ノルマンディー上陸作戦
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ノルマンディー上陸作戦 | |
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「血のオマハ」1944年6月6日 |
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戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1944年6月6日~1944年6月26日 | |
場所:ドーバー海峡ノルマンディー | |
結果:連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
イギリス アメリカ合衆国 自由フランス カナダ ポーランド ノルウェー |
ドイツ |
指揮官 | |
バーナード・モントゴメリー オマー・ブラッドレー |
ゲルト・フォン・ルントシュテット エルヴィン・ロンメル |
戦力 | |
155,000 | 380,000 |
損害 | |
戦傷・戦死10,264 | 戦傷4,000 戦死9,000 |
ノルマンディー上陸作戦(ノルマンディーじょうりくさくせん)とは、第二次世界大戦中の1944年6月6日に行われたオーバーロード(大君主)作戦を指す(Operation Overlord)。ナチス・ドイツによって占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦。最終的に、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディーに上陸した。史上最大の上陸作戦であり、作戦から60年が過ぎた現在でもこれを超える規模の上陸作戦は行われていない。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空爆と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により二ヶ月以上要した。
ノルマンディー上陸作戦は今日まで第二次世界大戦中の最もよく知られる戦いの一つとして数えられる。「D-DAY」は作戦決行日を表し、現在では作戦開始当日の1944年6月6日を意味する用語として使われる。
目次 |
[編集] 序章
1941年のバルバロッサ作戦によるドイツ軍のソ連侵攻以来、ヨーロッパ本土でのドイツ軍勢力のほとんどがソ連に向けられていた。同年12月に参戦したアメリカの大統領フランクリン・ルーズヴェルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、ヨシフ・スターリンからの要求もあり、テヘラン会談において危機的なソ連の状況を緩和するために、1944年の5月にはヨーロッパに「第二戦線」を開くことに合意した。
イギリス軍は第一次世界大戦同様に正面からの攻撃を繰り返すのではなく、ヨーロッパを周囲から攻撃することを提案した。アメリカ側は前線の延長を望まなかったことと、イギリスの勢力拡大意図について心配したため、ドーバー海峡を渡っての上陸作戦を行うようイギリス側を説得した。1942年中にブレストかシェルブールへの(本格的反攻ではない)限定的上陸のスレッジハンマー作戦、1943年以降の北フランス上陸のラウンドアップ作戦が立案されていた。しかしスレッジハンマー作戦は準備期間が短すぎ、上陸しても半島に閉じ込められるだけで吸引できるドイツ軍兵力が小さいことから早々に放棄された。代わりに北アフリカのドイツ軍を排除するトーチ作戦(ジムナスト作戦)が実行され、ラウンドアップ作戦は1943年以降になることとなった。結局ラウンドアップ作戦は1943年中に実施できない事が判明したため、1944年までずれ込み、作戦名もオーバーロード作戦と変更された。
計画立案のプロセスは連合軍総司令部のスタッフによって1943年の1月に始められた。1944年4月28日には南デヴォンで上陸演習、タイガー演習が行われたが749人のアメリカ軍の死者を出した。連合軍上層部はこの失敗がドイツに伝わり、大規模な上陸作戦の用意をしていることが露見することを恐れたが幸いドイツ軍情報部はそこまで詳しい情報をキャッチしていなかった。
イギリス本土基地からの連合軍戦闘機の航続距離は上陸地点の選択を非常に制限した。地理学的に上陸地点はパ・ド・カレー(カレー港)とノルマンディーの二地点に絞り込まれた。パ・ド・カレーがイギリス本土から距離的に最短であり上陸地点として最適だったが、当然のことながらドイツ側もパ・ド・カレーへの上陸を想定しており、その防御が強力であったため、連合軍は上陸地点にノルマンディーを選択する。
1942年のカナダ軍のディエップ攻撃での失敗から連合軍は、最初の上陸でフランスの港を直接攻撃しないことに決定した。ノルマンディー正面への広範囲な上陸は、ドイツ軍にとってブルターニュ西海岸のシェルブール港と、パリからドイツ国境へ向けての二つの攻撃の脅威となることが予想された。ノルマンディーはドイツ軍の布陣が薄く、上陸は予想されなかった地点であったが、戦略的にはドイツの防御を混乱させ分散させる可能性を持つ攻撃地点であった。
1943年12月にヨーロッパ方面連合軍最高司令官としてアイゼンハワー将軍が任命された。1944年1月にはモントゴメリー将軍が本作戦の地上軍総指揮官に任命された。
計画の段階で海からの上陸が三個師団、空挺部隊が二個旅団要求された。モントゴメリーはすぐに初期攻撃の規模を海からの攻撃を五個師団、空からを三個師団増加させた。合計で47個師団の投入が承認された。内訳はイギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍26個師団にアメリカ軍21個師団である。
提督バートラム・ラムゼー卿指揮下で上陸用舟艇4,000隻および艦砲射撃を行う軍艦130隻を含む6,000を超える艦艇が投入された。空軍中将トラフォード・リー・マロリー卿指揮下に1,000機の空挺部隊を運ぶ輸送機を含む12,000機の航空機が上陸を支援した。ドイツ軍に対して投下するために合計5,000トンの爆弾が準備された。
最初の40日間の目標は次の通り定められた。
- カーンおよびシェルブールを含む上陸拠点の確保(特にシェルブールは大型艦艇が入港できる深度の点から必要とされた)。
- ブルターニュとその大西洋岸の港を解放し、ル・アーヴルからル・マンとトゥールを抜けてパリ南東部に向かって125マイル前進すること。
その後三ヶ月の目標は次の通り
- ロアール川南部とセーヌ川北東部の地域の制圧。
侵攻作戦の目標がパ・ド・カレーであり、また隙あらばドイツ占領下のノルウェーに侵攻する準備が整っているとドイツ軍に思いこませるために、連合軍はフォーティテュード作戦という大規模な欺瞞作戦を展開した。この作戦はフォーティチュード・ノース(ノルウェー侵攻作戦)とフォーティチュード・サウス(パ・ド・カレー侵攻作戦)の二つからなっており、架空のアメリカ軍師団が偽の建物と装備と共に作られた。また、イギリス各地に偽のラジオメッセージが送信された。さらに作戦によりリアリティを持たすためその架空軍団の指揮官には当時謹慎中だったパットン将軍が指名された。
当然ドイツ軍も実際の上陸地点を知るために盛んな諜報活動を行っており、イギリス南部の広範囲にスパイネットワークを持っていたのだが、不運なことに連合国側に寝返った諜報員が多く、ほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものであった。欺瞞は可能な限り続けられ、その地域のレーダーおよび軍事施設への攻撃は継続された。この作戦は徹底したものであり、ノルマンディーに1トンの爆弾を落とした場合はパ・ド・カレーに2トンの爆弾を落とすと言う感じで、あくまでノルマンディー方面はフェイントであり、パ・ド・カレーが連合軍の主目標であることを印象付ける事を目的としていた。
また、フォーティチュード・ノースを支援するためにスカイ作戦と言う欺瞞作戦も展開された。これはスコットランドから無線交信を使用して、侵攻作戦がノルウェーあるいはデンマークを目標としていることをドイツのアナリストに認識させるために行われた。ドイツ軍はこの架空の脅威の為、この地域の部隊をフランスに移動させなかった。
連合軍は上陸に備えて特殊装備を開発した。パーシー・ホーバート少将指揮下のイギリス第79機甲師団による特殊車両は「ホバーズ・ファニーズ」「ザ・ズー」と呼ばれた。同師団が開発、装備した車両群は、水陸両用のD.D.(Duplex Drive)シャーマン、地雷除去戦車シャーマン・クラブ、工兵戦車チャーチルAVRE(Armoured Vehicle Royal Engineers)、火炎放射戦車チャーチル・クロコダイル、架橋戦車チャーチルARK(Armoured Ramp Carrier)などである。
また、「マルベリー」と呼ばれる人工港をアロマンシュとサンローランに投入した。この「マルベリー」はコンクリート製の箱と沈船を組み合わせたもので、港を解放するまでの間、燃料を始めとする補給物資の揚陸に用いられることになった。
[編集] ドイツ側の状況
1943年11月、ヒトラーがフランス侵攻の兆しをもはや無視することはできないとして、エルヴィン・ロンメル陸軍元帥をフランス北部防御の任務を負ったB軍集団の司令官に任命する。 北アフリカでの経験から、ロンメルは連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」、水ぎわで徹底的に殲滅することであると確信しており、機甲部隊の海岸近辺への配置を望んでいた。しかしロンメルの考えはB軍集団の上位にある西部方面軍(OB・West)総司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット陸軍元帥の考えと対立する。
ルントシュテットは内陸部に連合軍をあえて引き込み、連合軍の橋頭堡がまだ固まりきらないうちを狙って撃滅する作戦を支持した。この作戦運用上の二人の重要な指揮官の討論は、彼らの戦闘経験を反映していた。ロンメルは北アフリカで制空権を奪われた厳しく、不利な状況下での戦闘経験から連合軍の戦術思想を学んでいたが、ルントシュテットは1939年から1941年までのドイツ空軍の制空権保持下および東部戦線での戦線拡張下での経験、つまり「勝ち戦」の経験には富んでいた。 エーリッヒ・フォン・マンシュタインとともに、ハインツ・グデーリアンが創始した空陸一体の同時攻撃「電撃戦」ドクトリンの完璧な実行者だったルントシュテットが、英米軍の空軍力に関して考慮しなかったことは注目すべき点である。バトル・オブ・ブリテン以降、下がる一方だった当時のドイツ空軍の能力を考慮すれば英米空軍の増強は容易に推測できた。ロンメルはもはや、ドイツの航空戦力に対してまったく幻想を抱いていなかったのである。
- ドイツ空軍はこの時フランス北部沿岸全体に183機しか戦闘機を保有(そのうち使用可能機は160機)していなかったが、国防軍最高司令部(OKW)は、このうちの160機を、フランス北部沿岸地帯から移動させる決定を下す。それはドイツ本土への空爆に対応させるためと、残り少ない戦闘機を、とりわけ爆撃の激しいフランス北部沿岸で損耗させることを避けるためだったが、国防軍最高司令部が海の荒れる6月には連合軍は上陸しないと見ていたのも大きな要因である。このおかげで、6月6日当日の上陸作戦に対し、リールにあったJG26(第26戦闘航空団)からヨーゼフ・プリラー大佐とハインツ・ヴォダルチック軍曹の駆る2機のFw 190戦闘機が出撃し、上陸中の連合軍に一回の機銃掃射を加えたのが、ドイツ空軍唯一の上陸作戦に対する攻撃となった。
論争の解決にヒトラーはフランス北部で運用可能な機甲師団6個のうち、3個をロンメルに与えるが、残りの3個は海岸から離れた位置に温存配備し、ヒトラー直接の承認なしでは運用することが出来ないとすることで、戦術の方向性は折衷案のようなかたちを取って決着する。
[編集] ドイツ側の守備・大西洋の壁
『大西洋の壁(Atlantic Wall)』と呼ばれた大西洋沿岸の防衛状態は、ヒトラーが計画を強力に推進したにも関わらず、ヒトラーが連合軍が上陸する地点だと固執したため、もっとも構築が進んでいたカレー方面でも80%前後、ノルマンディーにいたっては計画の20%前後しか進行していなかった。
「大西洋の壁」は連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御施設であるとされ「ドイツの背後を突こうとする連合軍を、大西洋に叩き返す」と、内外にプロパガンダされていた。それを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいものだった。膨大な量のコンクリート、セメントが集められ、徴用された何万人もの労働者たちが突貫工事を進めた。だが、あまりにも膨大な発注に対して、入手できた鉄鋼材は少量だったため、旋回レールを備えた大砲陣地などの強力な施設の数は少数にとどまったという。
そもそもノルウェー沿岸からスペインにまで達する、3000マイル以上の大西洋沿岸すべてを要塞化することが不可能なのは明白だったし、この時のドイツは明らかに、西部戦線よりも東部戦線の方に力を注がなければならない状況であった。43年の末にB軍集団司令官に着任したロンメルは、41年から北アフリカにおり、大西洋の壁に関するプロパガンダを信じ「壁」はほとんど完成したものと思っていたため、ノルマンディー沿岸の防御施設を視察したあと、大西洋の壁の有効性に対する意見だけは、ロンメルとルントシュテットの間で完全に一致した。それは「まったく不十分な、単なるこけおどしにすぎない代物」であった。
連合軍が上陸するのはノルマンディーであると考えていたロンメルは着任の後、全力でノルマンディー沿岸の防御施設の構築を推し進めた。ロンメルは手に入る限りの資材・人員・武器・兵器をすべて投入したが、その中でも地雷は最も多く投入され、ノルマンディー沿岸の全体に埋められたその数は約500万発以上であったという。その他にも波打ち際の海中に立てられた杭には機雷をくくりつけ、砂浜に障害物を置くなど、できる限りの備えをしていたが、この時のドイツ軍には、これらの防御陣地に入るべき人員に関して、大きな問題を抱えていた。
まず、この時点でフランスにおけるドイツ軍兵士の実に6人に1人がOst Battalion(直訳すれば「東方大隊」)に所属していたと言う事実がある。これらの将兵は部隊名があらわすように主にドイツより東方に位置する国からの出身者で構成された部隊の事である(ただしフランス人やイタリア人の部隊なども存在した)。当初は文字通り「義勇兵」が多かったのだが、戦局が悪化するにつれ占領区域からの強制徴募や捕虜収容所から志願者を募ると言う方法で部隊が編成され、お世辞にもその戦闘力は高いと言いがたかった。また、東方戦線でドイツが守勢に転じた後は戦力として当てにならないどころか集団脱走や組織的造反の可能性すら出てきたため順次西方に送られた。Dデイ当時のフランスには約200個大隊もの東方大隊が存在しており、この約半分はフランスに駐屯していたドイツ国防軍の師団に配属されていた。普通の師団は1個大隊、多い場合は2個大隊もの東方大隊がそれぞれの師団に配属されていたのである。残りの半分は軍集団司令部や軍団司令部に配属されており、状況に応じて戦線に投入された。
彼らはあくまでドイツ国防軍所属の兵士であり、武装親衛隊が編成した東方出身者による義勇兵師団とは別の存在である。下士官や将校はドイツ人だったが当然大半の兵はドイツ語を喋ることができず、訓練の水準も低くまた武器も古いものしか支給されなかった。当たり前だが一部の部隊を除いて士気は総じて低く、連合軍の部隊が近づいただけですぐに降伏してしまうものが多かった。アゼルバイジャンやトルクメニスタン出身の兵士に、ドイツ軍のためにフランスの地で米軍や英軍と戦って死ねという方が無茶なので、これは無理からぬことだと言えよう。スティーヴン・アンブロースが書いた『Dデイ』の中にはドイツ人の下士官を射殺したあと嬉々としてアメリカ軍に降伏したポーランド人部隊の話が紹介されている。わずか3人で40人もの捕虜に投降されたアメリカ兵達は非常に面食らったそうだ(後にポーランド系将兵の通訳で事態を把握したらしい)。
無論、ドイツ国防軍も別にこの東方大隊がドイツ兵と同じように戦うと思っていた訳ではなく、彼ら東方大隊を使って後方地域を押さえておくことで、その分ドイツ人の兵士を前線に派遣できると考えていただけである。もちろんこの場合、一番の問題は後方地域だったはずのフランスが後方地域ではなくなってしまった事だが、ほとんど全ての方向から攻められていたドイツにしてみればもう他に後方と呼べる地域は(本国ぐらいしか)なかったのだろう。
また、この「フランスは後方地域である」という認識・扱いは東方大隊に関してだけではなかった。当時のドイツ軍では東方戦線で燃え尽きるまで戦った師団は戦線から抽出し、フランス(もしくは本国)に送ってその地で再建していたため、連合軍が上陸した時点でフランスに駐屯していたドイツ軍の多くは良く言えば東部戦線帰りのベテラン、悪く言えば東部戦線で磨り減るまで戦った師団の残余、だったのだ。ロンメルがB軍集団司令官に着任してから一部精強な部隊が配属されるようになったが、それらの部隊は主にパ・ド・カレー方面に配属され、その他の戦域では二線級の部隊が主に沿岸部を防衛していた。
東方戦線にほとんど全力を傾注していたドイツは、大西洋沿岸防衛のために今まで軍役を免除されていた者まで徴集して部隊を編成していた。その中には消化器の問題を抱えている者をまとめて部隊にしたり、第一次世界大戦で戦ったことのある老人、もしくはドイツに送り返された傷病兵などが含まれていた。また、連合軍による昼夜の爆撃により、フランス国内の輸送路は分断され、ドイツ本国からの補充兵や物資はなかなか前線に届かなかった。
- 前述のようにドイツ空軍にはもはや昔日の勢いはなく、ドイツ海軍に到っては潜水艦部隊以外は「海軍」とは呼べない程度の艦隊しかフランスに駐屯していなかった。航空勢力はほぼ壊滅していたが、残された空軍地上要員はまだ多く、ゲーリング空軍総司令官は彼らを集めて空軍地上部隊を編成することを決める。まともな訓練も受けずに歩兵師団として戦闘に投入されたこれらの部隊は、ほとんどが大きな損害を受けた。
[編集] 上陸前夜
連合軍が徹底的にオーバーロード作戦を秘匿したにもかかわらず、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が指揮するドイツ国防軍情報部(アプヴェール)は、オーバーロード作戦が開始される前兆として、BBC放送がヴェルレーヌの「秋の歌」の前半分、すなわち「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」を暗号として放送するという情報をつかんでいた。これは月の1日か15日に放送され「連合軍の上陸近し、準備して待機せよ」という、全ヨーロッパ大陸中の、対ドイツレジスタンスグループにあてた暗号であった。
44年6月1日夜9時の、BBC放送のニュースのあとの「個人的なおたより」放送でこの暗号は放送され、アプヴェールはOKWとカレー方面を防衛するドイツ第15軍司令部、ルントシュテットの西部総司令部、そしてロンメルのB軍集団司令部に警告を発する。しかし、警戒態勢をとったのは第15軍のみであった。OKWで連絡を受けた作戦部長アルフレート・ヨードル中将はルントシュテットが警戒態勢を取るよう命令するだろうと思い込んでいたために何も動かず、ルントシュテットは、ロンメルがそれをするだろうと思い込んでいて、何も動かなかったのである。
そして6月5日、ドイツ時間午後9時15分、暗号の後半部分「ひたぶるに うら悲し」はアプヴェールによって傍受される。これは「放送された日の深夜0時から48時間以内に上陸は開始される」との暗号で、アプヴェールは直ちに関係する各部隊へ警報を発した。だが、「史上最大の作戦」の著者コーネリアス・ライアンも「謎」と言っているように、この時もロンメルはあきらかに、いかなる偶然によってか、指揮下の第7軍や第84軍団に警戒態勢を取らせていない。警報のテレタイプ送信先にははっきりとB軍集団と書かれており、第7軍と第84軍団は、B軍集団の下位部隊なのである。 1万8千名の連合軍空挺部隊がこの3時間後、降下を開始することになっていた。
- ロンメル自身は6月に連合軍が上陸することはあり得ないと信じ切っており、上記の連絡を確実に受けていながら何の対応も取らなかっただけでなく、ロンメルの妻、マリアの誕生日を祝うために6月初頭の休暇を申請し、数ヶ月前から調整を入れていた(ドイツでは指揮を許された装甲3個師団だけではなく、少なくとも5個師団の指揮権を委譲するようにヒトラーに直談判する必要もあった)ため、副官のヘルムート・ラング大尉を連れ、上陸直前の6月4日早朝、B軍集団司令部のある小さな村、ラ・ロッシュ・ギュイヨンを発っていた。そして彼は6月6日の午前10時15分、ドイツ本土ヘルリンゲンの自宅で、連合軍上陸開始の連絡を受けることになるのである。
[編集] 上陸
[編集] 空挺部隊
上陸開始に先立って、海岸付近のドイツ軍を攪乱し、反撃行動を妨害し、上陸部隊の内陸進攻を容易にするため、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始した。
英第6空挺師団は午前0時10分過ぎ、最初に活動を始めた部隊だった。彼らの主任務はソード・ビーチからやや南東にある、内陸進攻に必要なペガサス橋とホルサ橋の2つの橋の占領確保、そして作戦の最も困難な部分は4門の大口径砲を備えたメルヴィル砲台陣地の無力化であった。これらの砲は上陸艦隊に対する脅威と見なされており、遅くても午前5時30分までに無力化せよと命令されていた。(トンガ作戦を参照) 4255名の英第6空挺師団は橋と砲台の周辺に第1波はパラシュート、第2波はグライダーで強行降下・着陸を試み、作戦を開始する。橋は短時間で確保することができたが、メルヴィル砲台陣地の攻略は困難を極めた。
襲撃に先立ち0時30分から行われた砲台陣地への予備爆撃は砲台を1台も破壊せず、予備爆撃のさなかに着陸するはずだった空挺師団に火力を増強するための装備を満載したグライダー隊は1機も到着せず、砲台陣地を攻撃する予定の部隊700名は広い地域に散らばってしまったため、指揮官テレンス・オットウェイ中佐の元に集合できたのはわずか150名であった。この不利な状況にもかかわらず部隊は勇敢に攻撃を開始し、約70名の死傷者を出しながら午前5時15分には砲台陣地は破壊され、任務達成を知らせる黄色い信号弾が打ち上げられた。砲台守備兵200名のうち、生存者は22名だけだった。
ノルマンディー地方の西方、ユタ・ビーチのあるコタンタン半島には、米第82および第101空挺師団が降下していたが、彼らの任務もまた困難に遭遇していた。一部はパイロットの経験不足で、また一部は降下困難な着陸地点のため、部隊は広い範囲に散らばって降下した。 ドイツ軍は空挺部隊の行動を阻むためにこの地方の川をせき止めて沼を作り出しており、少なくない数の兵士たちが、これらの沼に降下して溺死したし、輸送機から飛び出すのが遅すぎた者たちは、海に降下して溺死した。 24時間後、第101空挺師団のうち3,000名だけが集合できた。多くが敵の後方を歩き回り戦うことを継続させられた。第82空挺師団は6月6日の早朝にサン・メール・エグリーズの街を占領し、同地は侵攻によって解放された最初の街となった。
「輸送機は西から東へ進んだのだが、半島を横切るのに12分しかかからず、降下が遅すぎた者は英仏海峡へ落ち、早すぎた者は西海岸から冠水地帯の間に落下した。・・・ある者は飛び降りるのがおそすぎ、下の闇をノルマンディだと思いながら英仏海峡へ落ちて溺死した・・・いっしょに降下した兵士たちはほとんど重なりあうようにして沼に突っこみ、そのまま沈んだきり上がってこない者もあった」 コーネリアス・ライアン「史上最大の作戦」199-200ページ
[編集] 上陸部隊
イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、西から順にブラッドレー将軍指揮のアメリカ軍担当の「ユタ」(第4歩兵師団コリンズ将軍指揮)・「オマハ」(第1歩兵師団ゲロウ将軍指揮)、デンプシー将軍指揮のイギリス軍担当の「ゴールド」(第50歩兵師団ブックノール将軍指揮)・「ジュノー」(カナダ第3歩兵師団)・「ソード」(第3歩兵師団)の5つの管区に分けられた。 航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、水陸両用戦車を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられていた。そして1944年6月6日午前6時30分、5つの管区で一斉に上陸を開始し、上記のドイツ軍の防衛態度の意見の混乱から、オマハ以外では犠牲を少数にとどめ上陸を果たした。
「嘘じゃない!」と彼は叫んだ。「信用しないのなら、ここへ来て、自分の目で見たまえ!途方もない船団だ!信じられない眺めだ!」ちょっと間があいて、再びブロックの声がもどった。「その船団はどちらへ向かっているのかね?」受話器を握りしめたまま、プルースカットは銃眼に目をやって答えた。「まっすぐ私の方へだ!」 コーネリアス・ライアン「史上最大の作戦」247ページより
[編集] ソード・ビーチ
ソード・ビーチでは英第3歩兵師団が上陸に成功し、彼らの死傷者は少数であった。彼らはその日の終わりまでに約5マイル(8km)進撃したが、モントゴメリーによって計画された目標のうちのいくつかには到達できなかった。主要目標のカーンは、D-デイの終了時にもまだドイツ軍の支配下にあった。
第1特務旅団は、二つのフランス兵部隊を伴ったイギリス海兵隊第4コマンドに率いられて第二波として上陸した。彼らはウイストラムに個別の目標を持っていた。フランス兵部隊の目標はブロックハウスとカジノであり、第4海兵隊の目標は海岸を見下ろした二つの砲台であった。ブロックハウスはコマンドのPIAT(Projector Infantry Anti Tank)では破壊が困難であったが、カジノはセントー戦車の支援によって撃破された。イギリス海兵隊第4コマンドは、目標の二つの砲台がすでに砲の外された砲架だけだったことを確認した。歩兵部隊に仕上げの手続きを任せて、第1特務旅団の残り(イギリス海兵隊第3、第6および第45コマンド)と合流するために彼らはウイストラムから内陸へ移動し、続いて第6空挺師団との合流を目指した。
[編集] ジュノー・ビーチ
ジュノー・ビーチに上陸したカナダ軍は11基の155mm砲重砲台および9基の75mm砲中砲台に直面した。またそこには機関銃の巣とトーチカや他のコンクリート堡塁、そしてオマハ・ビーチの二倍の高さの護岸堤が立ちはだかっていた。第一波は、オマハ以外の5つのD-デイ上陸拠点のうちで最高の50パーセントの死傷者が出た。
障害にもかかわらずカナダ軍は数時間の内に海岸に上陸し、内陸への進軍を始めた。第6カナダ機甲連隊(第1軽騎兵)は、15km内陸のカーン - バイユー間のハイウェーと交差するという目的を達成した唯一の連合軍部隊だった。
D-デイの終了までに、14,000人のカナダ兵が上陸に成功した。また、第3カナダ師団は上陸拠点で激しい抵抗に直面したにもかかわらず、他の連合軍部隊より内陸に侵攻した。D-デイにおける最初の反撃は、第21装甲師団がソードとジュノーの間で行った。また6月7日および8日には、橋頭堡を構築したカナダ軍に対し第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」の反撃が行われた。
[編集] ゴールド・ビーチ
ゴールド・ビーチでは部分的に水陸両用シャーマンの到達が遅れ、死傷者が増えることとなった。またドイツ軍は海岸上の村を防衛拠点として強化していた。しかしながら第50師団は障害を克服し、その日の終わりまでにバイユーの周辺に向かって前進した。ジュノーのカナダ軍を除くと、第50師団より目的に接近した部隊は存在しなかった。
イギリス海兵隊第47コマンドは最後に上陸した英軍コマンド部隊で、ゴールド東のル・ヘメルの陸上に進出した。彼らの任務は内陸に進撃し、西方に向かい敵領内へ10マイル進軍し Port en Bessin 湾を背後から攻撃することだった。この石灰岩の断崖で守られた小さな港は英軍にとって、沖合のタンカーから海底パイプを通じて燃料供給を行うために初期の最重要目標となっていた。
[編集] オマハ・ビーチ
オマハ・ビーチにおいては米第1歩兵師団が最悪の苦難を経験した。ここでは他の海岸に比べ特殊装甲車両の装備が少なく、さらにオマハに割り当てられた水陸両用シャーマンの多くは予想より高かった波のせいで次々と浸水し、海岸に到着する前にほとんどが失われてしまった。対するドイツ第352歩兵師団は海岸に配置された中でも比較的まともな部隊であった(師団自体は1943年11月に編成され、初陣であったが、将校、下士官の多くが東部戦線で壊滅した部隊から集めたベテランだった。兵士は30代の実戦未経験の老兵がほとんどであったが、ドイツ人のみで編成されていた)。彼らは海岸を見下ろす険しい崖の上を拠点とした。公式記録は次のように述べる。「上陸10分以内に(先導)部隊は指揮官を失い活動能力を失った。指揮をとる全ての士官および下士官は戦死または負傷した。...それは生存と救助のための闘争となった」オマハ・ビーチでは4,000名以上の死傷者が出たが、それにもかかわらず生存者達は再編成され内陸に進撃した。死傷率が一番高かったので「ブラッディ・オマハ」(血まみれのオマハ)と呼ばれている。
オック岬のドイツ軍コンクリート要塞は米第2レンジャー大隊の攻撃目標であった。彼らの任務は敵の砲火の下ロープと梯子を用いて高さ約30mの崖を登り、ユタとオマハを射程とした要塞内の砲を破壊することであった。部隊は到達に成功し、おそらく前日の爆撃中に移動された砲は見つかり破壊された。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50パーセントだった。
ちなみにノルマンディー上陸作戦を題材にした映画などで、ドイツ軍の重機関銃の掃射により連合軍兵士がバタバタと倒れるシーンが観られるが、実際には重機関銃による攻撃は少なく、ほとんどがトーチカや塹壕からのライフルや短機関銃による攻撃であったらしい。
[編集] ユタ・ビーチ
オマハ・ビーチとは対照的に、ユタ・ビーチでの死傷者数は197名で全上陸管区中最少であった。23,000名が上陸を果たし、彼らは内陸に進撃を行って先陣空挺部隊との連絡に成功した。
[編集] 上陸後
- 6月5日 - 6日:デトロイト作戦(米第82空挺師団)、シカゴ作戦(米第101空挺師団)、トンガ作戦(英第6空挺師団)
- 6月6日:ネプチューン作戦
- 6月25日 - 29日:エプソム作戦
- 7月7日:カーンの陥落。
- 7月17日:王立カナダ空軍スピットファイアの機銃掃射でエルヴィン・ロンメル元帥が負傷。
- 7月18日 - 20日:グッドウッド作戦
- 8月3日 - 9日:トータライズ作戦
- 8月16日:ドラグーン作戦
一旦上陸拠点が確保されると、二基の「マルベリー」が分割されイギリス海峡を運搬された。一基はアロマンシュで構築され、もう一基はオマハ・ビーチに設置された。しかしながらオマハのマルベリーは暴風で破壊された。アロマンシュ港では9,000トンに及ぶ物資が毎日陸揚げされ、1944年8月末にアントワープとシェルブール港が確保、運用されるようになるまで続けられた。
海岸に配置されたドイツ軍防衛部隊は、訓練不足および補給の不足、一週間にわたる爆撃によりその抵抗は弱体化していった。唯一の例外がロンメルによってサン・ローからオマハ・ビーチ防衛のため移動させられた第352歩兵師団であった。同師団の強固な防御陣と、連合軍諜報部が考慮したドイツ軍第716歩兵師団の二大隊が投入される可能性が同管区の死傷者の激増の原因となった。ロンメル以外のドイツ軍指揮官はこの数時間の攻撃に関する報告を、上陸作戦によるものとは考えなかった。また、多くの上級指揮官が演習を行うため前線を離れていたことが状況をより悪化させた。また、米空挺部隊が北部ノルマンディーに分散して降下したことも混乱を増す原因となった。
米空挺部隊は別に最初から分散して降下するはずではなかったのだが予想を上回る対空砲火のせいで輸送機が分散してしまい、その結果広範囲にわたって降下する羽目になってしまった。しかし、そのせいでドイツ軍は降下してきた米軍空挺部隊の実数が掴めず対応に苦慮することになってしまったのだ。また、ドイツ軍上層部はかなり長い事ノルマンディーへの上陸はカレー上陸を容易にするための陽動作戦ではないかと疑い、カレー方面の兵力を動かすタイミングを逃してしまった。ノルマンディーへの上陸作戦を主攻撃だと断定してカレー方面の部隊に移動命令が下った頃にはすでに状況は手遅れだった。
こういった悪条件にもかかわらず、第21装甲師団はソードとジュノーの間で反撃を行い海岸への到達に成功した。しかし対戦車砲による強固な抵抗と、彼らが遮断されてしまうという恐れから6月6日の終わりまでに撤退することとなる。いくつかの報告書によれば、上空を飛ぶ空挺部隊の観測が退却決定に影響した。
連合軍の侵攻計画は、初日にカランタン、サン・ロー、カーンおよびバイユーを確保し、ユタとソード以外の海岸を連携させ、海岸から10 - 16km進出することであったが、実際にはどれも達成できなかった。作戦全体の死傷者は予想より少なく(10,000人前後が予想され、チャーチルは20,000名に及ぶことを心配した)、橋頭堡は予想されたほどの反撃は受けなかった。上陸に続く優先事項は、橋頭堡の連携・カーンの奪取・シェルブール港の確保と安全な補給の確立、であった
ドイツ第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」は6月7日、8日にカナダ軍を攻撃し大損害を与えたが、前進することはできなかった。その間に各管区の海岸は全て制圧され統一された拠点となった(ソード:6月7日、オマハ:6月10日、ユタ:6月13日)。連合軍はドイツ軍より急速に前線を強化していった。彼らは海岸に全てを上陸させなければならなかったが、連合軍の制空権およびフランスの鉄道網の破壊は、ドイツ軍の移送を停滞させ危険なものとしていた。
ユタとオマハ後方の地域はボカージュ(生垣)によって特徴づけられた。高さ3m近い古くからの土手と生け垣は、それぞれが100 - 200mにも及び、戦車、砲撃、視界を妨げ理想的な防御陣地を形成した。米兵の展開は遅れ、シェルブールへの進撃は多数の死傷者で苦しめられた。空挺部隊は停滞する進撃を再開するよう再三要求された。ヒトラーはシェルブールの防衛部隊が連合軍に橋頭堡を与えないことを期待したが、指揮官は6月26日に降伏した。
ノルマンディー地方のカーン(6月25日-7月20日のエプソム・グッドウッド作戦)・サン・ロー(7月25日-8月2日のサン・ローの戦い)・ファレーズ(8月10日-19日のファレーズ包囲戦)で激戦となったが、8月25日パリを解放した。
[編集] 歴史的意味および余波
全体的に見た場合この作戦は成功であったとするしかない。連合軍はフランス上陸に成功し、第二戦線を構築した。その結果ドイツ軍は陸上でも二正面作戦を展開することを余儀なくされ、東部戦線で赤軍が開始したバグラチオン作戦に満足に対応することができなかった。この作戦でドイツ中央軍集団は壊滅的な打撃を受け占領していた地域のかなりの部分を失い、ドイツは継戦能力を大きく削がれる事となってしまった。ただし、ひとつの作戦としてみた場合はオーバーロード作戦は完全に成功したとは言いがたい。
まず、作戦でもかなり重要なポイントとされていた大規模な港湾の確保に手間取ってしまったことがあげられるだろう。作戦の初期段階で奪取するはずだったシェルブールは結局6月26日まで抵抗を続け、なんとか占領しても港湾施設はドイツ軍守備隊により完全に破壊されていたため8月末まで港としては役に立たなかった。同じく作戦の初期段階で奪取するはずだったカーンも同地のドイツ軍守備隊のせいで占領に手間取り、連合軍が同市及びその周辺地区を完全占領下に置いたのは7月27日になってからであった。要するに作戦開始から40日間の間に達成するはずだった目標(カーン及びシェルブールの占領)をどちらも達成できなかったと言う事になる。ただし港湾施設の占領が遅れたせいで補給に多少の不備は生じたがマルベリーのような人工港湾施設の活躍もあり、上陸部隊が物資不足で戦闘に不能になると言うような事はなかった(しかし重装備の揚陸は予定よりかなり遅れた)。
しかしドイツ軍の守備の妙もあり連合軍はどの方面でも予定通りに進撃することができず、ノルマンディー以外のフランス解放はかなり遅れた。1944年8月、南フランス上陸作戦(ドラグーン作戦)が行われたが、ドイツの抵抗で、プロヴァンス地方が解放されただけであり、フランス全土の解放は、イタリア戦線で1945年1月、連合軍がゴシック線を突破し、イタリア北部からフランスへの進撃が始まるのを待つこととなった。
6年後に勃発した朝鮮戦争に於いてはこのノルマンディー上陸作戦をモデルとして、仁川上陸作戦が立案された。アンツィオ上陸作戦とノルマンディ上陸作戦の反省を踏まえて慎重かつ周到に準備した結果、北朝鮮軍の抵抗が予想以上に少なく、わずか3日でソウルを奪還した。
[編集] 映画
- 『史上最大の作戦(The longest day)』:コーネリアス・ライアンの原作。ケン・アナキン、アンドリュー・マートン、ベルンハルト・ヴィッキ監督、1962年
- 『バンド・オブ・ブラザース』 - Band of Brothers:スティーヴン・アンブローズによるノンフィクション。 スティーブン・スピルバーグ、トム・ハンクスによってテレビシリーズ化された。
- 『プライベート・ライアン』 - Saving Private Ryan(1998年、アメリカ映画):『戦場にかける橋』を観て映画監督を志し、8mmカメラで最初に作った映画が第二次大戦ものだったスティーブン・スピルバーグが念願かなって作った第二次大戦映画。トム・ハンクス主演。行方不明になったライアン二等兵を救助すべく派遣された8人の兵士を描いている。わざと旧式の機材を用い画質を落とすなど、スピルバーグらしい手の込んだつくりになっている。ドイツ兵をスキンヘッドにする(ネオナチのスキンヘッドを連想させようとした)など事実の意図的な歪曲もあるが、武器を捨て降伏したドイツ兵を米兵が射殺する場面の冷たいリアリズムなどが、ドイツ軍を単なる悪役にはしていない。また、MG42機関銃の銃声を実際に録音して使ったり、2cm機関砲の破壊力を直接描写したり、ティーガーIやケッテンクラートなど、ドイツ軍の装備に関するスピルバーグならではのこだわりがみられた。作品の冒頭20分間では、オマハ・ビーチでのリアルなシーンが話題を呼んだことでも知られている。
- 『鉄路の闘い』 - La Bataille du Rail(1945年、フランス映画):ルネ・クレマン監督の下、実際にレジスタンスとして戦った人々をキャストに迎え、ノルマンディー上陸を援護するフランスレジスタンスの鉄道線妨害活動を描いた。上映の翌年カンヌ国際映画祭第1回グランプリを受賞した。
[編集] ゲーム
第二次世界大戦時のヨーロッパ戦線を描いたアクションシューティングゲーム。PC版で登場した「メダル・オブ・オナー アライドアサルト」では、映画「プライベート・ライアン」のゲーム版とも言われ、ゲームにもかかわらず、リアルに戦場を描いている。とくに序章のオマハ・ビーチでの上陸作戦はとくに激しいミッションで、当時をリアルに再現している。 また、PS2版の「メダル・オブ・オナー 史上最大の作戦」ではゲームが始まった直後から銃弾の雨が降り注ぎ、まさに「プライベート・ライアン」である。ちなみにどちらとも主人公は違っている。
上記メダル・オブ・オナーとしばしば比較されるタイトル。 このタイトルを立ち上げたInfinity Ward社は、元々メダル・オブ・オナーを製作していた一部のスタッフによって設立された。 シリーズ4作目「CoD4」以外はWW2を描いた内容である。「CoD2」にオマハ・ビーチ上陸作戦が登場する。
[編集] 参考文献
- Kenneth Macksey(著)、『戦闘 (原題:Battle, 1974)』、白金書房、1976年
- Kenneth Macksey(著)、『ノルマンディーの戦闘』、朝日ソノラマ、1988年(白金書房の『戦闘』の改題復刻版)
- フリードリッヒ・ルーゲ(Friedrich Ruge)(著)、『ノルマンディーのロンメル』、朝日ソノラマ、1985年、ISBN 4-257-17064-6(ロンメルの部下の回想録、昭和12年の杭州湾上陸作戦に使用された上陸用舟艇「大発」に関する記述がある)
- コーネリアス・ライアン(著)、『史上最大の作戦(原題:The longest day)』、早川書房、1995年(原題のThe longest day は上陸第一日が勝負であると見たロンメルの言葉の引用である)
- Micheal Reynolds(著)、Steel Inferno, I SS Panzer Corps in Normandy, Sarpedon, 1997, ISBN 1-885119-44-5(武装親衛隊「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」と「ヒトラーユーゲント」装甲師団のノルマンディーにおける戦闘記録)
- パウル・カレル(著)、『彼らは来た(原題:Sie kommen)』、中央公論社、1998年(親衛隊中佐であった戦記作家のドイツ軍側からのノンフィクション)
- スティーヴン・アンブローズ(著)、『D-デイ (原題:D-Day June 6, 1944, The Climactic Battle of World War II)』
- Stuart Hills(著)、By Tank into Normandy, A Memoir of the Campaign in North-west Europe from D-Day to Ve Day, Cassel, 2002, ISBN 0-304-36216-6(ノルマンディ上陸作戦に参加した英軍戦車兵の回顧録)
- ウィンストン・チャーチル(著)、『第二次世界大戦』、佐藤亮一訳、全四巻、河出書房新社
[編集] ボードゲーム
- コマンド・マガジン第46号 『西部戦線1944』、国際通信社
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- The D-Day Museum in England
- BBC WW2 history
- Utah Beach to Cherbourg a U.S. Military History, written by Roland G. Ruppenthal. This work is in the public domain.
- Music Inspired By D-Day
- Juno Beach Centre
- U.S. Navy Online Library of Selected Images: Normandy invasion
- Second World War Newspaper Archives — D-Day Invasion and the Normandy Campaign