山陽電気鉄道2000系電車
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2000系電車(2000けいでんしゃ)は、山陽電気鉄道(山陽電鉄)がかつて保有していた電車。1956年から1963年まで段階的に24両が製造された。ここでは狭義の2000系のみについて述べ、2700系や2300系については各々の項目で紹介する。
目次 |
[編集] 概要
竣工から10年以上を経て陳腐化が進んでいた、吊り掛け駆動方式の820形や850形といった特急車を置き換えるべく製造された、山陽電鉄初の19m級高性能電車である。主として特急に充当することを目的としていたが、それと同時に次世代車両のモデル的な役割も担っており、その形態は製造時によって大きく異なる。
[編集] タイプI
1956年に製造された第一陣で、2000(制御電動車=Mc)-2001(Mc)の2両編成1本計2両が該当する。
当初は100形更新車の250形258-259として製造される予定であったものが計画変更され、初の高性能完全新車となったものである。窓配置はd2D(1)5(1)D2(dは乗務員扉、Dは客用扉、(1)は戸袋窓となる)であった。
前面は半流線形非貫通3枚窓で、前照灯は上部中央に1灯が半埋込みの形で取り付けられた。尾灯は従来通り上部に左右1灯ずつ設けられているが、外付け式ではなく埋め込み式となった。座席はロングシートだが、特急運用を前提に低座面仕様となっており、グローブ付きの室内灯、幅1mの大型窓、パイプ棚、広幅貫通路と、関西私鉄らしい優美さを持つ。なお、この車体は設計当時存在した「私鉄標準車体仕様書」で制定されたL-2L仕様に忠実に従う設計で、その構想において現在の東急5000系電車 (2代)の元祖にあたるものであった。
駆動システムはWNドライブで、モーター(主電動機)は珍しい川崎車両製K3-1504-A[1]を1両あたり4基搭載していた。この主電動機は当時の標準軌間向け高性能電車用としては比較的強力な部類に入り、山陽の線路条件を勘案するとMc-Mcの2連で使用するには明らかに過剰性能[2]であったが、これは将来軌道区間における3両編成運用が許可された際に、付随車(=T)を増結することを踏まえての措置であった。
本グループは神戸高速鉄道の計画が持ち上がっていたが、具体的な計画は進んでいなかった時期に計画されたため、当時山陽電鉄の架線電圧1500Vに対して600Vであった阪急電鉄(阪急)神戸本線・阪神電気鉄道(阪神)本線との電圧差を車両側で対処すべく、複電圧仕様で設計されていた。このため制御器は2両の制御器のカム軸を同期動作させて電動機群の直並列切り替えで600V/1500Vに対応する、いわゆる親子方式あるいはオシドリ方式の川崎重工業製KMC-101電動カム軸式制御器(直列14段、並列9段、弱め界磁3段)が各車に搭載され、複雑な構造のために故障が多発して保守に大変な苦労を強いられたという。車両間にはこの複雑な機構の関係で非常に多くの電線が引き通されていたが、都営地下鉄直通運転開始前の京浜急行電鉄が採用していたK-2-Aウェスティングハウス式密着連結器と同系の、中央部に電気連結器を内蔵する三菱電機製K-2-B密着連結器を使用する事でスマートにまとめられていた[3]。
また、主電動機の定格出力が大きめに設定されたことには、主電動機の端子電圧が降下する関係で出力がダウンする600V時に所定の走行性能を確保する意味合いも含まれており、600V時には約90kWの定格出力が得られる設計であった。
なお、90kW級では架線電圧600V時代の阪急神戸線でMc-T-Mc運用を行うにはやや不十分[4]であり、さりとてMc-M(電動車)-Mcのオール電動車による3両編成は当時の山陽の変電所設備では電流量過大で負担が大きすぎ、また阪急線でも過剰出力であったことから考えると、本系列は神戸高速鉄道乗り入れ用量産車とするには上述の制御器のメンテナンス問題も含め、様々な難点があったことが判る。
就役開始時は、隣接による押し上げ力過剰で架線に悪影響が出るのを防ぐ目的で、2001についてはパンタグラフが搭載されておらず、2000から母線引き通しで給電されていたが、後の中間車挿入による3両編成化時に追加搭載が実施されて他編成と揃えられている。
台車は川崎車両独自の軸梁式台車であるOK-15が採用された。これは820形830-831編成で試用されたOK-3の改良型に当たり、カルダン駆動化によるバネ下重量の大幅な軽減と、これに伴う衝撃の減少によって乗り心地が飛躍的に向上した。ブレーキは中継弁付きのA動作弁によるAMA-R自動空気ブレーキを基本として、電空同期による発電制動との連動[5]や電磁同期弁による応答性能の向上が図られたARSE-D中継弁付き電磁自動空気ブレーキで、電制の動作時にはHSC-D電磁直通ブレーキとは異なる独特の制動音を響かせていた。
後に神戸高速鉄道への乗り入れと前後してATSや前面中央に行先表示機の取り付け改造を受けた他、前照灯のシールドビーム2灯化や前面窓のHゴム支持化、それに運転席窓の小型化が実施された程度で大きな変化は無く、1990年に5000系に置き換えられて廃車となった。この際不要となった主電動機は、1991年~1997年まで2300系に転用された後、現在は3200系で使用されている。
[編集] タイプII
1957年~1960年製造のMc-Mcの2連4本(2002~2009)とT車3両(2502~2504)の計11両が該当する。2000系唯一の量産グループで、窓配置はd1(1)D9D(1)2(2000形)及び2(1)D9D(1)2(2500形)である。
私鉄標準車体仕様書が関係各社の賛同をほとんど得られないまま立消えになったことと、1958年の完成に向けて着々と工事が進められていた日本国有鉄道(国鉄)山陽本線の姫路電化に備え、陳腐化が目立ち始めていた820・850形に代わる本格的な特急用車両が求められていたことから、側面窓配置、内装を大幅に変更し、850形に準じたシートピッチ910mmの転換クロスシートとそれに合せた800mm幅の狭窓となった。前面はタイプIと同一だが、前面窓は最後まで原形を保っていた2008・2009を含め、固定方法こそ途中で漏水対策としてHゴム支持に変更されたものの、寸法は殆ど変更されずに終わっている。機器類の構成も基本的にタイプIと同一だが、主電動機は川崎製と同等の性能を備える三菱電機MB-3037-Aへ、制御器も改良型のKMC-102へ変更されている。また、台車はOK-15の実績を基に小改良したOK-15Aとなった。
長い折衝の末に監督官庁や所轄警察署の許認可を得て、懸案であった兵庫付近の併用軌道上における3両編成での列車運行が可能となったことで、1959年に追加製作された中間車である2500形は計画通りT車とされた。その車番の下1桁は同期製作で編成を組む電動車の内、偶数番号車の下1桁の半分の値を取って付番されたが、実際には必ずしも対応する電動車とのみ連結されていた訳ではなく、時期によってはこのグループのものがタイプI編成に組み込まれていたケースや、このグループの電動車にタイプIVのアルミ製中間車が組み込まれたケースもあるなど、検査などの都合に合わせて弾力的な運用が実施されていた。
こちらの台車はやはり軸梁式のOK-21で、OK-15系に比して揺れ枕吊りの構造が大幅に改良され、オイルダンパとボルスタアンカーが追加されて乗り心地の改善が図られている。
転換クロスシートは好評を博したが、1960年になって追加製作された2008-2009はラッシュ対策として扉間の両端各1列分をロングシート化して竣工し、更にこの2両は翌年タイプIIIの電動車が登場した際に座席を譲ってロングシート化された。その他は次第に混雑時の乗降に耐えられなくなり、また複雑極まる制御器のメンテナンスに手を焼いたこともあって、神戸高速鉄道開業後、3000系の増備が一段落付いた1969年より電動車の電装解除と運転台撤去扉増設、ロングシート化、ブレーキのHSC化、引き通し線の3000系仕様化、方向幕等の追加設置などを実施した上で3000系3550形に編入された。
なお、この際発生したMB-3037系モーターは3200系に流用され、余すことなく有効活用された。
また、3550形の多くは2300系改造の3560形と交代する形で1998年に廃車されている。
車番の対応は以下の通り。
旧車番 | 改造年月日 | 備考 | |
3550 | 2503 | 1969/11/28 | 1990年、救援車1500に改造 |
3551 | 2004 | 1969/12/26 | 1989/7/31廃車 |
3552 | 2005 | 1969/12/8 | 1985/10/15廃車 |
3553 | 2502 | 1970/7/11 | 1998/6/5廃車 |
3554 | 2006 | 1970/7/11 | 1998/3/31廃車 |
3555 | 2007 | 1970/8/26 | 2003/2/28廃車 |
3556 | 2504 | 1970/12/12 | 2003/2/28廃車 |
3557 | 2002 | 1970/10/19 | 2001/11/20廃車 |
3558 | 2003 | 1970/12/12 | 1998/6/5廃車 |
改造されずに残った2008-2009の2両は3550形に改造された僚車の様に冷房化されることもなく、2扉ロングシートのままタイプVIの2508を挟んで普通車として運用が続けられたが、5000系増備に伴い1989年に廃車された。ただし、当グループの電動車の主電動機はいずれも最終的に3200系に流用されており、現在も全数が現役である。また、3550は狭幅に改造されていた貫通路を広幅に復元して両開き扉を取り付けるなどの改造、及びクリームに水色帯への塗装変更を施した上で救援車1500へと再改造されている。こちらも現役であり、東二見車庫に常駐している。なお、同車は現在山陽在籍車中唯一の非冷房車である。
[編集] タイプIII
1960年製造の2010(Mc)-2500(T)-2011(Mc)の3両編成1本計3両が当てはまる。窓配置は「d1(1)D9D(1)2」及び「2(1)D9D(1)2」。
当時実用化へ向けて開発が進められていたステンレス製の車両で、無塗装化による保守コストの削減を確認することを目的として計画された。
構体は台枠や骨組が普通鋼製で外板のみステンレスが貼られた、いわゆるスキンステンレス車両である。長期にわたり、製造メーカーである川崎車両→川崎重工によるステンレス車体の実用評価試験車としての役割を果たした。無塗装であるが、アクセント兼警戒色として赤帯が2本巻かれた。このことが後に山陽電鉄のコーポレートカラーに赤が選定される一因となっている。
基本設計はタイプIIに準じるが、窓がアルミサッシ製となりユニット化されたこと、ヘッドライトが国鉄EF61形の様に四角い枠の中に納められた[6]こと、主電動機がマイナーチェンジされMB-3037-A2となり、台車が2700系で一時試用されたOK-20空気バネ式軸梁式台車の成果を踏まえた空気バネ式軸梁式台車のOK-23(T車)及びOK-24(Mc車)に変更された[7]こと、地下線乗り入れを意識して前面に貫通扉が取り付けられたこと等がタイプIIからの改良点である。また、先頭車の座席はタイプIIの項で述べた通り、2008-2009からの流用品であった。
このグループの乗り心地は特徴的で、冷房さえあれば現在でも充分以上に通用する出来であったが、コンプレッサーの容量増大が必要でイニシャルコストも大きかったためか、以後山陽では神戸高速鉄道開業に伴う3000系の大量増備が落ち着いた後の3050系3056Fまで空気バネ式台車は採用されていない。
なお、T車である2500がステンレス車体のメーカー側試作車として半年ほど早く完成したため、同仕様の先頭車登場までタイプIIの2008-2009と編成を組んでいたという逸話がある。このT車の車号は2500とされたが、これはタイプIと同一見付のT車は存在し得ないということで、タイプIと同様に試作要素の強い同車に割り当てられたものであった。また、次に製作されたT車はこれまでのルールを破って2504の続番とされて2505と付番されたため、2500形は2501が欠番となっている。
本グループは1989年に廃車となった。その後は主電動機を3200系に供出し、パンタグラフ等も外された状態で東二見車庫に長期に渡って留置されていたが、1999年に解体されている。
[編集] タイプIV
1962年製造の2012(Mc)-2505(T)-2013(Mc)の3連1本計3両が該当する。今回からラッシュ対策として3扉ロングシート車となり、窓配置は「d1D(1)2(1)D3(1)D1」及び「1(1)D3(1)D3(1)D2」に変更された。
車体は川崎車両がドイツのWMD社と提携して、そのライセンスの下で製作した。アルミニウム合金の押し出し材が全面採用され、オールアルミ製車両となった。本グループのアルミ合金化は川崎車輌によるテストベッドとしての性格が強かったこともあって徹底しており、貫通路桟板を含め車体の金属製部品の大半がアルミ化されていた。
アルミ合金の溶接その他の設計加工技術が半ば手探りであったこともあり、骨組の重要部分にはリベット接合が併用され、しかも車体のひずみを目立たなくさせるためにウロコ状の模様を描く加工が側板に施されていた。さらに、外板はパンタグラフの摺動によって飛散した銅粉の付着などで車体が腐食するのを恐れてクリアラッカーでオーバーコーティングされていたが、これは就役後洗車を定期的に行えば不要、と判明し早期に中止されている。
台車は新設計されたがコストダウンのためか空気バネは継承されず、Mc車はOK-25、T車はOK-21Aとなり、主電動機は更なる改良でMB-3037-A3となった。また、ヘッドライトは当初よりシールドビームが採用された。ライトケースはライトが小さくなったことにより上下の幅が縮小され、逆に横方向は2灯を横並びに配したため、若干長くなった。
新造後、3000系が出揃うまでは特急を中心に充当され、阪急・阪神への乗り入れ運用にも就いていたが、以後は各停用として他の2000系各車と共に、本線・網干線それに神戸高速鉄道乗り入れ運用に充当された。
本グループについては、新造後前面への方向巻の設置が実施され、貫通路の桟板などアルミ製で耐摩耗性や耐久性の面から問題が発生した幾つかの部品が鋼製品に交換された程度で、ほぼ原形を保ったままで運用され続け、最終的に5000系増備に伴い1990年に除籍された。なお同編成は廃車後も歴史的・産業考古学的な価値が高いことから東二見車庫に保管されており、最近では整備されてイベント時に公開されることも多い。但し、車籍が無いために本線走行は出来ない。
[編集] タイプV
1962年製造の2014(Mc)-2506(T)-2015(Mc)の3両編成1本計3両が該当する。
ステンレス車とアルミ車の有効性を比較検討するために、タイプIVと同形態のスキンステンレス製車体として製造された車両である。そのため、窓配置はタイプIVと全く同じで、装備品や機器配置も極力同一とされている。但し、構体骨組が鋼製で重量がやや重く、台車はタイプIVと同仕様ながら軸バネのばね定数その他が強化されたOK-25A及びOK-21Bを履き、主電動機はMB-3037-A3がそのまま採用されている。
運用状況は他の2000系各車と同様であったが、タイプIVに先駆けて1989年に除籍された。廃車後は東二見車庫に長らく保管されていた。その後、2001年に5030系増備で車庫構内が手狭になったことから両先頭車は解体されたが、中間車は倉庫として現存している。
本グループについてもMB-3037系電動機をはじめとする一部電装品が2300系を経て3200系に転用されている。なお、3200系の在籍数から逆算すると転用電動機が1編成分余る計算となるが、これは検査予備として工場でプールされている[8]と見られている。
[編集] タイプVI
1963年に2000系全編成の3連化にあたって不足する中間車を補うべく2507・2508の2両が製造された。窓配置はタイプIV、Vの中間車と同一であるが、こちらはアルミサッシを備えるものの、車体そのものはタイプI・IIと同じく準張殻構造の全鋼製である。
台車もタイプIV・Vの中間車と同系だが、仕様変更が行われてOK-21Cとなった。
2000系を全編成3連化するために製造された中間車であり、車体は同時期製作の2700系3扉車の中間車版と言えるデザインとなっている。連結相手は2扉車だが、ラッシュ対策を優先して3扉車とされた。この2両をもって2000系の製造は終了している。
元々3扉車であるが3550形へは改造されず、1970年以降は2000-2001及び2008-2009とアンバランスな3連を組み続けた。真相は不明だが、2扉車の混雑を少しでも緩和させる意図があったものと思われる。
1990年までに全車廃車された。いずれも転用されること無く解体されている。
[編集] 脚注
- ^ 端子電圧340V時定格出力110kW。
- ^ 全電動車編成の場合、平坦線での釣合速度は135km/hに達した。
- ^ ただし、母線引き通しなどの高圧系統はここに引き通せなかったため、他にも3本のジャンパケーブルが引き通してあった。
- ^ 本系列第1陣と同時期設計で、端子電圧375V時定格出力90kW(架線電圧600Vの下では72kW級)の東芝SE-515-Cを裝架する、阪急1010系は当時MT比3M1TないしはオールMで運用されていた。
- ^ これも上述の制御器を複雑化させる要因であった。
- ^ 当初は白熱球による1灯式であったが、ヘッドライトケースは計画段階でシールドビーム化を前提としてこれと容易に交換可能なように設計されており、後年予定通りケースはそのままにシールドビーム2灯化されている。
- ^ これに伴い車体側面に通常の扉閉め表示灯と上下二段で空気バネの異常を知らせる標識灯が設置された。
- ^ 検査に特に時間を要する電動機等の主要機器については、車両に実際に搭載されている個数に対して一定率で予備品を用意し、検査時に順送りで検査済み品と入れ替えてゆくのが通常の手順で、これにより検査期間の短縮と作業の効率化、それに在籍車両数の削減が実現される。
[編集] 関連項目
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