フィリップ・ペタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンリ・フィリップ・ペタン(Henri Philippe Pétain, 1856年4月24日 - 1951年7月23日)は、フランスの軍人、政治家であり、ヴィシー政府の首相である。一般にナチス・ドイツの傀儡政権の首班として知られるが、ペタンの判断(降伏)がフランス全土を廃墟とする滅亡から救ったともされる。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 英雄
1856年にコーチアラトゥールで生まれた。第一次世界大戦でフランス軍の指揮をとり、ヴェルダンの戦いでの戦功から「ヴェルダンの英雄」として知られている。なお、当時の部下の1人が、第二次世界大戦勃発後に彼と対峙する反独亡命政府自由フランスの指導者で、後のフランス大統領のシャルル・ド・ゴールである。フランス軍の司令官に2回任命され、彼の提唱する防御戦略に従ってマジノ線が建設された。
[編集] ヴィシー政権
第二次世界大戦中の1940年春、ドイツの侵攻によって破局を迎えるただ中に84歳のペタンは戦時内閣の副首相に任命され、フランスがドイツと休戦したのち、フランス議会は首相に任命して非常権限を与えた。この行いは後に自由フランスの指導者となったド・ゴールから合憲性がないと非難されているが、ペタンの首相任命は合法的になされたものであり、当時ペタンはフランスの救世主だと受け取られた。またド・ゴールは法律上は脱走兵であり、選挙を経ず指導者となったため合憲性は低く、法律論はあまり意味をなさない。1940年6月22日、彼はドイツとの休戦協定に署名した。その内容は、パリを含むフランス北部と東部におけるドイツの占領を認めるというものであった。残りの地域と海外植民地は、南フランスのヴィシーを首都としたフランス政府(ヴィシー政権)が治めた。
ファシスト国家の指導者として、ペタンを「国家の父」とするような個人崇拝が起きたが、ペタンも副首相のピエール・ラヴァルも、ドイツからの枢軸国側に加わるようにという要求を拒絶する事はできなかった。
苛酷なドイツとの休戦協定を受け入れたヴィシー政権において、ペタンは枢軸国に大量の物資や食料を提供し、海外の植民地にいるフランス軍に、ドイツ軍を抵抗なしに受け入れ、連合国と戦う事を命じ、実際にマダガスカルなど多くの植民地政府がこれに従った。1942年11月、アフリカ戦線の悪化によりフランス全土はドイツ軍に占領され、ペタンは名実ともに飾り物の指導者でしかなくなった。
[編集] 政権崩壊
1944年に自由フランスのド・ゴールを含む連合軍がフランスに再上陸した後の9月7日、ヴィシー政府は連合軍の攻撃を避け、ペタンらは南ドイツのジグマリンゲンに避難したが、その後すぐにペタンは首相を辞任した。
[編集] 死刑宣告
ペタンは1945年4月にフランスに戻り、1946年の7月から8月にかけて裁判にかけられ、死刑を宣告されたが、1946年8月17日、高齢を理由にド・ゴールによって無期禁固刑に減刑された。1951年、流刑先であるブルターニュ地方のユー島で生涯を閉じた。
1980年、かつてヴィシー政権下で働いていたミッテラン大統領は戦後の大統領として初めてペタンの墓に献花した。
[編集] 参考文献
- 『ペタン元帥はかく考へる 停戦後に於ける仏蘭西の輪郭』 岡田演之訳編 三学書房 1941
- 『ペタンはフランスを救ったのである』 ジャック・イゾルニ 小野繁訳 葦書房 2000 (現在、入手困難)
[編集] 関連項目
前任 フェルディナン・フォシュ |
アカデミー・フランセーズ 席次18 |
後任 アンドレ・フランソワ=ポンセ |