長州正義派
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江戸時代後期、長州藩内は改革派と保守派とに分かれており、同じ藩主毛利敬親の下で2つの派閥が主導権を争っていた。のちに改革派は正義派と称するようになり、幕府に恭順しようとする保守派を俗論派と呼んで区別した。正義派・俗論派の命名者は高杉晋作。「真の勤皇路線」「真の攘夷路線」(破約攘夷路線)を巡る藩論形成過程において1858年(安政五年)に命名した。
正義派は、藩政改革を進めた村田清風を継いで改革派を率いた周布政之助の下、
- 吉田寅次郎(吉田松陰)
- 桂小五郎(木戸孝允)
- 来原良蔵
- 井上聞多(井上馨)
- 久坂玄瑞
- 高杉晋作
- 寺島忠三郎
- 村田蔵六(大村益次郎)
- 山田市之允(山田顕義)
- 伊藤俊輔(伊藤博文)
- 佐世八十郎(前原一誠)
- 時山直八
などで構成されていた。
対する俗論派は、長井雅楽・椋梨藤太・中川宇右衛門などが代表格であった。 なお、正義派と俗論派との間の中間派という人たちも、波多野金吾(広沢真臣)など、少数ながら存在していた。