ポール・ヴェルレーヌ
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ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 - 1896年1月8日)は、フランスの詩人。ポール・ヴェルレーヌ、あるいは単にヴェルレーヌとも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。多彩に韻を踏んだ約540篇の詩の中に、絶唱とされる作品を含みながら、その人生は破滅的であった。「秋の日の ヴィオロンの……」、「巷に雨の降るごとく……」などの訳詩で知られる。
目次 |
[編集] 生涯と作品
彼の一生には、酒・女・男色・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在する。初期の作品の方が評価され、文名を高めデカダンスの教祖と仰がれた晩年の濫作は、尊ばれない。以下で、箇条書きの部分は文学的事項である。
[編集] 生い立ち
1844年-1864年
ドイツに接するモゼル県のメッス(Metz)に生まれた。父は、ベルギー生まれのフランス軍人。母は、パ=ド=カレー県アラス(Arras)近郊の生まれ。経済的な環境は恵まれていた。父の退役後一家はパリに出(7歳)、ポールは小学校の寄宿舎に入り、次いでボナパルト中学(Lycée Bonaparto)(現在のコンドルセ中学(Lycée Condorcet )に、さらに修辞学級に進むが卒業には至らなかった。大学入学試験に合格し(18歳)、パリ市役所書記になる(20歳)。
- 1858年(14歳):習作をヴィクトル・ユーゴーに送る。このころ、ボードレールの『悪の華』などの詩集を乱読する。
- 1863年(19歳):雑誌に匿名の投稿をする。パリの文人らを知る。
[編集] 青年期
1865年-1871年
父を喪う(21歳)。マチルド・モーテ(Matild Mauté)と婚約し(25歳)、翌年挙式。間もなく普仏戦争(1870.7.19 - 1871.5.10)に召集された。1871年のパリ・コミューン鎮圧(5/20 - 28)の騒擾を、パリのパンテオン近くの自宅で避けた。失職した。長男ジョルジュ誕生(27歳)。
- 1866年(22歳):詩人らが稿を持ち寄った第1次「現代高踏詩集」(Le Parnasse contemporain)に、7篇を寄稿。
- 1867年(23歳):サテュルニアン詩集(Poèmes saturniens)を従姉の費用で処女出版。ブリュッセルで女の友達(Les Amies)を匿名で刊行(後に「雙心詩集」に収録)。
- 1868年(24歳):文壇の知人を増やす。「女の友達」で、軽罪裁判所に処罰される。ブリュッセル在のユーゴーを訪問。
- 1869年(25歳):「よき歌」の数篇を書く。艶なる宴(Fêtes galantes)刊行。
- 1871年(27歳):第2次「現代高踏詩集」に、5篇を投稿。
[編集] ランボー狂い
1871年-1875年
結婚1年後、ランボーと会い、妻に乱暴を繰り返した上、彼と同棲し、イギリス・ベルギー・北仏を転々した。母と妻が説得に来ても、置き去りにして逃げ、妻に絶縁状を書いた。ユーゴーに妻との交渉を懇願した。ロンドンで病臥し、母を呼んだ(28歳)。転々するブリュッセルで、ランボーにピストルを撃ち、収監された(29歳)。妻の離婚請求が認められたことを獄中で知り、落胆し、カトリックに帰依した(30歳)。一年半後出獄し、元妻との和解をはかる一方、旅先でランボーと格闘した(31歳)。
- 1872年(28歳):婚約時代のマチルドを歌った優しき歌(La Bonne chanson)、戦乱に遅れて発行。
- 1874年(30歳):言葉なき恋歌(Romances sans paroles)が友人の手で刊行され、獄中の著者に届けられる。
- 1875年(31歳):第3次「現代高踏詩集」への投稿を忌避される(このとき、マラルメも同様)。
[編集] 教職と美少年狂い
1875年-1885年
イギリスの中学に教職を得た(31歳)。アルデンヌ県の学校に転じ、生徒中の美少年リュシアン・レチノアに惚れ(33歳)、授業をおろされ、リュシアンと英国へ渡り、教職を得た。元妻との和解をまたはかり、黙殺された(35歳)。リュシアンを伴い帰国し、その郷里に滞留(36-37歳)。母と暫くパリに住み、市役所への復職をはかり果せず、西郊の学校に就職した(38歳)。リュシアンが死に(39歳)、その故郷で堕落放浪の日を送った(-40歳)。泥酔して母の頸を絞め、入牢。出獄後またリュシアンの故郷を放浪した(41歳)。
- 1881年(37歳):叡智(Sagesse)刊行、売れ行き振るわず。
- 1882年(38歳):雑誌に、「昔と近頃」の数詩篇と、獄中作の詩法(Art poétique)を発表(「詩法」は後に「昔と近頃」に併載)。
- 1884年(40歳):評論、呪われた詩人たち(Les Poètes maudits)刊行。
[編集] 栄誉と窮乏
1885年-1896年
パリへ戻り、無一文。ホテル住まいした。左膝を患い、一時慈善病院へ(41歳)。経済的援助をした母死亡、葬儀には病気で不参。ホテルを追い出され(42歳)、以降慈善病院を転々(42歳-)。慈善病院から娼婦ユージェニー・クランツの家へ転じ、情夫となる。生活費の為、オランダへ講演旅行(48歳)。ユージェニーに駆け落ちされ、慈善病院入院。娼婦フィロメーヌ・ブーダンに連れ出された。国内およびイギリスへ講演旅行をした(49歳)。ユージェニーと和解しまた同棲した。入院2回(50歳)。文部省から救済の500フランを受け取る。パンテオン近くの自宅[1] で、娼婦に看取られて死去。遠からぬサン・テチエンヌ・デュ・モン教会で葬儀。マラルメ、フランソワ・コペーほか参列者多数。ただし、入営し病中の息子ジョルジュは不参。パリ市17区のバチニョル墓地(Cimetière des Batignolles)に埋葬(51歳)。
日本では、東大生の上田敏が、「ポオル・ヴェルレエヌ逝く」(1896)を発表した。
- 1885年(41歳):漸く文名を世に知られる。昔と近頃(Jadis et naguère)刊行。
- 1886年(42歳):雑誌に「パルジファル」(Parsifal)掲載。
- 1888年(44歳):愛の詩集(Amour)刊行。
- 1889年(45歳):雙心詩集(Parallèlement)刊行。
- 1890年(46歳):献書詩集(Dédicaces)予約出版。
- 1891年(47歳):文名ますます高まる。「人さまざま」(Les Une et les Autres)上演。幸福(Bonheur)、「ヴェルレーヌ選集」、女に捧げる歌(Chansons pour elle)刊行。
- 1892年(48歳):我が病院(Mes hôpitaux)、内なる祈祷の書(Liturgies intimes)刊行。
- 1893年(49歳):プリューム(La Plume)誌の第8回饗宴の座長を勤める。アカデミー・フランセーズの会員に立候補し、取り消す。哀歌(Élégies)、その名誉を讃える歌(Odes en son honneur)、獄中記(Mes prisons)、オランダ15日(Quinze jours en Hollande)刊行。
- 1894年(50歳):奈落の底(Dans les limbes)刊行。ルコント・ド・リール(Leconte de Lisle)の後任として、「詩王」(Prince de Poéte)に選ばれる。エピグラム(Épigrammes)刊行。
- 1895年(51歳):懺悔録(Confessions)刊行。「失意」Désaooiubtenebt執筆。
[編集] おもな邦訳書
- 海潮音 上田敏訳 本郷書院 (1905)、(岩波文庫本などあり)
- 珊瑚集 永井荷風訳 籾山書店 (1913)、(岩波文庫本などあり)
- ヴェルレエヌ詩集 鈴木信太郎訳 創元新書 創元社 (1947)、(詳細な年譜あり)
- 叡智 河上徹太郎訳 芝書店(のちに新潮文庫)
- ヴェルレーヌ詩集 堀口大学訳 ほるぷ出版 (1982)
- ヴェルレーヌ詩集 野村喜和夫訳編 思潮社 海外詩文庫 (1995)
[編集] 歌曲
ガブリエル・フォーレは、艶なる宴の4篇、よき歌の9篇、言葉なき恋歌の2篇を、
クロード・ドビュッシーは、艶なる宴の9篇、言葉なき恋歌の6篇、叡智の3篇を、
モーリス・ラヴェルは、艶なる宴および叡智の各1篇を、歌曲に作曲している。