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エルヴィン・ロンメル - Wikipedia

エルヴィン・ロンメル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

エルヴィン・ロンメル
1891年11月15日 - 1944年10月14日

Erwin Rommel 装甲兵大将, 1941
渾名 砂漠の狐
生誕地 ハイデンハイム (Heidenheim)
死没地 ヘルリンゲン (Herrlingen)
所属組織 ドイツ陸軍
軍歴 1911-1944
最終階級 元帥
部隊 アルペン軍団
指揮 第7装甲師団
ドイツアフリカ軍団
Commander in chief North Italy
Army Group E, Greece
Army Group B
戦闘 第一次世界大戦
第二次世界大戦
ナチス・ドイツのフランス侵攻
北アフリカ戦線
ノルマンディー上陸作戦
賞罰 プール・ル・メリット勲章
柏葉剣ダイヤモンド付き騎士鉄十字章

エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルErwin Johannes Eugen Rommel, 1891年11月15日 - 1944年10月14日)は第二次世界大戦において最も有名なドイツ軍人の一人。砂漠のアフリカ戦線において巧みな戦車部隊の運用で戦力的に優勢なイギリス軍をたびたび打ち破り、英首相チャーチルに「ナポレオン以来の戦術家」とまで評された。

プロイセン貴族ではない、中産階級出身の最初の陸軍元帥となる。

「エアヴィン・ロンメル」あるいは英語読みで「アーウィン・ロンメル」とカタカナ表記されることもある。日本では「エルウィン・ロンメル」と表記される事が多い。なお、Rommel のドイツにおける読み方は、「ロンメル」よりも「ロメル」に近い。

目次

[編集] 人物

ドイツアフリカ軍団時代の彼は砂漠の狐と仇名され、英軍に「我等が敵ロンメルは巧みな戦術家ではあるが、人間である。あたかも彼が超自然的能力を持っているかのように評価するのは危険であり、戒めねばならない」とまで言わしめた。

騎士道溢れる軍人でもあり、火力で敵を押し込むハード・キルより、相手を霍乱する事で降伏に追い込むソフト・キルを好んだ。捕虜には国際法を遵守して非常に丁重に扱った。1941年にロンメル暗殺を企図してドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国コマンド部隊の死者を丁重に扱っている。以後も英コマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたアドルフ・ヒトラーの命令を無視していた。ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部から全員を虐殺せよとの命令が下ったが、ロンメルはその命令書を焼き捨てた。彼は最後までナチス党に入信する事はなく、あくまで1人の軍人として戦い続けた[1]

こういったエピソードに加え、あまりの連勝ぶりに敵軍の中にまでロンメル将軍を崇拝するものまで現れた程である。ロンメルは神に守られていると信じ込む者もおり、英国司令部が『ロンメルは人間である』と異例の布告を出した。ドイツ国内では英雄視され、その存在は士気を高めるための宣伝に大いに利用された。ある日妻にせがまれて渋々ナチスの舞踏会に参加した時は、着飾った女性たちに囲まれて身動きができなくなったという[1]

また、大隊長である第一次世界大戦の頃から前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解する事に努めた。前線に出る事は非常に危険を伴うため、一般的な高級将校は前線には出ない。ロンメル自身幾度となく危険に晒された。これは昇進後もあまり変わらなかった。北アフリカ戦線においてイタリア軍は度々ドイツ軍の足を引っ張ったが、ロンメルは苦情を言いながらもイタリアの兵士を労わった。しばしば軍団をやかましく叱責したが、兵士からは「我等が親父」と慕われていた[1]

幼年時代に航空機技術者になる夢を持っていたせいか、機械に対する興味が旺盛で、気軽に軽飛行機に搭乗して偵察を行ったり、宣伝大臣ゲッベルスからプレゼントされたカメラを愛用して欧州やアフリカで数千枚の戦場写真を残したりした。子息のマンフレートによると元々写真撮影が好きだったという。同僚からは写真家将軍と揶揄されていた。ロンメル自身が指揮装甲車の屋根からカメラを構えている姿を撮った写真も残っている。アフリカ軍団が危機的状況に陥った1943年2月にはエルンスト・ライツ社からライカIII c型を送られている。このカメラは現存し、ロンメルからの感謝状も同社に残っている。

戦時中においても妻と手紙による交流を欠かさず、週に毎日手紙を交わす時もあった。内容は日常的なものから戦況や同盟軍に対する不満まで書き綴っていた。その手紙は現在でも保管されている。

戦中の行為、また敗戦国である事から、ナチス指導者やほかの多くのドイツ軍人が非難されるなか、ロンメルだけはドイツのみならず、敵国だったイギリスやフランスでも、軍人として、あるいは人格者として肯定的に評価される事が多く、アフリカ北部でロンメルの手痛い打撃にさらされたチャーチル首相は「ロンメルは神に愛されている」と皮肉にも似た賞賛を残している。また、エジプトのシーアの町では、ロンメルが訪れた際、丁重なもてなしへの謝礼として紅茶を渡すなどした事があり、戦後からロンメルの写真が飾られている。これはイギリスがエジプトにおいて、文化的遺産を略奪していた事への反発も含まれているが、軍人としての規律と誇りを貫いたこともあり人気が高い。またアフリカ各国が、イギリス等、ドイツ以外の植民地であった事から、解放軍としてドイツ軍が歓迎された例もあり、アフリカ諸国ではナチスドイツに対する悪印象はそれほどないとされる。

[編集] 生い立ち

ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルムから約50kmほど離れた小さな町、ハイデンハイムでプロテスタント系の高等学校々長のエルヴィン・ロンメル(シニア)とヘレーネ・フォン・ルツの次男として生まれた。

ロンメルにはカールとゲアハルトという二人の兄弟と、妹ヘレンがいた。ロンメルは後に「私の幼少時は非常に幸福だった」と述懐している。ロンメルはエンジニア志望だったが、父親に教師か陸軍士官になれと選択を迫られ、1910年ヴュルテンベルク王国の第124歩兵連隊に入営、プロイセン王国のダンツィヒ王立士官学校に進んだ。

ロンメルはダンツィヒ陸軍士官学校時代の1911年にルーシー・モリンに出会い、1916年に結婚した。1928年に息子のマンフレートが生まれ、彼は戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めている。

1911年11月、ロンメルは士官学校を卒業し、1912年1月に少尉に任官した。後年、歴史家のジョン・ビーアマンとコリン・スミスは、ロンメルが1912年にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間にゲルトルートという名の娘をもうけたという研究を発表している。

最高の勲章の一つであるブルー・マックスを授章した(プール・ル・メリット勲章)
最高の勲章の一つであるブルー・マックスを授章した(プール・ル・メリット勲章)

第一次世界大戦中、ロンメルはルーマニア、イタリア、フランスの各戦線に従軍し、三度の負傷で一級および二級鉄十字章を授章した。さらに彼はイタリア北東部のカポレットの戦いで多くの捕虜を得る著しい功績を挙げ、1917年12月に最高位のプール・ル・メリット勲章を授章し、その年の最年少授章者となった。1915年に彼は中尉に昇進した。

第一次大戦後、ヴェルサイユ条約により10万人に限定された陸軍に選び残されたロンメルは、ドレスデン歩兵学校(1929年 - 1933年)、ポツダム歩兵学校(1935年 - 1938年)の教官を務めた。

プール・ル・メリット勲章を授章した山岳戦の経験を著した『歩兵攻撃(Infanterie greift an)』は1937年に出版され、50万部を売り切った。ヒトラーも読者のひとりだった。

1938年には大佐に昇進、ウィーン郊外のマリア・テレジア女王の名を冠する陸軍士官学校校長に任命された。1939年には総統警護大隊 (Führer-Begleitbataillon、FHQ)の指揮官に任命されて、ポーランド侵攻では前線近くに停められた総統専用列車「アメリカ」の警備にあたった。ロンメルはポーランド侵攻前の8月1日に遡及して少将に昇進した。

ポーランド戦の最中、ロンメルはヒトラーに前線勤務を志願した。ヒトラーはそれを受け入れ、ポーランド戦後に新編成された第7装甲師団の師団長に任命される。

[編集] 第二次世界大戦

[編集] フランス

1940年5月に開始されたフランス・ベネルックス諸国への西方電撃戦では第7装甲師団長を務めた。真っ先にムーズ川(ミューズ川)を渡り英仏軍をフランス本国から切り離す一番槍をつけ、アラスシャルル・ド・ゴール大佐らが率いる英仏戦車隊の反撃を撃退するなど、連合軍に幽霊師団と仇名される神出鬼没の働きで勇名をはせ、中将に昇進した。自ら偵察機や指揮装甲車に搭乗して最前線で指揮を執り、兵士と苦楽を共にする彼の用兵術は、ドイツ軍人精神の模範とされ、兵士に実力以上の能力を発揮させた。最終的にロンメルの指揮する第7装甲師団は9万人の捕虜を獲得し、損害は戦死682名、戦車42両のみだった[1]

ダンケルクの戦いではロンメルの軍団含むドイツは敗走する連合軍40万をフランスのダンケルクまで追い詰めた。ロンメルは英国の本格的な反撃が始まる前にこれを殲滅し、英国に上陸すべきだと主張したが、空軍元帥ヘルマン・ゲーリングの失態により連合軍の撤退をみすみす許してしまった[1]

戦況について話し合うロンメル(左端)(1942年、北アフリカ)
戦況について話し合うロンメル(左端)(1942年、北アフリカ)

[編集] 北アフリカ戦線

北アフリカ戦線は当初、直接的にドイツ軍が関わる戦場ではなかった。当時のイタリア政府は東アフリカ戦線への助勢を必要としており、またイギリス本土への攻勢を控えたドイツ政府より度々北アフリカ駐留英軍への攻撃を要請されていた。伊軍上層部は装備や補給面での不足から慎重な行動を求めたが、ムッソリーニは軍の反対を押し切る格好で1940年9月13日にイタリア王国軍へリビアからエジプトへの進軍を命じた。作戦を開始したグラッツィアーニ元帥は兵員8万人からなる伊第10軍を戦地に投入したが、補給が慢性的に不足し、徒歩移動の部隊が大勢を占めていたイタリア軍に対して十分な機械化と補給を受けたイギリス軍3万人は優位に戦いを進めた。その年の末、増援を得たイギリス軍のオコンナー将軍は兵員6万人を投じての大規模な反攻作戦「コンパス作戦」を発動、イギリス軍の圧倒的な機甲戦力の前にまともな機甲戦力や機械化部隊を持たないシディ・バラニの伊軍3万8000人は成す術も無く包囲され壊滅、後方のバルディアに展開していた残余部隊もムッソリーニの死守命令の元、半月近い激戦の末に降伏した。その後、これを好機と見てリビアにまで足を伸ばした英軍に対し伊第10軍は徒歩での後退戦闘を続けた末にペダ・フォムで英軍の機械化部隊によって完全に包囲される。伊第10軍は2月7日に決行された包囲突破を目的とする最後の突撃をもって壊滅、第10軍指揮官のベルティ将軍は戦死し、駐留軍の総指揮官も辞意を伝えたグラッツィアーニ元帥に変わりガリボルディ将軍に引き継がれた。イタリア王国軍は延べ2ヶ月間の戦闘で北アフリカに駐留する将兵23万人の内、13万人を失う敗北を喫しアフリカにおける枢軸軍の命運は尽きたかに思われた。しかしイタリアの要請を受けたドイツが支援を開始、ロンメルがその責任者として北アフリカに派遣された。

イギリス軍は北アフリカ戦線を戦局を左右する重要な戦場とみなし、多くの海軍兵力と度重なる地上戦力の増派を行ったが、ドイツはバルバロッサ作戦スターリングラードにほぼ全軍を投じソ連軍と死闘を繰り広げていたため、北アフリカばかりを省みる状況にはなかった。故に常に優位に立つイギリス軍に比べ、海軍力で劣りマルタ島からの爆撃で海上補給路を脅かされ、更には良好な港湾施設を持たないロンメル軍団は常に補給の危機に晒されていた。加えてロンメルの保有するドイツの機甲師団は僅かに2個師団のみで、残りの戦力の大半は豆戦車や軽戦車しか持たず、旧式装備のみで機械化されていないイタリア軍部隊で構成されていた。またそれらを含めても軍団は4個師団で、これはイギリス軍の兵力を大きく下回っていた。こうした極めて劣悪な条件にも拘らず、ロンメルは歩兵が防御している間に装甲師団が敵を迂回包囲する「一翼包囲攻撃」などの巧みな戦術で連合軍を次々に撃破した。補給が十分に行われない点は、敵の戦車や補給所を鹵獲する事で解決した。

1941年2月6日に専用機で北アフリカに到着したロンメルは、主力であるドイツアフリカ軍団Deutsches Afrikakorps,略称DAK)を率いて3月に反攻を開始。リビアの都市ベンガジを奪回し、トブルク包囲戦を開始した。包囲を突破しようと侵攻してきた連合軍の増援を「バトルアクス作戦」で撃破し、ガザラの戦いでは2倍以上の兵力を用いて反攻してきたイギリス軍を壊滅させた。

元帥として正装したロンメル(撮影時期不明)
元帥として正装したロンメル(撮影時期不明)

ロンメルはアフリカでの戦果が評価され1941年に装甲兵大将に昇進。1942年10月にはドイツ軍史上最年少で元帥に昇進した。元帥昇格はベルリンのスタジアムの盛大なナチ党集会の中で行われた。このときロンメルは栄光の絶頂にあった[1]。陸軍大学出身でもなくプロイセン出身でもない中流家庭出身の将軍で元帥に昇格したのはロンメルただ1人である。しかし、この昇進が軍上層部の嫉妬を買い、後にヒトラー暗殺未遂事件の首謀者の濡れ衣を着せられることとなる[2]

1942年、ロンメルはトブルク攻略に成功しエジプトに侵攻。連合軍最後の主要拠点であるエル・アラメインに迫った。この地を落とせば北アフリカの大規模な軍港はすべて陥落した事になり、事実上連合軍を北アフリカから追い出すことが可能となった。だがロンメル率いる軍団の戦力は旧式イタリア戦車や鹵獲戦車を含めた300両、それに燃料や弾薬の欠乏という悪条件が重なった。対する連合軍はアメリカが本格的に参戦した事で米国からの大増援を受け300両以上の新型戦車含めた合計戦車1,100両と2倍以上の航空機を保有していた。この頃東部戦線ではスターリングラード攻防戦が勃発し、ドイツはソ連軍170万との攻防を繰り広げており、北アフリカへの増援どころではない状態にあった。度重なる激戦にロンメルは身体を病み一度帰国するが、現場の要請を受けロンメルはアフリカへ再び戻る。ロンメルは、軍団への増援は不可能としても、弾薬・燃料等の物資を空輸するよう空軍司令のアルベルト・ケッセルリンクに依頼したが、ケッセルリンクは聞く耳をもたなかった上に「ロンメルは神経疲労で頭がおかしくなっている」とヒトラーに報告したとされる[1]。そのような中連合軍の反攻が開始され、さすがのロンメルも追い詰められ敗北し、ようやく手中にしたトブルクも放棄せざるを得ず、大きな撤退を余儀なくされた。この後連合軍は「トーチ作戦」で大攻勢に出るが、ロンメルは劣悪な戦力にもかかわらず183両の戦車、600両以上の車輌、200両以上の野戦砲を破壊し連合軍に大きな損害を与えた。

連合軍はその後も攻勢に出るが、ロンメルの戦術によって幾度となく進軍を阻まれた。そこで連合軍は大量の航空機をもって補給路を断絶した。いかにロンメルと言えども補給が断たれた上に圧倒的な物量で東西から迫る連合軍を食い止めることはできず、ドイツアフリカ軍団は1943年の1月にはチュニジア周辺に押し込まれてしまう。劣勢の中の消耗戦に再びロンメルは身体を病み、その結果彼を失うことを恐れたヒトラーの命令で3月9日にチュニジアから脱出した。ドイツアフリカ軍団の戦いはその後も続いたが、主要な拠点や港を失い、5月13日に連合軍に降伏。残存戦力は西部戦線へと移動した。

[編集] ノルマンディー

1943年半ば以降、ロンメルはドイツ西方総軍の指揮下で北部フランスの防衛を担当するB軍集団司令官として、連合軍の迎撃準備に専念した。北アフリカでの経験から、連合軍の圧倒的な航空優勢のもとではドイツ軍は反撃のため大規模な部隊の展開を行うことは不可能であり、上陸時に水際で敵を撃滅することが肝要であると訴え、上陸第一日が防衛軍にとって「最も長い一日(Der längste Tag)になる」と主張した。しかし、西方軍総司令官のゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は英米の航空戦力の脅威を正確に評価せず、連合軍を一旦上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。ルントシュテットは敵航空戦力が弱体な東部戦線の経験しか持たないが、ロンメルはエル・アラメインでの敗北により航空兵力が戦況の鍵を握る事を知っていたのである[2]。こうした将軍同士の対立の中で準備が進められた。そして運命のD-Dayの日、6月の雨季に上陸する可能性は極めて低いと考えられていたため、不運にもロンメルはベルリンで休暇を取っていた。このためノルマンディー上陸作戦時にはロンメルは軍団を指揮することが出来ず、ルントシュテットの作戦により連合軍の制空権下で味方の装甲師団の昼間行動は大きく制約され、有効な反撃が出来なかった。

[編集] ヒトラー暗殺計画

1944年7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車が英空軍の第602戦闘機中隊 (602 Squadron) のスピットファイアによって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院した。

一方、7月20日ヒトラー暗殺計画の失敗後、ロンメルのB軍集団参謀長のハンス・シュパイデル(Hans Speidel)中将が反ナチ派だったことから、彼は計画への関与を疑われた。マルティン・ボルマンはロンメルの関与を確信し、ヨーゼフ・ゲッベルスはその関与を疑った。

ブラウシュタイン市ヘアリンゲンにあるロンメルの墓
ブラウシュタイン市ヘアリンゲンにあるロンメルの墓

1944年10月14日、ヒトラーの使者として療養先の自宅を訪れた二人の将軍は、ロンメルに「反逆罪で裁判を受けるか名誉を守って自決するか」の選択を迫った。裁判を受けても死刑は免れず、粛清によって家族の身も危うくなることを恐れたロンメルは「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」と言い、暗殺事件への関与に関して一切弁明せずに服毒自殺を遂げた。数々の戦功で知られたロンメルの死は「戦傷によるもの」として発表され、祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれた。しかし、ヒトラーは会葬していない。また、ロンメル夫人はこの葬儀でゲーリングの敬礼を無視したという。

ロンメルの暗殺計画への関与は不明である。戦後、彼の妻ルーシー・モリンは、ロンメルはヒトラー暗殺計画に反対していたと主張した。彼女やロンメルの息子によると、ロンメルはドイツ国民に「この戦争も誰かの裏切りのせいで負けた」という印象を残すことを非常に恐れていたらしい。第一次世界大戦にドイツが負けたのはドイツ革命による「背後からの一撃」のせいだと思っていた人が多く、それがナチスの台頭を招いたからだとされる。

戦後、残した軍命令書、戦況報告書、日記等を戦史家リデル・ハートが編集してThe Rommel Papersとして出版された。

[編集] 音楽

ロンメルは国民的英雄として人気があった。1941年にはUnser Rommel(我らがロンメル)が作られ、アフリカ軍団の歌として愛唱された。

[編集] 映画

  • 『砂漠の鬼将軍』(米国映画、ヘンリー・ハサウェイ監督、1951年) - 捕虜となったデズモンド・ヤング准将によるロンメル伝記の映画化。ジェームズ・メイソンがロンメルを演じる。劇中でメイソンが着ている軍服は、ロンメル家から借りた実物だった。

[編集] ゴーグル

ロンメルは北アフリカ戦線のリビアでの戦いの際に捕獲した英軍のゴーグルを好んで着用し、これは彼のトレードマークとなった。しばしばゴーグル自体が防塵用であるかのように言われるが、正確には、英軍のガスマスクの付属品である『Anti-Gas Eye Shield “Mk II"』という防毒ゴーグルである。 このゴーグルは、ロンメルが戦場から持ってきた最初で最後の戦利品であった。

[編集] 参考文献

[編集] 回想録

  • Heinz Werner Schmidt(著)、部下、With Rommel in the Desert, Albatross Publishing, 1951
  • Heinz Werner Schmidt(著)、部下、Mit Rommel in der Wüste, Argus-Verlag, München
  • Heinz Werner Schmidt(著)、清水政二(訳)、『ロンメル将軍(原題:With Rommel in the Desert)』、角川書店、1971年
  • Hanns-Gert von Esebeck(著)、部下の第15装甲師団長、Das deutsche Afrika-Korps, Siege und Niederlage, Limes, 1975, ISBN 3809020788
  • F.W. von Mellenthin(著)、部下、矢嶋由哉/光藤亘(訳)、『ドイツ戦車軍団全史:フォン・メレンティン回想録』、朝日ソノラマ、1981年
  • フリートリッヒ・ルーゲ(著)、加登川幸太郎(訳)、『ノルマンディーのロンメル』、1985年
  • デズモント・ヤング(著)、清水政二(訳)、英軍捕虜、『ロンメル将軍』、月刊ペン社、1969年

[編集] 戦史研究者

[編集] ピクトリアル

  • Bruce Quarrie(著)、(写真集)、Panzers in the Desert, Patrick Stephens, 1978,ISBN 0850593387

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e f g 『ロンメル語録―諦めなかった将軍』 ジョン ピムロット
  2. ^ a b 『ロンメル将軍―砂漠の狐』

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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