久坂玄瑞
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久坂 玄瑞(くさか げんずい、天保11年(1840年) - 元治元年7月19日(1864年8月20日))は、日本の武士・長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は誠、義助。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊皇攘夷派の中心人物。贈正四位。
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[編集] 経歴
長門国萩平安古(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の二男として生まれる。藩校明倫館に入って医学および洋書を学んだのち、安政3年(1856年)、17歳で九州に遊学。宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰の名を耳にする。帰藩後、松下村塾に学び、高杉晋作、吉田稔麿と共に村塾の三秀といわれた。松陰は久坂を長州第一の俊才であると認め、高杉晋作と争わせて才能を開花させるようつとめた。松陰は、久坂を自分の妹文と結婚させている。
安政5年(1858年)、京都・江戸に遊学し、安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊攘運動の先頭に立つようになる。
長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、文久2年(1862年)同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出。藩論の転換に尽力した。同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使三条実美、姉小路公知らと共に江戸に入ると、高杉らと御楯組を結成、12月には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。
その後、水戸、信州を経て京都に入り、文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合。4月からは京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。幕府が攘夷期限として5月10日を上奏するのと前後して帰藩し、下関にて光明寺党を結成。首領に中山忠光を迎えて外国艦船砲撃事件に加わった。この頃、義助と改名する。また再度入京し、尊攘激派と大和行幸の計画などを画策した。
同年の八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された後も、しばらくの間京都詰の政務座役として在京し、失地回復を図った。しかし、翌元治元年(1864年)6月、池田屋事件の悲報が国許に伝わると藩内で京都進発の論議が沸騰したため、来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上。真木和泉らと共に堺町御門で戦ったが(禁門の変または蛤御門の変)、負傷して寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25(寺島と刺し違えたとも言われる)。
- 時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起
- (ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき)
[編集] 参考文献
- 『高杉晋作と久坂玄瑞―変革期の青年像 (1972年)』
- 『久坂玄瑞全集 (1978年)』
- 『高杉晋作と久坂玄瑞―変革期の青年像 (1966年)』
- 『高杉晋作と久坂玄瑞』
- 『花冠の志士―小説久坂玄瑞』
- 『久坂玄瑞文書 (1983年)』
- 『久坂玄瑞の精神 (1943年)』
- 『花冠の志士―久坂玄瑞伝 (1979年)』