チェコスロバキア併合
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チェコスロバキア併合( - へいごう)とは、第二次世界大戦開戦前、1938年~1939年においてチェコスロバキアが段階的にドイツに併合もしくは保護領化されていったことをいう。
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[編集] ズデーテン併合
[編集] 緑の件
1938年3月、念願のオーストリア併合を達成したヒトラーは次の領土的野心をチェコスロバキアに向けた。そして4月には対チェコ作戦(コードネーム”緑の件”)が立案され、次のように軍に指示した。
- どんな原因もなく、また正当化の余地もないような青天の霹靂的奇襲は拒否。
- 一時的に外交交渉を行い、徐々に事態を先鋭化しつつ戦争に導く。
- 戦闘は陸軍と空軍の同時攻撃の必要あり。最初の4日間の軍事行動が政治的にも決定的。もしこの間に軍事上の決定的な成功がなければ、全欧危機に突入するのは確実。
[編集] チェコスロバキアへの間接介入
上のような公文書を出した後、ヒトラーは行動を開始した。彼は、チェコ国内のドイツとの国境沿いの地域に多数のドイツ系住民(ズデーテン・ドイツ人)がいることを対チェコスロバキア戦略の重要な駒とした。まずオーストリア併合のよって勢いづいているズデーテン・ドイツ人にドイツ本国から大々的な支援を送り、自治運動を展開させた。さらに宣伝機関によって「圧迫されているズデーテンのドイツ人」という宣伝を国内に流し、ドイツ世論をも勢いづけた。これに対しチェコスロバキアはフランス、ソ連と相互援助条約を締結した。
[編集] 恫喝外交
相互援助条約によって迂闊に軍を出せなくなったヒトラーは、戦術をチェコのベネシュ大統領個人を、「ドイツとチェコの障害になっているのはドイツ人の民族自決権を認めようとしないチェコ側の態度である」とした恫喝的演説を繰り返すことに転換した。さらに、「事態をこのまま放置しておけばヨーロッパ中がチェコの頑迷の巻き添えを喰らうことになる」などと、ラジオと映画をフルに使って恐怖を煽り立てた。
- ニュルンベルク党大会での恫喝演説
9月12日に行われたニュルンベルク党大会では、「ベネシュ氏は策をもてあそんでいる...だがここで問題なのは演説のやり方ではなく権利、まさしく現に侵害されている権利なのだ! ドイツ人が求めているのは、他の全ての民族が持っている民族自決権なのであって、空虚な決まり文句でない!!」と述べ立てた。
ヒトラーはこのようにヴェルサイユ条約が敗戦国に押し付けた理屈を上手く逆用し、戦争の危機を回避しながら恫喝外交を続けた。イギリスの首相チェンバレンがドイツ側の要求をほとんど呑むことで、戦争の危機を回避しようとしているのを、ヒトラーは見透かしていたため、さらに次々と要求を釣り上げていき、最終的にチェコスロバキアに全面降伏を迫った。