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国鉄301系電車 - Wikipedia

国鉄301系電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国鉄301系・103系1200番台電車
301系 クモハ300-2(2003年7月、拝島駅構内にて撮影)
301系 クモハ300-2(2003年7月、拝島駅構内にて撮影)
起動加速度 3.3km/h/s
営業最高速度 100km/h
設計最高速度 100km/h
減速度 3.5km/h/s(通常)

5.0m/h/s(非常)

定員 座席48・立席88(先頭車)

座席54・立席90(中間車)

全長/全幅/全高 20,000mm/2,832mm/3,935mm
重量 22.8t(クハ301形)

~33.3t(モハ301形)
29.1t(クハ103形)
~37.2t(クモハ102形)

軌間 1067mm(狭軌
電気方式 直流1,500V
モーター出力 110kW
歯車比 91:15 (6.07)
制御装置 CS20B形電動カム軸式抵抗制御
駆動装置 中空軸平行カルダン駆動方式
ブレーキ方式 発電ブレーキ電磁直通ブレーキ

ハンドブレーキ

保安装置 ATS-B.P
ATC-3

国鉄301系電車(こくてつ301けいでんしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した地下鉄乗り入れ対応直流通勤形電車

※本項目では301系の増備車にあたる103系1200番台についても解説する。また、本項目で単に103系とある場合は103系0番台(地上型)を指す。

目次

[編集] 概要

1966年から開始された中央緩行線帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄東西線相互乗り入れの開始に備え、これに対応すべく設計され、クハ301-モハ301-モハ300-モハ301-モハ300-モハ301-クモハ300の7両編成8本が川崎車輛(現・川崎重工業)および日本車輌製造で製造された。

国鉄が初めて設計・製造した地下鉄対応の通勤形電車であるとともに、国鉄電車としては初めてアルミニウム合金車体を本格採用した車両でもある。

国鉄分割民営化後は全車が東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承されたがすでに全車廃車されており、1両を残して解体されている。

[編集] 301系

1966年に7両編成5本(35両)、1969年に7両編成3本(21両)の計8本(56両)が製造され、三鷹電車区(現・三鷹車両センター)に配置された。

[編集] 車体

103系を踏襲[1]し、片側に4か所の1,300mm幅両開きドアを備え、ドア間に7人、車端部に3人掛けのロングシートがそれぞれ並ぶ、当時の国鉄通勤形電車の標準に従う。

ただし、本系列では車両メーカーである川崎車輛の提案により国鉄初のアルミ合金製車体[2]が採用された。この車体のアルミ合金製構体部分は、同時期に製造された営団5000系アルミ車と共通設計であった。

このため、製造担当はアルミ合金製車体の製造実績がある企業に限られることとなり、1962年製造の山陽電気鉄道2000系を皮切りにアルミニウム合金車体の電車の製造ノウハウを蓄積しつつあった川崎車輛と、やはり1963年製造の北陸鉄道6010系以降アルミ製車両の製造実績を重ねつつあった日本車輌製造の2社が選定された。

製造時の段階では、鉄道車両に適した7000系アルミニウム合金が既に実用化[3]されており、本系列の車体はアルミ製車体製造技術第一世代の完成形と言うべき設計となり、103系と比較して各車5~6t程度の自重軽減が実現した。

アルミ車体の採用に伴い、その加工の困難さから、窓枠に別組み立てのユニット窓[4]が採用された。

雨樋の高さも車体を洗浄する際の利便性を配慮し、103系より若干高く後に登場する201系と同等となっている。これはアルミ合金製車体は耐食性が高いが、その反面鉄粉などの異種金属の付着による酸化(電食)には弱く[5]、対応策として頻繁かつ徹底した洗車作業の実施とが求められたために、1回の洗車で確実に外板の汚れを除去するための重要な変更点であった。

側面方向幕はなく、構体改造の困難さから後年の改造でも取り付けられなかった。また、原型となった103系では主電動機冷却風取り入れ口を電動車の側面に片側2ヶ所[6]備えるが、本系列では設置されていない。

前照灯が従来の前面上部中央に白熱灯1灯を設置する方式から、前方視認性や営団との協定から通勤形では初となるシールドビーム2灯を窓下に振り分けて設置する方式に変更されたことも特徴である。これによって表示器が従来の2つからに3つに増えている。内訳は、中央が種別および行先表示[7]、左が運行番号表示、後の分割民営化後を含めて常にコーポレートマーク[8]を掲出していた。なお、これらの表示幕は汚れが酷く、1998年に運行番号表示をLED式に交換[9]した。なお、103系1200番台も部品の共通化のためにLED化が行われている。

[編集] 機器

駆動方式は103系と同一のMT55主電動機[10]を搭載し、歯数比6.07の中空軸平行カルダン駆動方式を採用した。主制御器については103系のCS20をベースに高加速によるスリップの防止対策が施された、CS20B[11]を搭載。主抵抗器は自然通風式として抵抗器の箱数を増やした。これは、強制送風式の場合ブロアファンの音が大きく、乗り入れ先の地下線内で騒音問題となりかねなかったことに配慮したものであるが、自然通風式は抵抗器が貴重な床下面積を大きく占有し、しかもその周囲のエアフローに対する配慮も求められるため、その艤装は難しく、状況によっては抵抗器溶断事故[12]を引き起こすことが少なからずあった。

台車は、国鉄の在来線向け量産通勤形電車としては初のダイレクトマウント式空気バネ台車となるDT34・TR204形を装着しており、103系とDT33・TR201形と比較して乗り心地が大幅に改善された。この台車は165系などに採用された大径心皿式インダイレクトマウント式空気バネ台車であるDT32形を基本として開発されたものであるが、軸箱にオイルダンパを装着せず、ベローズ式空気バネを車体直結としてボルスタアンカーを付加したため、機構面では大きく異なったものである。同時にダイレクトマウント化に伴い揺れ枕吊りが省略され、横梁部分の構造が大きく変更されたため、DT33と比較して軸距が2,100mmに縮小されたが、主電動機や歯数比が103系と共通のため、動輪径910mm・付随輪径860mmの関係は変わらない。

東西線地下区間の架線は剛体架線であるため、パンタグラフはPS16形をベースに集電舟部分に小型のばねを追加して、集電舟自体を浮動構造としたPS21形を採用した。

運転台のマスコンハンドルは、営団5000系と同様の跳ね上げデッドマン式とした。

[編集] 地下鉄対策

地下鉄での使用に際し、火災事故防止のために1953年に制定された車両構造仕様「A-A基準」に従い発火防止・不燃化・乗客の避難対策などが盛り込まれている。

先頭部に非常用貫通扉を設置しているのが最も大きな特徴で、これにより103系の前面窓ガラスを上方に向かって傾斜を付け内側に窪ませる方式が採用できず、301系では貫通扉左右の窓を車体外方に向かって内側に窪ませる方式[13]とした。客室の上段下降下段上昇ユニット窓は地下での怪我防止のために式上段窓は全開するが、下段窓は75mmしか開かない構造[14]とした。

また地下線内での換気効率向上から、屋根上通風器は換気調節ができる角型押し込み式が採用された。

本系列は当時の国鉄通勤形としては最先端な車両であったが、製造コストが非常に高かったことから、1969年で製造は打ち切られ、それ以降の増備については103系1200番台へ移行した。

[編集] 形式

当初は電動車比率が非常に高く取られ、MT比6M1Tの7両編成を構成していた。乗り入れ先の営団5000系に編成を合わせたため、M'cのクモハ300形が起こされているのが特徴である。後の10両編成への組み替えに伴い、電動車の電装解除や制御車の運転台設備撤去などの改造が行われている。

[編集] 新規製造形式

クモハ300形(製造数:8両)
モハ301形(製造数:24両)
  • クモハ300形またはモハ300形とユニットを組む中間電動車。パンタグラフと制御器を搭載していた。
  • 下記編成表ではMと表記する。
モハ300形(製造数:16両)
  • モハ301形とユニットを組む中間電動車。
  • 下記編成表ではM'と表記する。
クハ301形(製造数:8両)
  • 西船橋方の先頭に連結される制御車で。当系列では唯一の新製付随車である。
  • 下記編成表ではTcまたはTo(運転台撤去車)と表記する。

[編集] 改造形式

サハ301形(改造数:3両)
  • 10両編成への組み替えに伴いモハ301形1両とモハ300形2両を電装解除して登場した付随車であり、改造車であることから100番台を付与し、0番台は存在しない。
  • 下記編成表ではTと表記する。

[編集] 103系1200番台

103系1200番台(2003年5月25日、拝島駅構内にて撮影)
103系1200番台(2003年5月25日、拝島駅構内にて撮影)
常磐快速線転属後のクハ103-1201(1993年2月1日、我孫子駅にて撮影)
常磐快速線転属後のクハ103-1201(1993年2月1日、我孫子駅にて撮影)

301系の増備車にあたるグループで国鉄の財政難により製造コスト低減のためで登場した103系の区分番台。1970年に1本(7両)、1972年と1978年にそれぞれ2本(28両)の計5本(35両)が製造された。301系と合わせて東西線乗り入れ車両は、最終的に7両編成13本(91両)が製造された。

[編集] 車体

車体は通常の103系と同じ普通鋼製となり、外観は千代田線乗り入れ用の103系1000番台とほぼ同一であるが、ATC機器は東西線のWS-ATCに対応する小型のものであるため、1000番台とは異なり乗務員室と客室の間にも戸袋窓がある。機器配置も301系に合わせたため、蓄電池の搭載車などが異なっている。

雨樋・窓枠・通風器形状や座席寸法は他の103系と共通のものとされ、台車の枕バネも同様にコイルバネ式である。また、地上型のマイナーチェンジに合わせ、第2編成以降はユニット窓を採用し、座席寸法も301系と同一に変更している。

[編集] 形式

クモハ102形1200番台(製造数:5両)
  • 基本的な内容はクモハ300形に準じる。
モハ103形1200番台(製造数:15両)
  • クモハ102形1200番台またはモハ102形1200番台とユニットを組む中間電動車。基本的な内容はモハ301形に準じるが、制御器は301系のCS20B形から103系910番台でテストされたCS30形[15]をベースにしたCS40形に変更された。
モハ102形1200番台(製造数:10両)
  • モハ103形1200番台とユニットを組む中間電動車。基本的な内容はモハ300形に準じる。
クハ103形1200番台(製造数:5両)
  • 基本的な内容はクハ301形に準じる。

[編集] 塗装

301系は、登場時アルミ金属地にクリアラッカーを塗布し、側面窓上に中央・総武緩行線ラインカラーである黄帯のホーロー式アルミテープ(JNRマークを片側2か所に配置するため、その部分は斜めに途切れる)を巻くというものであったが、第5編成の製造を担当した日本車輌の提案で側面窓下にも帯を巻いて登場したことから、川崎車輛が製造をした第1~4編成も順次追加された。また銀色1色であった前面も、保線作業員から「電車の接近が判りにくくて危険」との指摘があったため、前面窓下全体に黄帯が巻かれた。しかし、アルミテープには剥がれやすい欠点があったため、後に増備した第6~8編成は営団車と同様に樹脂製の板をビスで止める方式[16]に変更され、先の5編成も順次それに合わせた塗装に変更[17]している。また、アルミの表面が次第にくすんできたことや、表面保護のために塗布したラッカーにひび割れが発生したことから、1978年(昭和53年)になって、逆に301系の車体全体を103系1200番台と同様のライトグレーに塗装する工事が実施された。

一方103系1200番台では、301系にイメージを合わせるため、ライトグレー(灰色8号)に黄帯(黄5号)という塗装が施された。

ただし、駅の放送や案内板などでは営団5000系が銀色だったこともあり、「銀色の電車」という案内が行われていた。しかし1989年中央・総武緩行線の地上用として205系ステンレス地に黄帯[18]で登場し、これを東西線への直通電車と間違える乗客に誤乗防止の観点から全車帯色を東西線のラインカラーであるスカイブルー(青22号)に変更[19]された。同時に駅の放送や案内板も「銀色に青帯の電車」に変更されている。

なお1987年4月1日の国鉄分割民営化後は、JNRマークをラインカラーで塗りつぶし[20]、代わりに白色の巨大なJRマークを両先頭車の側面窓下に貼付するという小変化はあったが、廃車時まで大きな変化はなかった。

[編集] 冷房装置搭載改造

1989年には冷房搭載改造が施工された。改造費節約の観点から、車体補強が不要なAU712形集約分散式冷房装置が2基搭載された。

AU712形は外のキセ(カバー)部に温度制御のマイコンがあるため、夏場に不調になることが多く、対応策として2000年にK3編成のパンタグラフ部を除いた屋根全体を白色に塗り変えた。これはアメリカ航空宇宙局(NASA)が開発した耐熱塗料であり、スペースシャトルにも使用されているもので結果自体は良好だったものの塗料が非常に高価であり、AU712形搭載車が優先的に淘汰されたことから、その後は採用されていない。

冷房電源については、103系1200番台は編成中1両のモハ102形へ190kVA[21]MGを追設。301系は台枠補強工事が必要な大型MGの搭載は避け、静止形インバータ (SIV) を各車の屋根に搭載した。

同時に103系1200番台はクモハ102形を除く全形式の側面に行先表示器が設置され、前面方向幕も電動式に交換[22]された。

なお、前述のラインカラー変更と冷房装置搭載はほぼ同時期ながらも冷房装置搭載改造が若干早期だったために、103系1200番台については7両編成全体が冷房改造された黄帯車編成も存在した。しかし、301系は黄帯で冷房化された車両は中間車2両に留まり、逆に青帯の非冷房車も存在している。

[編集] 車歴

[編集] 1972年

5月18日、乗り入れ先の営団地下鉄東西線・行徳〜浦安間を走行中にモーターカバーを破損する事故が発生し、破片は床板を貫通し天井に刺さり、乗客2名が脚に重軽傷を負った。事故原因を設計段階からのミスと認めた国鉄は、301系を一旦運用から離脱させている[23][24]

[編集] 1981年

機器が撤去された運転台(クモハ300-3 2003年5月29日撮影)
機器が撤去された運転台(クモハ300-3 2003年5月29日撮影)

輸送力増強のために7両編成6本(42両)から10両編成4本(40両)に組成変更を行った。当初は3両の増結編成を製造する予定であったが、製造終了から10年以上経過し、国鉄の財政も逼迫していたために新製は取りやめられている。

組み替えは7両編成2本を3両編成に短縮の上、別の7両編成2本にそれぞれ連結して7+3の10両編成2本を組成し、その際に捻出された中間車をさらに別の7両編成2本に増結して10両貫通編成2本を組成するという複雑なもので、後者用にモハ301-4+モハ300-3が電装解除されてサハ301-101[25]・102となった。余剰となった2両モハ301-11+モハ300-8は予備車となり、通常は休車となった。また編成の中間封じ込めとなるクハ301-1・3とクモハ300-1・3の4両は、運転機器が撤去されメーター類には蓋がされ、前面窓ガラスを含めてすべて灰色に塗りつぶされるなどの改造[26]が行われた。なお、この編成組み替えは301系のみに施工されている。

[編集] 1992年

東西線の完全10両化により、7両編成で残存していた301系2本(14両)・103系5本(35両)の計7本(49両)もすべて10両編成に組み替えられることとなった。

301系

1本から抜き取ったMM'ユニット2両にサハ301形をもう一方の編成に増結するという方法が取られた。そのためモハ300-9を電装解除しサハ301-103に改造している。このためモハ300-9のユニット相手であるモハ301-13は走行不能となったが、他の車両に致命的な事故があった時の緊急予備車として残された。なお、前回の組み替え時に休車扱いとなっていたモハ301-11+モハ300-8は、運用復帰している。

103系1200番台

運用に対して余裕が生じていたために12両が常磐快速成田線松戸電車区)に転出[27]した。これは、冷房化の予備車を確保するために松戸電車区から借入扱いで転入していた103系1000番台を本配置(後のK8編成)とし、代わりに余剰となった車両を転出させて返却扱いとしたためである。残りの車両のうち、松戸転出編成から外されたモハ103・102-1202[28]と7両編成1本から抜き取られたモハ103-1207+モハ102-1205、さらに京浜東北根岸線用に浦和電車区に配置されていたサハ103-429・430[29]を転入させ7両編成2本に別々に増結して10両貫通編成2本を組成した。

混結編成

301系と103系1200番台それぞれで余った5両同士で5+5の10両編成が組成され、初の混結編成が出現した。編成番号は分割を考慮して103系1200番台がK9、301系がK10と分けられていた。この編成は301系が空気バネ台車、通常制御器、103系1200番台が金属バネ台車、超多段制御器であることから来る乗り心地の差や性能の差があるため、運転が難しかったとされ[要出典]、特に営団の乗務員からの評判はかなり悪かったという[30][要出典]。この編成は両方の先頭車に連結用の幌を付けていたため、編成組み替えの自由度が確保されていた。

従来からの10両編成

この組み替えに合わせて1981年組み替えの編成内容が7+3は5+5に、10両貫通は付随車の連結位置を8号車から6号車に変更され、すべての編成が5両編成2本に分割できるようになった。

[編集] 車両更新

1990年から1992年にかけて、他の103系編成と同じく車両更新工事が施行された。その内容を以下に示す。

  • 車内化粧板の交換(淡緑→アイボリー)、床張り替え[31]
  • 機器類の一部ステンレス化を含む耐久性の向上。
  • 301系のみ窓サッシの下段固定化、側面乗務員質扉を無塗装のままステンレス製に交換。乗降扉をステンレス製への交換[32]

301系はアルミ車体である上、塗装で車体が保護されていたので腐食がほとんどなく、車体関係では凹んだ部分をパテで整形し、帯色の樹脂製の板を装備した車両はこれを撤去して103系編成同様の塗装とした以外の工事は行われなかった。

また大井工場で施工した103系1000・1200番台には座席端部のパイプの中に仕切り板が設置されたが、土崎工場など他工場で更新施工された301系には設置されなかった。

三鷹電車区では、301系K10編成と休車中のモハ301-13以外全車に、103系1200番台もK6編成とK7編成のサハ103-429以外全車[33]に更新工事が行われた。

301系(左)と103系1200番台(右)の併結(2002年8月28日、西船橋駅にて撮影)
301系(左)と103系1200番台(右)の併結(2002年8月28日、西船橋駅にて撮影)

[編集] 営業運転の終了

301系は1990年に従来115系が保持していた国鉄・JR新性能電車における単一系列の登場より初廃車発生までの最長記録23年を更新している。これは営業区間に踏切が1か所もないため踏切事故が発生しなかったこと、少量生産・特殊用途系列だったことによるものであるが、これ以降は諸問題により廃車が進行していくことになる。

1990年代になると、更新工事を施工したとはいえ老朽化がかなり進んでいたが、本格的な置き換え実施は遅れた。これは、新車が度々入っていた千代田線乗り入れと異なり、東西線乗り入れの場合はJR線の区間が中野~三鷹間9.4km及び西船橋~津田沼間6.1kmの計15.5kmと短く、かつ西船橋~津田沼間は平日ダイヤのラッシュ時しか乗り入れていないため、新車投入と比較するとコスト面で不利なこと、当時計画中だった中央快速線の高架化・複々線化工事の完成後に列車の運行体系が激変し、東西線への直通そのものが廃止される可能性があって、新車投入が無駄になる可能性があったため[要出典]である。

しかし、もはや本系列自体が既に時代遅れの電車であり、故障が増えてきた上に、抵抗制御車は構造上熱を大量に発生させるために地下区間での長期運用は環境・車両ともに悪影響が大きく、継続使用が困難になりつつあった。機器類が陳腐化しており、この時期には営団の主力となった05系に対して明らかに見劣りするようになっていた。また、冷房の不調もあって特に夏場は本系列を「見送り」する乗客が少なからず存在したという[要出典]

1996年4月27日の東西線と東葉高速鉄道東葉高速線との相互直通運転開始により、JR車の東西線運用が大幅に削減された。平日は朝夕のみの運用が中心で、日中の運用は2運用のみで東西線内の快速運用は激減した。さらに土曜・休日は日中の3運用のみですべて各駅停車、うち1運用は2往復の運行となったため、余剰となった6両が予備車削減政策の一環で廃車対象になった。対象となったのは前述のモハ301-13と混結編成の301系K10編成[34]である。実際は営業離脱後クハ301-6+モハ301-18+クモハ300-6の3両は大宮工場で他の廃車予定車と共に留置された末、1997年7月2日に廃車された。残りの3両は三鷹電車区に残留し、1998年1月5日に廃車された。この廃車によって、K10編成と10両編成を組成していた103系1200番台のK9編成は他編成の検査時の代車としてのみ使用されることになった。予備車も削減されたことや東西線直通車は5両ずつ検査を受けるということを利用し、残った5両とK9編成で臨時編成を組んで対処[35]した。

最終的にJR東日本が103系を管内から一掃する方針を決定したことや、営団も東西線のATCを新型に更新することが発表されたことで、残存車も2001年頃から置き換え計画が浮上し、2002年秋には正式に置き換えが発表された。この頃には、103系1200番台に発生した鉄板の腐食を修理せず、ラインカラー部分も含めて灰色のガムテープで隠すだけとなっていた。このため、同年12月1日のダイヤ改正でJR車の東西線直通運用が削減[36]されると、これに合わせて検査期限の近かったK1編成が廃車となった。

さらに、後継車となるE231系800番台が竣工するのと交代に、順次定期運用を離脱してゆき、2003年6月10日[37]の09K運用のうち朝の1往復の営業運転をもって定期運用を終了[38]した。

なお、JR東日本は103系以前の車両を今後使用しない方針のため[要出典]、運用終了後は他線に転属することなく直ちに全車廃車となった。ただし、K4[39]・9編成については新車故障時の予備という意味もあってしばらく保留扱いにされ、拝島に疎開留置[40]の手配が取られた。

本系列は廃車後に車体のアルミ材をリサイクルする予定となっていたが、具体的なリサイクル状況については公表されていなかった。

[編集] さよなら運転

東西線直通運用からの離脱後、拝島に疎開していたK4・K9の両編成は2003年夏まで車籍を有しており、同年8月3日にK4編成を使用して三鷹~高尾間で快速「さよなら301系」号としてさよなら運転イベントを行った。記念列車は列車番号9567M[41]で、高尾では301系の他、E231系800番台、165系、201系四季彩編成を電留線に留置した上での展示撮影会も行われた。

さよなら運転については、当初は定期列車として中央緩行線~東西線で運行する計画もあったが、営団との調整がまとまらなかったため、旅客営業運転では最初で最後の中央快速線での運行となった。塗装の特別な変更などはなされず、定期営業運転終了時の青帯にさよならマーク(シール)を貼付して運行された。

また、当日には「地下鉄東西線直通電車さよなら記念オレンジカード」(台紙付・3枚セット3,000円)が沿線15駅(中野~国分寺間の各駅・高田馬場・立川・八王子・高尾)で販売されたが、発行総数合計4,500組限定で当日中に完売した。その後、同年秋に台紙なしで別デザインではあるが、再び「さよなら301系オレンジカード」として販売された。

最後の103系1200番台となったK9編成については拝島留置のまま同年7月31日をもって大宮工場へ廃車回送された。その後、K4編成も翌8月6日に大宮へ廃車回送され、これをもって301系・103系1200番台共に系列・番台区分消滅した。

[編集] 保存車

大宮総合車両センターに保管中のクモハ300-4(2007年5月26日、ニューシャトル車内にて撮影)
大宮総合車両センターに保管中のクモハ300-4(2007年5月26日、ニューシャトル車内にて撮影)
クモハ102-1201(2004年9月18日、鎌倉車両センターにて撮影)
クモハ102-1201(2004年9月18日、鎌倉車両センターにて撮影)

K2編成の10号車に組み込まれていたクモハ300-4が大宮総合車両センターで保管[42]され、残存している。当初は大宮駅ホーム至近場所に置かれていたが、他の保管車両と共に元解体線跡へ移動した。前面方向幕の表示は日焼け予防のため時折変わるという。鉄道博物館への保存候補からは外れたが、状態は良い。

また、松戸電車区に転属して1993年に廃車されたクモハ102-1201が中原電車区南武線編成に組成されていたクモハ103-11[43]と組んで鎌倉総合車両センター[44]で車籍なしの構内入換機械扱いとして2005年まで使用されていたが、翌2006年の工場部分の閉鎖時に解体された。この車両は、前面は前照灯増設によって301系のようになり、貫通扉下部には小窓が追加され、黄に赤と緑のストライプというオリジナルの塗装が施されて異彩を放っていた。

なお、2003年5月の大宮工場一般公開で廃車直後のクハ301-7が展示されていたが、こちらもすでに解体されている。

[編集] 各編成の最終営業日

  • K1 - 2002年11月29日(この編成のみ地上線用車両の投入(E231系0番台ミツ57編成)で置き換えられた)
  • K2 - 2003年6月10日(最後に東西線を走行した編成。当初の予定では5月29日)
  • K3 - 2003年5月23日(屋根に耐熱塗料を使用)
  • K4 - 2003年5月19日(9-10号車は4月30日運用後にK5と組み替え。拝島疎開後、さよなら運転に使用した編成)
  • K5 - 2003年4月25日(9-10号車は5月19日)
  • K6 - 2003年4月30日(西船橋側5両のみ。三鷹側5両は2月で終了)
  • K7 - 2003年5月15日(唯一非ユニット窓車を含んでいた編成)
  • K8 - 2003年5月30日(千代田線乗り入れ用の1000番台を転用した編成。土曜・休日ダイヤである5月31日にも運用の予定があったが、中央線のダイヤが乱れたため結局3運用とも新車で運用された)
  • K9 - 2003年4月30日(K6の西船橋側5両と同時に運用終了)
  • K10 - 1996年xx月xx日(未更新車)
    • 三鷹電車区では実際の編成番号は地上線。地下線のE231系とも「ミツ」となっているため、管理用に地上線用が「B」、地下線用が「K」で区別されている。現在、K1~K7の編成番号は運用管理の番号としてE231系800番台が使用している。
    • 基本的に廃車後の解体は大宮工場で行われたが、K6編成の三鷹側5両とK7編成のモハ103・102-1202は上記のクモハ102-1201のMGが不調であったので、廃車発生品と交換を行うために鎌倉総合車両所で、K6編成の西船橋側5両は大宮の解体能力が限界に達していたために群馬県桐生市下新田留置線で解体された。

[編集] 編成表(10両統一後)

※K9+K10は連結の順番が入れ替ることがあった。
※営団車の小文字のcは簡易運転台装備車を意味する。

編成番号 1号車 2号車 3号車 4号車 5号車 6号車 7号車 8号車 9号車 10号車
K1 Tc301-5 M301-1 M'300-1 M301-3 M'o300-1 To301-1 M301-2 M'300-2 M301-15 M'c300-5
K2 Tc301-4 M301-7 M'300-5 M301-9 M'o300-3 To301-3 M301-8 M'300-6 M301-12 M'c300-4
K3 Tc301-8 M301-22 M'300-15 M301-23 M'300-16 T301-101 M301-20 M'300-14 M301-24 M'c300-8
K4 Tc301-7 M301-19 M'300-13 M301-11 M'300-8 T301-102 M301-10 M'300-7 M301-21 M'c300-7
K5 Tc301-2 M301-14 M'300-10 M301-5 M'300-4 T301-103 M301-17 M'300-12 M301-6 M'c300-2
K6 Tc103-1204 M103-1211 M'102-1208 M103-1210 M'102-1207 T103-430 M103-1214 M'102-1210 M103-1212 M'c102-1204
K7 Tc103-1205 M103-1202 M'102-1202 M103-1207 M'102-1205 T103-429 M103-1213 M'102-1209 M103-1219 M'c102-1205
K9+K10 Tc103-1203 M103-1208 M'102-1206 M103-1209 M'c102-1203 Tc301-6 M301-16 M'301-11 M301-18 M'c300-6
参考 営団5000系の編成
西船橋 三鷹
7両時 CT
(Tc)
M₁
(M)
M₂
(M')
M₁ M₂ M₁ CM₂
(M'c)
現在 CT M₁ M₂ M₁ Mc₂
(M')
Tc
(T)
M₁ M₂ M₁ CM₂

[編集] 脚注

  1. ^ 機器類は103系とほぼ同一であるが、系列称号が103系の派生番台や次番号の105系とならなかったのは、当時一般的でなかったアルミニウム合金車体を持つことなど試作色が強かったためである。当時の国鉄はアルミなどを使用した特殊車体の系列に限り、百の位に数字「3」を使用しており、後の381系(アルミ製の振り子式車両)もこれにならっている。しかし、その後特殊車体での系列区分を廃止したため、千代田線乗り入れ用として201系のシステムとアルミ車体を組み合わせて設計・製造された系列は、203系の系列名を付与された。また近年では371系383系303系のようにアルミ以外の車体を持つ車両が空き番号の多い300番代を付与されるケースも出て来ている。
  2. ^ 103系は普通鋼製車体
  3. ^ 山陽電鉄2000系製造の時点ではリベット接合が使用されていた重要部の接合についても、1964年山陽電鉄3000系第1次車で全溶接構造への改良が実施済み。
  4. ^ ユニット窓自体は153系ですでに実用化済みであったが、廉価さが最重要視されていた通勤電車への採用は、当時としては異例のことであった。
  5. ^ この酸化問題に関しては、表面を分厚い透明ラッカー樹脂塗装で覆うことによっても対応が図られていたが、アルミ車採用で先行した山陽電鉄においては、当初は本系列と同様にラッカー樹脂塗装を実施していたものの、洗車によって上記の問題を解決可能であることが判明してからは塗装そのものを廃止している。以後同社のアルミ製電車群が特に腐食問題に遭遇していないことと、後年本系列の車体がラッカー層のひび割れや曇りによって通常塗装に変更せざるを得なかったことから判断する限り、この国鉄の対応には問題があったと言える。(参考文献1)
  6. ^ 初期車において前面下部に運転室への通風口を含む。
  7. ^ 後に運転台右側窓に小型の快速表示幕が設置された。
  8. ^ JNRマークは両先端部がカットされ、異彩を放った。
  9. ^ 行先表示は幕式で残されたが、黒ずみ判読困難な車両も多数存在していた。
  10. ^ 端子電圧375V時定格出力110kW。
  11. ^ 抵抗制御による力行24段、ブレーキ24段。
  12. ^ このため同じ自然通風式である103系1000・1200番台でも後に故障が多発している。
  13. ^ このアイデアはゴーグルを基にしたもので、運転時の視界確保に役立ったといわれている。
  14. ^ 後の更新時に下段については固定化が実施されている。
  15. ^ 力行55段・ブレーキ51段。
  16. ^ 帯色がスカイブルーに変更後も車体更新工事施工の時まで不変。
  17. ^ 後に10両化の時に混成した編成では、帯に段差の有無が見られた。
  18. ^ 本系列の塗装変更が完了するまでは、「総武・中央線各駅停車」の透明ステッカーを205系編成の黄色帯の上部分に貼付して対応した。
  19. ^ 帯のスカイブルー化は301系の登場時より営団から依頼されていたが、国鉄側が拒んでいたために実現していなかったという。
  20. ^ 灰色で塗りつぶしていた時期もある。
  21. ^ 旧第5編成のみは160kVA。
  22. ^ この改造により「快速 中野」などの種別表示も追加されたが、301系では未改造。
  23. ^毎日新聞』1972年5月19日付 19面
  24. ^読売新聞』1972年5月19日付 15面
  25. ^ パンタグラフ撤去跡がそのまま残存。
  26. ^ 運転室跡は、客室化されず立ち入り禁止とされたため定員変化もなく、形式変更や改番も行われていない。
  27. ^ 松戸への転出車は、1200番台と川越電車区(現・川越車両センター)配置の3000番台にのみ計10両が存在する特異なクモハ102形が含まれ、しかも冷房用電源を持った車両が1組しかなかったために単純な編成を組めず、各車バラバラに編入された。旧第1編成は冷房電源なしのモハ103・102-1201を10両基本編成の中間に入れ、残りとモハ103・102-1044で5両の付属編成を組成。旧第2編成は、モハ103-1204・モハ102-1203を別の編成に入れ、残りの5両で1200番台のみの5両編成を組成した。しかし、クモハ102形の扱いが難しく[要出典]、冷房電源のない車両ばかりで冷房化に支障があったことから、1993年1994年にかけてすべて廃車になり、製造年の古い1000番台より先に消滅した。モハ103・102-1044などの103系1000番台は2002年以降の廃車である。
  28. ^ 三鷹区では冷房用電源を装備していた車両は全部で6組と数が限られており、10両編成では2組必要であったため、第3~5編成が残り、常磐転出車の中にユニットサッシ車の第2編成が混ざっていたにも拘らず、非ユニットサッシ車で製造年も古い冷房電源装備のモハ103・102-1202が残された。これが三鷹電車区に唯一残った非ユニットサッシ車で、この2両は常磐快速・成田線転出車の廃車の後も運用を続け、2003年5月まで残存した。
  29. ^ この2両は元々A-A基準、AU75形集中式冷房装置装備で製造された車両であり、軽微な改造で編入。
  30. ^ 後年のK9+K1~K5の際も同様だった。
  31. ^ 中央部分を赤色とし、足を投げ出して座ることの防止を狙った。
  32. ^ 軽量なアルミ製扉が走行中に振動でカタカタと音を立てるのを防ぐ目的。
  33. ^ K8編成は松戸から転入以前の1989年4月~6月に施工済み。
  34. ^ 更新工事にかかった費用などを優先して103系1200番台であるK9編成の方が残された。
  35. ^ 末期である2003年2月からは新車導入を待たずに検査期限切れで廃車となったK6編成の三鷹側5両に組み込まれ、平常営業に復帰している。
  36. ^ 逆に中央・総武緩行線の地上運用が増加しており、代替車としてE231系0番台10両編成1本がに新製投入されている。
  37. ^ 本来の予定では5月中に全車定期運用終了の予定であったが、E231系800番台のほとんどの編成に初期トラブルが多発し、特に営団の乗務員訓練に貸し出されていたミツ2編成が営業開始前に故障して、修理に時間がかかったため6月に入ってからも本系列の運用が2回見られた。
  38. ^ 夕方以降はE231系で運行。
  39. ^ K4編成は4月下旬に9-10号車ユニットが不調となったが、廃車間近であったため、これらは修理する必要はないとされ、翌5月1日に先に運用終了したK5編成の9-10号車ユニットと交換した上で運行を続行した。
  40. ^ 同様の例は鶴見線などでも見られた。
  41. ^ 途中停車駅は立川八王子のみとして片道のみ運行で復路は回送。
  42. ^ 破損や部品盗難などを危惧してか今のところ一般には公開されておらず、ユニットを組んでいたモハ301-12はすでに解体されているため、自走不能である。
  43. ^ 入換作業の関係でパンタグラフが前部に移設され、前照灯が増設されていた。末期は整備されていなかったようで退色、水垢の付着が激しく、工場公開時も特に整備されずに展示されていた。
  44. ^ 元・大船工場、現・鎌倉車両センター

[編集] 関連商品

[編集] 鉄道模型

Nゲージ鉄道模型としてマイクロエースから発売されている。

[編集] 参考文献

  1. 鉄道ピクトリアルNo.711 2001/12臨時増刊号 [特集]山陽電気鉄道/神戸電鉄

[編集] 外部リンク

[編集] 関連項目


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