神戸姫路電気鉄道1形電車
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神戸姫路電気鉄道1形電車(こうべひめじでんきてつどう-がたでんしゃ)は、神戸姫路電気鉄道(神姫電鉄。山陽電気鉄道本線明石以西を建設)が1923年8月の全線開業に当たって製造した通勤形電車である。
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[編集] 概要
神戸姫路電気鉄道の初代技師長となった高木茂一[1]のアメリカ視察の成果を受けて、大阪鉄道デイ1形に続く日本で2番目の1500V電化区間用電動客車として設計され、Nos.1 - 15の合計15両が1923年に川崎造船所兵庫分工場で製造された。
その主要機器はことごとくアメリカからの輸入品で、当時の最新モデルが採用されていたことで知られている。
[編集] 車体
当時としては一般的な、シングルルーフの木造14m級3扉ロングシート車である。車体幅は地方鉄道建設規程が許容する最大値である2.74mで、ゆったりとした印象を与えていた。
窓配置は1D(1)121(1)D221(1)D1(D:客用扉。Dに隣接する(1)が戸袋窓)で、外観上扉間の側窓は2枚単位でまとめられており、前面は非貫通3枚窓であるが中央の1枚のみが狭幅とされ、側窓[2]を含む全ての窓が1枚下降式となっていた。
台枠は鋼製で、床下には補強用のトラス棒が取り付けられていた。
なお、前照灯は通常装着しておらず、必要に応じ灯具を前面中央窓下に取り付ける方式[3]であった。
[編集] 主要機器
電装品は先行する大阪鉄道がウェスティングハウス・エレクトリック社製を採用したのに対し、こちらは兵庫電気軌道で実績があったゼネラル・エレクトリック(GE)社製で統一されており、1500V対応のために当時の最新鋭機器が全面的に採用されていたのが特徴である。
[編集] 主電動機
GE社製GE-263[4]が主電動機として採用された。この電動機は当時既に阪神急行電鉄が神戸線向け新造車に採用していたもの[5]であるが、端子電圧750Vでの導入は日本では本形式が最初の例である。歯数比は2.74で、全界磁での高速運転も可能な設定となっていた。
なお、神姫電鉄は制御車を製作しなかったため、本形式は常に全電動車編成で運行された。
[編集] 制御器
制御器もGE社製の電空カム軸式制御器(PCコントロール)で、当時最新の自動加速制御器の1つである。
同系機種は阪急をはじめとする各社に導入されたが1500V仕様での輸入例はこれが初めてであり、以後は国産化が進んだため、GE社純正で1500V仕様の輸入品は希少な存在であった。
[編集] 台車
BW-78-25A[6]を台車として装着した。これも日本製のデッドコピー品ではなく、アメリカのボールドウィン社による純正品のBaldwin-A形が輸入されている。この台車は後に以後の日本製デッドコピー品[7]と区別無く混用され、最終的には社内形式BW-1として300形に転用されたが、そこでも検査時にたらい回しにされる関係上、一切区別されず順不同で装着されたため、わずかながら存在する外観上の識別点[8]からそれと知れるのみであった。
[編集] ブレーキ
空気ブレーキはJ三動弁を用いる制御管式のGE社製AVR(Automatic Valve Release)自動空気ブレーキであった。
このブレーキは兵庫電軌が採用していた原始的な直通ブレーキと比較して長大編成・高速運転に適したシステムであったが、神姫電鉄時代には最大でも2両編成であったため、その真価が発揮されることはなかった。
[編集] 集電装置
1500V電化で先行した大阪鉄道が当初よりパンタグラフを採用していたのに対し、こちらは1500V電化鉄道では日本の鉄道史上唯一となった、ポール集電が採用されていた。
このトロリーポールもGE社製で、アメリカの高速電車で一般に用いられていたスライダーシューを使用するタイプではなく、先端にホイールがついた従来通りのタイプのものが選択されていた。また、連結運転時には母線引き通しを行わなかったため、2両の電動車双方のトロリーポールを上げて集電を行っており、このため連結運転時には車掌は2人乗務する必要があった。
なお、併用軌道区間がなかったことからポールの本数はシングルで、当初はダブルポールを使用していた兵庫電軌とは異なっていた。
[編集] 連結器
標準軌間で省線との直通貨物も存在しなかったため、当時最新の自動連結器[9]が採用された。
[編集] 運用
神姫電鉄開業後、唯一の旅客車として明石-姫路間で運用されていたが、1927年に神姫電鉄と兵庫電気軌道が相次いで宇治川電気に買収されたことで、本形式を取り巻く状況は一変した。
架線電圧1500V、車体幅2.74mの本形式では架線電圧600V、車体幅2.4mの旧兵庫電気軌道区間への入線が物理的に不可能であったため、両区間を直通する列車の運行開始に当たり窓配置は本形式と同様であるが車体幅を2.4mに縮小した半鋼製の新車体を製造した上で本形式の車体を廃棄、主要機器を複電圧対応へ改造の上で流用する51形が新造されることとなった。
それゆえ、1927年に本形式は車齢わずか4年にして全車廃車、形式消滅となった。
[編集] 廃車後
1927年の廃車後、Nos.1 - 9の車体は当時同じく宇治川電気の傘下であった近江鉄道の電化時に譲渡され、新造の電装品や台車などと組合わせてデハ1形となった。
これに対し、明石工場構内に残されていたNos.10 - 15の車体は、戦時中の車両不足の際に、車体中心線で唐竹割りにし、その切断面で0.34m分幅を詰めてから再度結合し、車体幅を縮小するという前代未聞の大工事を施工の上、2代目76形76 - 81として現役復帰した。
本形式は1まとまりの車両としては極めて短命であったが、51形(→山陽100形)→250形・270形・300形と流用を繰り返した主要機器も、上述の通り全数が再起した車体も、戦災で焼失した2代目76形の3両を除きいずれも長期間にわたって有効活用されており、その後の車両・建築限界の基準[10]となるなど、山陽・近江両社の以後の車両設計に大きな影響を与えた重要な車両である。
[編集] 脚注
- ^ 後の山陽電気鉄道第三代社長。
- ^ 戸袋窓を除く。
- ^ 当時は昼間には前照灯を点灯することはなく、灯具未装着での運行が大半であったためか、灯具装着状態を示す鮮明な写真は残されていない。
- ^ 神姫→山陽での公称性能は端子電圧750V時定格出力52kW(70馬力)/780rpm。
- ^ 阪急での公称性能は端子電圧600V時定格出力48kW/720rpm。
- ^ 心皿荷重上限25,000ポンド(11.34t)、軸距78インチ(1981mm)で平鋼リベット組立構造のイコライザー式台車。
- ^ 汽車製造会社、日立製作所、それに自社工場で製造したものを使用した。
- ^ ボールドウィン製のオリジナル品はヨークの部分の形状が段落ちで、他の国産同等品各種とは異なっていた。
- ^ これも当時は国産品が存在しなかったため、シャロン式が輸入されている。
- ^ 山陽では一旦2.4m幅への縮小が実施されたが、明石-姫路間の地上設備はほぼそのまま使用され、更に明石以東についても線形改良などの際にこれを基準とした改修が順次実施されており、これは戦後山陽がモハ63形(700形)の導入を強行する伏線となった。また、近江では後年になって700形と同クラスの西武鉄道401系を譲受しているが、これは本線・多賀線については地上設備の大改修無しで運行が実施(これに対し八日市鉄道由来の八日市線はホームを削るなどの改修工事を要した)されており、電化時(つまり本形式の車体を流用したデハ1形の入線時)に整備された地上設備が今でも有効に機能していることが見て取れる。