成は3月15日の大垣→東京の普通列車372Mとして11両で運行、翌朝323Mで静岡到着後、西富士宮へ回送された。
K3編成はグリーン車の帯を復活させた編成で、3月15日の「東海」1号~2号~3号は8両で運転、4号は静岡で3両増結し11両としヘッドマークおよびサボは特製品が掲出され、東京からは375Mとして最後の大垣夜行の運用に就いた。この編成は大垣到着後、3両が分割され米原までの運用を行い、運用終了後再び11両で西浜松へ回送されている。
その後K1・K2編成とK2編成に連結されたK1-1編成は富士へ出た後西浜松まで回送されて後日解体された。K3編成+K2-1編成は1度静岡運転所へ戻り、廃車準備の後再び西浜松へ回送されて解体されている。また予備で残っていた3両編成2本中1本とサロ165形(1両)も回送後廃車された。残った3両編成は神領電車区へ転出し、同区所属の3両編成1本を置き換えた。
またK3編成の5号車に組み込まれていたサロ165-106は解体されず残り、現在は浜松工場で静態保存されている。
JR東海の国鉄引継ぎ車両のほとんどに共通する点であるが、車体のカラーは変更されずに最後までオリジナルカラーを保っていた。
- 静岡運転所165系編成一覧
- F編成(F1~F5)
- ←菊川・静岡・甲府TcM'MTc富士・三島→
- K編成(K1~K3)
- ←静岡・大垣TcM'MTsTsM'MTc東京→
- K-編成(K1-1~K4-1)
- ←静岡・大垣TcM'Mc東京→
K-編成は「東海」4号と375M・372M・325MのK編成の東京寄りに連結されていた。
- 神領電車区
1996年3月時点の神領電車区には3両編成12本が在籍し、中央西線・関西本線普通列車に使用されたほか、臨時快速「さわやかウォーキング」や、JR東日本の167系と交互に東京-大垣間の臨時夜行列車にも使用されていた。大半の編成はトイレが3両中1箇所しか使用できず、臨時夜行運用ではトイレが混雑する傾向にあった。
313系ワンマン車が神領に入ると順次廃車、2001年5月の臨時運用を最後に大半の編成が解体された。一部編成は保存目的で美濃太田車両区へ回送・静態保存された。
[編集] JR西日本
国鉄末期の1986年11月1日国鉄ダイヤ改正での、紀勢本線の客車列車置き換えを目的に、松本運転所の車両が日根野電車区に転入した。この時点では最早急行列車として運用されなくなっていたが、JR東海の車両同様にオリジナルカラーのままで、大きな改造はされなかった[44]ために原形は保たれていた。運転区間は紀勢本線和歌山~新宮間[45]が中心で、紀伊田辺~新宮間の普通列車のほぼ全列車に充当されていた。早朝・深夜には阪和線にも入線していた。1989年からは新大阪にも定期列車[46][47]で入線した。
一方、167系は宮原運転所に所属し、基本的には臨時列車で運用していた。1988年9月から年末までの間、瀬戸大橋線の臨時快速として岡山~高松間で運転された。
宮原運転所に配属されていた167系の多くが廃止された1997年からは、代わって臨時急行「ちくま」「くろよん」に投入されたこともあったが、老朽化に伴い、1999年5月のダイヤ改正から徐々に撤退をはじめ、2002年3月のダイヤ改正で阪和線・紀勢本線での運用を終了した。同年3月30日には山陽新幹線新大阪~岡山間開業30周年記念として日根野区車6連を用いて新大阪~宇野間で「鷲羽」のリバイバル運転を行った。
[編集] 他社へ譲渡された車両
現在、一部の車両が以下の鉄道会社に譲渡されている。
3両編成3本(9両)が譲渡され、急行「秩父路」で使用されていたが、2006年11月25日限りで営業運転を終了し6000形(元西武鉄道新101系)へ置き換えられた[48]。
- 富士急行:2000形
「パノラマエクスプレス アルプス」改造車が譲渡され、6両を2本に分割のうえ「フジサン特急」に使用されている。編成方向の統一は行われなかったため、使用編成によって展望席の方向は異なる。また、波動用車両として三鷹電車区に所属していた車両のうち3両が部品確保用として譲渡されている[49]。
- しなの鉄道(旧信越本線軽井沢~篠ノ井間):169系
路線開業に伴い1997年に169系3両編成3本が系列・形式称号・車両番号を変更せずに譲渡され、「ホームライナー」などで使用されている。翌年の1998年にも3両編成1本が増備された。
[編集] 165系のユニットの向き
165系では原則的にクモハ165形+モハ164形のユニットを奇数(東海道本線基準の上り)向きとして運用した。これは153系など他の新性能電車のユニット構成に準じた標準的な取り扱いである。ただし、碓氷峠を通過する車両については、重量の重いクモハをEF63側(峠の下側)に向ける方が連結器の坐屈による浮き上がり脱線の予防などの点で望ましかったため、偶数(東海道本線基準の下り)向きとしていた。
これに関しては信越本線での運用が存在した新前橋電車区所属で横軽対策が施行されていた165系、169系900番台と長野運転所の169系が該当する。
これに対し、中央東線で運用されていた松本運転所所属編成は、中央本線を基準として考えると偶数向きであるが、東京駅基準で考えると山手線(山手貨物線)を経由させて新宿から中央本線に入るため、正規の方向となる。また、塩尻駅の移転前はここで篠ノ井線→中央西線に入るにはスイッチバックで逆編成になるために松本車は中央西線での運用は正規向きとなって辻褄があうことになっていた。
房総地区では、1969年に44両が津田沼電車区に投入され、次の編成で使用されていた。
- ←新宿TcTsM'Mc+TcM'Mc+(TcM'Mc)館山・安房鴨川→
- ( )内は付属編成
1972年、房総東線(現・外房線)の電化完成によって165系電車は幕張電車区に転属すると共に房総循環急行「なぎさ・みさき」に使用されることになる。しかし内房線、外房線で一周して蘇我駅に戻ってきた時点で編成が逆向きになってしまうために午前1周、午後1周。つまり、1日に房総半島を2周して元の向きに戻す運用が組まれていた。
- 1972年~1975年に行われていた幕張電車区165系の定期運用
- 運用A
- 【みさき1号】新宿6:50(201M)8:54勝浦(281M)館山10:18(102M)12:42新宿
- 【みさき3号】新宿12:52(205M)14:56勝浦(285M)館山16:08(106M)18:10両国
- 運用B
- 【みさき2号】両国8:04(203M)9:59勝浦(283M)館山11:32(104M)13:34両国
- 【みさき4号】両国14:04(207M)15:50勝浦(287M)館山17:08(108M)19:29新宿
- 運用C
- 【なぎさ1号】新宿7:00(101M)9:18館山(282M)勝浦10:53(202M)12:38両国
- 【なぎさ3号】両国13:30(105M)15:33館山(286M)勝浦17:00(206M)19:02新宿
- 運用D
- 【なぎさ2号】両国8:30(103M)10:33館山(284M)勝浦11:58(204M)13:58新宿
- 【なぎさ4号】新宿14:13(107M)16:33館山(288M)勝浦18:02(208M)19:53新宿
- 運用A
[編集] 参考文献
- イカロスMOOK『国鉄型車両の系譜シリーズ04 形式165系』(2006年) ISBN 4871498670
- 福原俊一『国鉄急行電車物語』(2006年) ISBN 4533064728
- 『幻の国鉄車両』(2007年) ISBN 9784533069062
-
- 沢柳健一「サロ85形改造2階式展望電車」
- ジェー・アール・アール
- 『国鉄車両シリーズ1 直流急行形電車』 (1982年)
- 交友社『鉄道ファン』
- 1977年9月号 No.197・1978年2月号 No.202 大井 広「東海道電車急行ものがたり」
- 1993年3月号 No.383 福原俊一「修学旅行電車のあゆみ―その5―」
- 1995年9月号 No.413 特集:「急行形」スペシャル
- 1998年12月号 No.452 特集:直流急行形
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』
- 1984年6月号 No.433 特集:165・169系急行形電車
- 1994年3月号 No.588 特集:JR165系電車の現状
- 1997年7月号 No.639 特集:165系電車の興味
- 「JR電車ライブラリーシリーズ6 急行形電車」
- 浅原信彦『ガイドブック最盛期の国鉄車輌4新性能直流電車 下』(2007年)
- プレス・アイゼンバーン『レイル』
- No.52(2005年) 三宅俊彦「大垣電車区のクイーン物語」
- テラダプロジェクト(DVDソフト)
- 旧国鉄形車両集5 165系直流急行形電車
[編集] 脚注
- ^ サハシ451形に準拠した構造である1~12と、サハシ153形からの改造である50番台およびサハシ169形とではビュフェ部分の窓配置、車内構造に差異がある。
- ^ 153系のKE57A形と互換性を持たせて混用が可能。
- ^ 165系では唯一非冷房のまま廃車となった。
- ^ このグループは暖地向けのため耐寒耐雪構造は省略された。
- ^ サハシ165形50番台はクハ164形と異なり中央本線で使用されることから、耐寒耐雪構造に改造されている。
- ^ 一部鉄板で施工した例もあり
- ^ シールドビーム灯の位置が本来の位置と微妙に異なる車両も存在した
- ^ モハ168形900番台では、AU12S形搭載の準備工事を行っていたために冷房化の際に大改造工事を行った。
- ^ このダクトは新製時からの冷房車には設置されていないものもあり、冷房車にもかかわらず運転席は非冷房だった。
- ^ 後位側の側出入口寸法は700mmのまま。
- ^ モハ164形は800番台のため低屋根部分も同じ床の高さの場合居住性等の悪化が想定されたため、仕切を設け洋間風サロン室として独立させた。
- ^ 「なのはな」は乗客からは非常に好評であったが直流電車であるため、東北本線黒磯以北、常磐線取手以北の交流区間に入線できないという弱点があった。団体列車としてこれらの区間に入線できないのは企画する側にとっても痛手で、後継の「ニューなのはな」についてはこの欠点を補うために485系を種車として改造されている。
- ^ 越後湯沢にある「アルプの里」にちなんだ愛称で、中央東線の急行「アルプス」とは無関係。
- ^ 名鉄パノラマカーや小田急ロマンスカーと異なり完全な2階建て構造とはなっていない。
- ^ 実際には183系との併結はほとんど行われなかった
- ^ 運行範囲は東海エリア以外にも関東・関西エリア、さらに1996年5月には四国エリアに入線した実績もある。
- ^ マスコンの3~5ノッチ間
- ^ 一部ではCS15案もあった。
- ^ 1964年から1975年までは田町区に所属していた。
- ^ 2007年に新型車両への置き換えが計画されていたが経営状況により、しばらく新型投入は見合わせると発表されている
- ^ ビュフェ側は元々AU12形4基を装備。
- ^ その他三鷹電車区で115系による急行運用が発生した際には、新前橋区のサロ165形をスカ色に塗り替え、引通し線を改造して長期貸渡しをしている。
- ^ 新前橋区の車両運用は複雑なことで知られていたが、ひとつだけ注意しなくてはいけない約束事があった。それは両毛線に関する運用で小山口からも高崎口からも方向転換せずにダイレクトに入れるため、線内に「わたらせ」で入った編成と「あかぎ」で入った編成は逆向きになってしまう。そのために折り返しの際には入線した経路で戻すという鉄則があった。
- ^ 松本所の編成が冷房用MGの関係で編成から外すことのできなかったサハシ165形・サハ164形を置き換えるためである。
- ^ これにより、長野配置の165系は全車新前橋に転属した。
- ^ 1978年に事故でユニットペアを失ったクモハ169-5は4年近く保留車とされたものの、1982年にこれまた事故でペアを失ったモハ168-9とユニットを組成した直後に松本に転出、さらに1986年にはクハ169-9を連れて幕張電車区に再転出している。
- ^ のちに岡谷まで延長
- ^ サロ165形の組込位置が異なる。
- ^ 大糸線乗り入れ列車用にサロ85形を改造した1等展望車の導入が計画されていたが、諸般の事情で中止となっている。
- ^ 基本8両+付属3両で、付属編成のクハ165形2両のうち松本方の車両を三鷹電車区に留置させ投入した。これは富士急行線内のホーム有効長の関係で3両までの制約があったため。
- ^ 甲府駅の構内配線の関係から連結作業を簡略化するために通常松本方に連結する付属編成を下り列車は新宿方の連結とした。このため本来新宿方から1号車…12号車と来る号車番号が9号車…12号車+1号車…8号車という現象が起こった。
- ^ 1973年10月からは岡谷行「たてしな」に変更
- ^ 最終ユニットは新潟→大垣→松本と転属している
- ^ サハ164形は1979年と1980年に2両とも松本運転所に出戻り転属をしている。
- ^ 転入時には狭小トンネル対策を施工している。
- ^ 余剰車両は、すぐ廃車になったものや篠ノ井線西条駅などに留置された車両もあったが1983年3月までに廃車となった。
- ^ 一方、改正直前には車両転配等の関係で早期転入した183系1000番台が急行「鹿島」などに投入された。
- ^ これは在来線の最長編成記録でもある。
- ^ 非冷房のクハ153形とクハ165形は引き通し線が両渡りなので、逆向きでの連結も可能となる。
- ^ 宮原配置車は翌1966年から1968年にかけて向日町運転所(現・京都総合運転所)に一時的な転属をしている。
- ^ サロ152形は一部がサロ112形に改造されたが、中には冷房改造されてサロ165形と交換されずに下関所に残存した車両もある。
- ^ 過渡期には湘南色のクハ165形が新快速の先頭に立つ姿も見られた。
- ^ 概ねM6編成が充当された。
- ^ 「紀勢線スイッチ」と呼ばれるドアクローズの確認スイッチの設置や、一部車両の室内にATS-P形関連機器の設置で、戸袋窓がふさがれたものがあった。
- ^ 路線愛称「きのくに線」
- ^ 当時運行されていた新大阪発新宮行きの夜行列車(通称「太公望列車」)。大阪環状線に入線するため、ATS-P形搭載車両に限定されていた。
- ^ 当時の新宮駅では、新宮以東の未電化区間に投入されていたオリジナルカラーのままで原形を保つJR東海のキハ28・58系気動車と並ぶこともあり、ファンからも注目された。
- ^ 最後まで運用されていた3001編成は、1968年に施工された試作冷房改造車最後の生き残りでもあった。
- ^ 部品確保用車は、クモハ165形を残し解体されている。現在のところ置き換え計画はない。