昭和金融恐慌
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昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)は、1927年3月から発生した経済恐慌である。単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼ばれる事もある。金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本においては特に断らない場合は1927年の経済恐慌を指すことが多い。
目次 |
[編集] 概要
日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は、折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして、金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの、4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。
昭和金融恐慌は、後年起きた昭和農業恐慌(1929年の世界恐慌の影響を受けて主に農業に経済的打撃を受けた)と合わせて昭和恐慌と言われる事もある。
[編集] 背景
昭和金融恐慌の原因として、未熟な金融システムと、経済的危機に正しく対処し得なかった未熟な政策が挙げられる。
[編集] 遠因
金融システムの整備が完全ではなかったことから、発生した不良債権の処理が適切に為されず、金融不安を起こすに至った。大正期よりこれらシステムの不備は認識されていたが、充分な手当てが為される前に恐慌が発生した。
[編集] 銀行
明治維新期に設立された銀行の中には、俸禄改革における金融公債(秩禄公債・金禄公債)を資本金として設立されたものが多くあった。設立の意図が資金需要に応える経済的理由によらず、公債の資金化を動機とした、いわば成り行きで設立したために金融の事情に不案内な者[1]が銀行経営に当たることも多かったと指摘されている。また、資本金が実際に払い込まれていないものも多かったという。
日露戦争後には経済が発達し、これに応じる為に銀行の設立が推奨された。明治23年に改正された銀行条例では、銀行業は一般の私企業と看做され資本金額の制限が撤廃され、規制や制限もゆるいものであった。この時期、資産家が銀行を設立することや、資金に余裕のある私企業が銀行業を兼業する事も行われた。また、特定の企業への融資額を制限する規制条項も撤廃され、融資先が偏る情況を許した[2]。
[編集] 政党との結びつき
[編集] 機関銀行
特定企業と結びつきの強い銀行を指して俗に機関銀行という。資産家が豊富な資金を元手に設立したり、私企業の兼業で設立した銀行で、集めた預金を特定企業の業務遂行に充て、揚がった利益で利息支払いを賄う。資金を特定の企業に集中して融資することから、その企業の業績が悪化した場合には直接銀行経営が悪影響を蒙る。また、特定企業の不透明な経理の影響を蒙って経営が悪化することもしばしばあった。
また、欧州の銀行が両替商に始まり、産業の発展に伴う金融機能の要求に応えて銀行業が発達していったのに対し、日本では海外の金融システムをモデルとして、先に銀行が設立されたところから、当初は金融の需要が少なく、銀行自身が事業を興して需要を作り出す傾向にあった。これも、特定の企業へ貸し出しが偏る要因となった。
[編集] 東京渡辺銀行
第二十七国立銀行として設立され、二十七銀行を経て1920年に東京渡辺銀行と改称した。経営者一族の関連企業に多額の貸付を行い機関銀行としての性格が強かったが、これらの融資が戦後不況で焦げ付き関東大震災後に経営が悪化した。
[編集] 台湾銀行
1895年の台湾統治後に日本政府の国策で設立され、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。台湾における産業の育成に資するところから始まったが、樟脳の取引を介して鈴木商店と関係を深めた。この頃、情勢が悪化した中国大陸への融資を縮小し、新たな融資先を開拓していたところでもあり、鈴木商店への融資を足がかりとして内地(日本本土)にも経営を広げた。同時に融資額が膨らみ、機関銀行としての性格も強めた。しかし、戦後不況で鈴木商店の経営が悪化すると多額の融資が焦げ付き、追い貸しを行う様になった。爾後、金子直吉を鈴木商店の経営から排除し、融資を縮小するべく画策したが失敗に終わっている。
[編集] 産業構造
殖産興業策の下産業が大いに薦められたが、大正期に至っても日本経済はその多くを生糸等の軽工業に負った。製鉄や造船等の重工業も勃興しつつあり、第一次世界大戦中には欧州先進国の産業が衰えたのを代替するまでに至ったが、製品の質では未だに一歩譲り、欧州諸国が戦後に産業を回復すると、アジアに獲得した市場を奪回された。これは戦後の大反動(1920年)の一因となる。
[編集] 鈴木商店
1874年に開業した鈴木商店は、1899年に台湾の樟脳の販売権を獲得し、この際に後藤新平と関係を深め、政界にも接近した。第一次世界大戦期には、海外電報を駆使して戦争の長期化を予測し、これに備えて企業買収や投機を行い多大な利益を揚げた。業務に必要な資金は銀行、特に台湾銀行からの短期的な融資を中心として賄った。株式による資金獲得では株主の意向を排除できないことを嫌った金子直吉の方針と言われるが、これが経営危機において即座に資金難に陥った一因であるといわれる。
また、金子直吉の性分として、経営拡大には手腕を発揮したが不採算な事業を畳むことは出来なかったといわれる。一方で、経営拡大は日本の産業発展を願う金子の意図に出たものとも言われる。
[編集] 近因
[編集] 第一次世界大戦
1914~1918年に戦われた第一次世界大戦において、日本の参戦は限定的であり、直接の被害を免れた。一方で、当時世界の生産の中心であった欧州が戦場となり、生産や輸出が落ち込み、各国が世界の需要を担うこととなった。同時に戦争に供する物資・兵器の需要が高まり、日本からは船舶の供給、海運業務を中心とする物資・サービスが提供された。この影響で所謂「船成金」が生まれるなど日本経済は好況を呈した。このとき、明治以来債務国であったものが、債権国に転じ、正貨が大いに蓄積された。
[編集] 1919~1920年の投機
戦争が終結し、戦争特需が終わると反動で不況になること予想された。日本においては日清戦争や日露戦争の後の反動不況の経験もあり十分警戒されたことから重篤な不況に陥らず、凡そ戦後半年で反動不況から脱した[3]。また、欧州では戦後の復興の為の需要がおこり、これに向けて輸出が行われたし、やはり戦禍を直接受けなかった米国の景気は好調で、これも相俟って景気は拡大し(戦後ブーム)、起業・生産にむけての投資も盛んに行われたが、その内容はやがて投機へと変質し、大戦中の好況で資金を蓄えた銀行も積極的に貸し出しを行ってこれを支えた。この時には株価・地価も上昇した。
[編集] 1920年の大反動
3月15日に東京の株式市場が暴落を見せ、4月には大阪の増田ビル・ブローカー銀行が破綻し、株式市場・商品市場が暫時閉鎖に追い込まれる事態となった。 欧州での生産が回復すると日本の輸出も落ち込み、また、7月には米国の景気が後退期に入ったことが明らかとなり、好況を前提に事業を拡大していた企業は一転して、不良債権を抱えた。拡大路線をとっていた鈴木商店も多大な不良債権を抱えた企業の一つである。
振り返ればこの不況は重篤であったが、当時は景気循環の中のありふれたリセッションであると見誤り、不良債権を解消する根本的な対策を怠ったのが政策上の失敗と考えられている。
[編集] 関東大震災
1923年に発生した関東大震災で決済不能となった手形についてはモラトリアム令が出され、後に日銀が手形の再割引を行い(震災手形)、決済困難な手形に流動性を付与することで経済活動の停滞を防ぐべく対応を取った(日銀特融)。しかし、持ち込まれた多くの手形の中から、震災手形としてスタンプを捺すものを選別する場面において、真に震災の被害を受けて当座の支払いに困窮したものは同時に生産手段や担保となる資産も喪失していることが多くリスクが大きいとして敬遠され、一方で被災の程度が軽く安全な物件が優先されたほか、折からの不況や投機の失敗で不良債権となった手形は一応の担保が確保されている事から、これらを再割引の対象として容れられる事があったと指摘されている。この過程で、直接震災に関係ない手形が多数紛れ込むモラルハザードが発生し、戦後不況に起因する不良債権が根本的な解消を見ることなく残りつづけた。
また、震災からの復旧に際して海外からの物資輸入が増大し、為替で円の下落を招くと共に、在庫が滞留し、これが国内の生産を圧迫して不況に輪をかけた。
尚、震災手形による救済策の実施には、鈴木商店の金子の働きかけがあったという俗説もあり、日銀特融を台湾銀行の未決済手形の穴埋めに流用する意図であったと言われる。また、政府もこれを承知で流用を黙認していたとも言われる。
[編集] 震災手形期限繰り延べ
震災手形として再割引した手形の支払期限は2年とされたが、その内容は、前述の様に比較的安全なものと、上辺は安全を装っているが実際には投機の失敗でもはや回収の見込みのない悪質なものとがあった。1924年3月の期限までに日銀が割り引いた手形は予定を超える4億3千万円に達したものの、最初の数ヶ月は予想よりも早く決済が進んだ。しかし、徐々に決済が滞る様になり、猶予期限が到来する頃には進展が殆ど見られないまま2億円が未決で残り、已む無く支払期限1年延長を2回繰り返し、1927年9月まで猶予した。
[編集] 為替変動
第一次大戦中の1917年に米国が金交換の一時停止を発表したのに追随して日本も事実上金交換を停止し、戦後に再び金本位制へ復帰(金解禁)する機会を窺った。しかし、戦後の経済混乱の中でその機会を見出せず、関東大震災の後の輸入超過を受けて、それまで旧平価(100円=$49.875)を維持していたものが1924年暮れには$40を割り込むまでになった。政府は財界の整理(国際汽船、朝鮮銀行、台湾銀行の整理)を行い、経済状況を改善することで自然に為替が旧平価に戻る様に企図したが、これを先読みした投機筋により1925年暮れには$49近辺まで急騰し、以後乱高下した。
[編集] 金解禁
この様に投機筋の思惑で為替が乱高下する事は経済にとって好ましいものではなく、為替の安定のために金解禁を行う事が求められた。一方で金解禁のためには、1920年来の不良債権を根本的に整理・解消することが前提となり、その処理が大きな課題としてつきつけられた。或いは、金解禁を強行すれば企業の経営体質も問われることとなり、不健全な企業は自然に淘汰され、自ずと不良債権は解消するとの見方もあった。
[編集] 新平価と旧平価
尚、金本位制に復帰するにあたり、大戦後の経済状況に応じたレート(新平価)で復帰した国もあった。日本でも関東大震災後の円下落時の頃に一応の経済的安定を見て経済状況に応じた新平価(100円=$40前後)で復帰すべきとの意見もあったが、これは円の切り下げであって「国辱」であるという見方から、旧平価(同$49.875)での復帰を望む意見が大勢を占めた。為替政策上も、金利の調整や正貨現送の調整で為替を誘導したり、経済政策を経て間接的に誘導する(加藤高明内閣浜口雄幸蔵相の緊縮財政)政策がとられた。しかし、高い為替レートを志向して緊縮財政が採られ、また、円が高く維持された事から輸出が振るわず、物価が下落し、日本国内の景気は悪化した。
[編集] 政界
大正期中期には憲政会と立憲政友会の2大政党があり、後に成立した革新倶楽部を加えて護憲三派と言われた。1922年に立憲政友会の高橋是清が計画した内閣改造の内容を巡って内部で分裂が生じ、政権獲得を優先する床次竹二郎等が1924年に成立した清浦内閣を支持して、立憲政友会を脱党して政友本党をうちたてた。このとき政友本党は最多数となって第一党となったが、超然内閣を支持したことから総選挙で敗北して議席を減らし、一方で立憲政友会は勢いを盛り返した。その後、憲政会と立憲政友会の対立、立憲政友会と革新倶楽部の合同によって護憲三派が解体されて憲政会単独政権となると、政友会と政友本党の間で和解の動きが現れ、特に朴烈事件を機にその傾向に拍車がかかった。1926年末には後藤新平の斡旋で立憲政友会と政友本党の提携が成立したが、1927年2月に一転、立憲政友会の政権獲得阻止を図って憲政党と政友本党の提携(憲本提携)が秘密裏に成り、立憲政友会は孤立した。
[編集] 財界との結びつき
憲政会には三菱出身の者が参加し、一方で立憲政友会は三井と縁が深く、三井物産の出身者も参加していた。この点から、特に立憲政友会が震災関連二法を攻撃する事について、競合する鈴木商店を実質的に救済する法律阻止を狙った、とする見方がある。また、震災手形の実態が鈴木商店絡みであると把握した財界関係者が、与党憲政会を攻撃する材料として立憲政友会に情報を流したという俗説がある。
[編集] 護憲派
憲政会と立憲政友会は、共に護憲派であり、その他の政党のものと比較すれば、その政策・主張は相似していた。第二次護憲運動で普通選挙を実現するまでは一致して協力したが、その目的が達せられると、大きな論点を失い、しかし政権獲得の為には自党の主張を盛り立てて支持を集めねばならず、却って対立するといわれる。更に、陸軍から政界に転じた田中義一が政友会総裁に就いたことから、田中に近い鈴木喜三郎や久原房之助なども入党したが、彼らは親軍派・国粋主義者に近く、護憲派に対する反感を抱いていた。総裁の権限が強い政友会において田中とその周辺が党の実権を握るようになると、党内の要職は徐々に護憲派から親軍派に取って代わられるようになっていった。
[編集] 対立
当時は政党政治における憲政の常道として「内閣が失政によって倒れた時は、次に野党第一党が内閣を担当する」政権交代が慣習として行われていた、ここから、野党に立った側は現在の与党の失政を衝き政権から追い落として、次の政権を獲得することを動機の一つとして与党攻撃に回る。
[編集] 政策
また、2党の政策も異なった。憲政会は穏健乃至協調外交政策を取り、経済的にも海外との交易を重視した。その基本となる金本位制への復帰(金解禁)を目指し、それを実現するために緊縮財政を志向した。一方、立憲政友会は積極外交政策を取り、中国東北部の権益を護る為に軍事予算の増強を中心とした積極財政を志向した。また、軍事費確保の為に借款を行う必要から金解禁には反対の立場を取った。
[編集] 軍縮
1921年より開催されたワシントン会議にて、軍艦の保有を制限する軍縮条約が結ばれた。これにより、海軍の装備が削減され、特に造船分野では新造の需要が無くなった。これに対し、政府からは造船企業に対して一定の補償金が支払われたが、海軍が最も多額の取引を行っていた鈴木商店は、取引額を減じてダメージを被った。また、鈴木商店傘下の神戸製鋼も受注を減らした。
[編集] 直前の状況
[編集] 片岡蔵相の思惑
急逝した前蔵相を襲って1925年9月に蔵相となった片岡直温は早期金解禁論者として知られ、予てより問題となっていた銀行法改正、不良債権の解消、そして、その多くを抱えた台湾銀行の整理を行い、早期の金解禁の実現に意欲的に取り組んだ。具体的には1927年夏頃の金解禁を企図していたと後に証言している。
片岡は震災手形関係二法を議会に上程するに際して予め野党立憲政友会の田中義一総裁と秘密裏に交渉し、協力をとりつけるなど注意を払っていた。但し、田中は立憲政友会生え抜きではなく、党内の有力者をまとめきれなかった。
[編集] 大蔵省
銀行法の改正の準備を行っていた。また、経営の危うい銀行を整理統合すべく、経営者に聴取を行っていた。東京渡辺銀行もその一つで、合わせて4行を合併させて新銀行に編成しなおす事が計画されていた。この過程で東京渡辺銀行の内情が悪い様も大蔵省は把握しており、3月14日に専務が登庁したことについて、予断を与えたとも言われる。
[編集] 疑獄
1926年に朴烈事件、ならびに松島遊郭事件の騒動が起きた。朴烈事件では予審中の男女被疑者が抱き合う写真が公開され世論が騒然となり、司法大臣江木翼が暴漢によって汚物を投げつけられる事件もおきた。若槻内閣転覆を図った北一輝らの陰謀によるといわれる。一方、松島遊郭事件では、遊郭の移転を巡って不動産業者から政治家に運動費が渡されたという疑惑が持ち上がり、現職の総理大臣若槻が予審審問を受け、また、偽証罪で告発されるなど、前代未聞の事態となった。
[編集] 国際情勢
中国大陸では、1926年7月から蒋介石ら国民党による北伐が行われ、日本が権益を持っていた満州が脅かされつつあった。これに対し、与党憲政党の若槻内閣は穏健政策を取り目立った対応を取らなかった。これは、枢密院の反感を買い、後に若槻内閣が勅令発布を諮った際に拒絶する原因の一つとなった。
[編集] 第52回帝国議会
1926年12月24日に召集され、翌25日に大正天皇が崩御し、昭和天皇が践祚して昭和に改元した。
議会は26日に開会し、明けて昭和2年(1927年)、政界では前年の朴烈事件ならびに松島遊郭事件を巡り混乱が続いていた。
一方、経済状況としては円高・物価下落の不況下にあり、また、1920年の大反動時に生じた不良債権が震災手形に姿を変えて、なお、くすぶり続けていた。同時に、震災手形が本来の機能を果たさず実は特定政商[4]の救済・延命に用いられていると見る向きからは批判があり、それを許容してきた政府に対しても批判があった。殊に鈴木商店の放漫経営へ多く貸し付けたものが焦げ付いた台湾銀行が多くの震災手形を抱えているとの憶測がなされ非難の目が向けられたし、他にも同様に震災手形を抱え込んだ銀行の経営状況が危ぶまれていた。
[編集] 政争から融和
政府はこれらの震災手形の処理を急ぎ、早期の金解禁を実現する方針をとった。しかし、政府を批判する立憲政友会は朴烈事件ならびに松島遊郭事件の非を鳴らして若槻内閣弾劾上奏案を提出し対決姿勢を明らかにした。
与党憲政会の若槻首相は立憲政友会田中義一と政友本党床次竹二郎を待合に招き、暗に閉会後の退陣[5]を条件として今後の政権運営について合意[6]を取り付けた(三党首会談) 加えて、片岡が田中に直談判[7]して協力を取り付けるなど条件を整えた上で、1月26日に、来る9月30日が期日となる震災手形を全額処理する為に国債を発行し、10年かけて償還する震災手形関係二法を議会に上程した。当初は立憲政友会も審議に応じ3月4日に衆議院で可決成立を見て貴族院に回付された。
だが、その裏では、三党首会談で若槻が政敵と妥協し、あまつさえ禅譲を約した事を快く思わない憲政党の有志が中心となって政権維持を図り、政友本党に接近して2月26日に提携がなった(憲本提携、または憲本連盟、憲本合同とも)。合同して事実上の新党となって、次の組閣の大命を受ける事を意図し、仮にそれが適わないまでも多数を占める政友本党が政権を取る様に図り、立憲政友会へ政権が移る事を阻止するためであった。当然秘密を保つべきものであったが、憲政党幹部の不注意から、この提携の存在が漏洩した。
[編集] 三月の恐慌
3月始めに、憲本提携が暴露され、その目的が政権維持にあると判る[8]と、立憲政友会は態度を硬化させた。田中は人を介して片岡に以後の協力が出来ない旨を伝え、爾後立憲政友会は震災手形関係二法を政争の具として攻撃にまわった[9]。
[編集] 政争再燃
憲政党は当初、震災手形の目的を飽くまでも金融の安全を図るためと説明したが、立憲政友会は、予てより震災手形に関わる日銀特融が実質的には特定の政商[10]の救済策として用いられているという疑惑を指摘し、これを「政財の癒着」と攻撃して不良債権の具体的内容と金額を示す事を要求した。そして、本法案の目的の実際が鈴木商店への多額の貸し出しを焦げ付かせた台湾銀行の救済にある旨を明らかにする様に迫った。
[編集] 不安醸成
早期の法案成立を目指す与党憲政党は震災手形の内情について少しずつ明らかにし、後には貴族院において秘密懇談会を開いて具体的な内容と法案の真意を野党側に伝えて法案成立への協力を求めたが、この内情が報道機関に伝わり国民の知るところとなった。予てより震災手形の内容について、台湾銀行が多くの震災手形を持つこと、そして台湾銀行と鈴木商店の癒着ぶりが巷間でも噂されていたが、これが真実と分かり、且つ具体的な不良手形の額として、震災手形2億円強のうち台湾銀行が約1億円で、その7割を鈴木商店関連のものが占めている事が明らかとなり経済的危機が一層の真実味をもって受け取られ、円高による景気低迷と相俟って不安は一層ました。
[編集] 1927年3月14日
いわゆる「片岡失言」の為された当日の状況である。
[編集] 陳情
衆議院予算委員会にて審議の始まる直前、当日の決済のための資金繰りに困り果てた東京渡辺銀行の専務等が午後1時半頃に大蔵次官に陳情し、何らかの救済の手当てがなされなければ、本日にも休業を発表せざるを得ないと説明した。次官は対応を片岡蔵相に相談すべく議場に赴いたが審議中で直接会えず、事情を書面に認めて片岡に言付けた。一方で東京渡辺銀行は大蔵省からの助力を得る見込みが立たなかったので改めて金策に走り、別途資金の手当てに成功して当日の決済を無事に済ませた。その旨を大蔵省にも伝えたが、この事は直ぐには次官に伝わらなかった。尚、専務は救済を求める意図で次官に陳情したが、大蔵省の側では休業の報告に来たものと理解していたという[11]。
[編集] 失言
予算委員会では、野党が震災手形処理方法も絡めて苦境に陥っている銀行の処理策を問い質し、震災手形を抱える不良銀行や業績の悪い企業の名を明らかにするように求めた。これに対し、個々の企業の状況を明かすことは信用不安に繋がると危惧した片岡蔵相は、次官から差し入れられた書面にあった東京渡辺銀行支払停止[12]の情報を交え、破綻した銀行については財産を整理して引受先を見つけて統合する手続きを大臣の責任において着実に行う旨の回答にとどめたが、その中で直近の破綻銀行を例示するにあたり「....現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました、是も洵(まこと)に遺憾千万に存じますが....」と発言した。
ここで敢えて具体的に破綻銀行の事例について触れたのは、徒に原理原則論をもって審議を長引かせる事は、対応を遅らせて斯様に銀行を破綻に追いやり状態を悪化させる結果になる、という牽制の意図から出たという指摘がある。
[編集] 休業
片岡蔵相の発言は直ちに新聞社に伝わり翌日の記事に纏められた。また、事情を直接伝え聞いた預金者が終業間際の東京渡辺銀行に殺到し、取り付け騒ぎが起こった。一方で、次官が議場から大蔵省に戻って東京渡辺銀行の金策がついた事を報らされ、同行に架電して平常通り営業を続けている事を確認したが、最早報道を差し止める事は出来なかった。翻って「破綻を宣告」された東京渡辺銀行の専務は、蔵相官邸に赴いて、片岡の発言が間違いないと確認すると笑みを浮かべたという[13]が、異説には、その専務の人柄から言ってそれはありえないとも言われるし、片岡蔵相もそれには疑問を抱いている。いずれにせよ、東京渡辺銀行の首脳陣は同夜に姉妹行のあかぢ貯蓄銀行共々翌日から休業することを決定した。依然危機的経営状況を脱しておらず、いずれ休業は避けられないところであり、蔵相の失言に託けて休業し、その責任を転嫁したのだと受け取られている。
[編集] 処理
直後より「いまだ経営している銀行について破綻を宣告し、混乱を招いた」事について、報道は片岡の発言を「失言」と取り上げ、野党も「休業するつもりの銀行が金策に走るのは不自然」等と「失言」で銀行を破綻に追い込んだと攻撃した。しかし、片岡は飽くまでも「14日に渡辺銀行が休業の報告に来た」のだとする態度を貫き、後にこれを裏付ける同行専務直筆の顛末書を示して事態の収集を図った。尚、この直筆の顛末書についても、事後に専務が書かされたのではないかという指摘もあるが、専務は何も語っていない。
[編集] 影響
一定の規模を持った東京渡辺銀行が突如休業したことが新聞で伝えられると金融不安が広まり、関東を中心に取り付け騒ぎが起こった。当初は震災手形を多く所有していると目された銀行が取り付けに遭い、次第に関西にも飛び火して、中井銀行、左右田銀行、八十四銀行、中沢銀行、村井銀行が休業を余儀なくされた。これに対し、日銀が21日より非常貸出を実施して沈静化に勤めた。一方で、野党側は蔵相の責任を問い、国会は紛糾して乱闘騒ぎにまで発展するが、法案自体は「台湾銀行の整理」という付帯決議をつけて23日に貴族院を通過し事態は沈静化した。そして、26日に帝国議会は閉会した。
[編集] 四月の恐慌
3月の取り付け騒ぎは収まったものの、依然台湾銀行が多くの震災手形を抱え、その他にも経営が危うい銀行が多い事には変わりが無かった。
台湾銀行は予てより鈴木商店に多額の貸付を行っており、1920年の大反動で鈴木商店の経営が悪化した際に不良債権と化した。震災手形の形で当座の資金を獲得する事に成功したがその返済は滞った。とは言え、政府の責任で設立された特殊銀行であり、これが破綻する事は日本政府の対外的な信用にもかかわる重大問題となるから、まず破綻させることはありえない、というのが大方の見方であり、鈴木商店を取り仕切った金子も、そう読んで台湾銀行と鈴木商店との間に深い関係を築き上げたとも言われる。
しかし、国会審議で台湾銀行が未決済の震災手形の約半分(1億円)を抱え、また、鈴木商店への貸し出しが多額であることが明らかになると、台湾銀行の経営に対する不安が拡大し、コール資金が引き上げられ、資金繰りが悪化した。一方で鈴木商店からも資金が引き上げられ、これを補う資金の融通を台湾銀行に求めたことから、更に同行の経営は圧迫された。
[編集] 絶縁
台湾銀行は3月26日に已む無く鈴木商店との絶縁を決意し、27日に以後新規の融資をしない、と伝えた。台湾銀行が絶縁に踏み切ったのは、政府から救済の意図が内内にしめされたからだとも言われる。殊に議会の討論の中に「鈴木商店を倒産させても台湾銀行は維持する」と仄めかすものがあったことを根拠としたという。しかし、この情報が4月1日に報道されると、預金者に動揺が走り取り付け騒ぎが起き、4月5日に鈴木商店は新規取引の停止を発表し、事実上休業した。
[編集] 勅令否決
政府は日本銀行に対して、台湾銀行への特融を行う様に促した。日銀は、それまでの銀行救済に際して都度特融に応じてきたが、台湾銀行については規模が大きいこともあり、補償の裏づけのある法律に拠らなければ融通は出来ないとした。既に帝国議会は閉会していたので、政府は法律に代えて勅令発布を諮ったが、枢密院は憲法上の解釈として「議会を召集して、ここで対応すべき」との理由を示し17日に否決した。この動きには幣原喜重郎外務大臣の外交政策に強い反感を抱く伊東巳代治・平沼騏一郎と言った有力な枢密顧問官らが立憲政友会と通じて倒閣に動いた陰謀があった。この責任をとる形で若槻内閣は4月20日に総辞職[14]し、組閣の大命が立憲政友会の田中義一に下った。
[編集] 台湾銀行・近江銀行休業
台湾銀行は17日に、休業を発表した。特殊銀行であり政府が何らかの救済を行うと見られていたところが結局休業してしまったことで大きな動揺がおきた。加えて大阪の有力行である近江銀行も同じ日に休業を発表した。大手銀行が2行、一度に休業したことで動揺が走り、取り付け騒ぎは拡大した。
[編集] 十五銀行休業
21日には十五銀行が休業した、宮内省からの出資を仰ぎ、また、宮内省の会計を担当する御用銀行として「ここが休業するくらいなら他の銀行もとうに休業している」といわれる程に高い信用を得ていた。しかし、内情は松方系企業への多くの融資あり、これが焦げ付いたことから休業に至った。信用が置かれていた銀行が休業に至った事で、混乱は全国に広がった。
[編集] 現金払底
一連の混乱の中で日銀は非常貸出を続けて現金の供給に努めたが、貸し出し規模が前代未聞の額にのぼり、遂に紙幣の在庫が底をつきかける事態に追い込まれた。劣化して使用に耐えられないとして回収した紙幣までも放出したが、尚不足した.
[編集] 収束
組閣の大命をうけた立憲政友会総裁の田中義一は、高橋是清を蔵相に任命して21日に組閣し、金融恐慌の解決を図った。
[編集] モラトリアム発令
高橋は、全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施すべく勅令の発布を枢密院に諮問し、枢密院も憲法解釈を変えて今次は勅令を発布した。また、モラトリアム発布・施行までの手続きに要する2日間、4月22日(金)と23日(土)について銀行に対し一斉休業を要請し、銀行側は応じた。
[編集] 現金供給
同時に、現金の供給に全力を尽くし、片面だけ印刷し、裏が白い急造の200円札[15]の様式を急遽制定して500万枚以上刷らせ、銀行休業日にとどまらず日曜日である24日にも銀行に届けた。銀行は、潤沢に供給された現金を店頭に積み、支払いに滞りが生じない事をアピールした。25日から500円以上の支払いを猶予するモラトリアムを施行して銀行を開き、取り付けに来た人は店頭に積まれた現金を見て安心したという。加えて、3週間のモラトリアム期間が終了する5月12日までに追加の200円券[16]を750万枚追加し、モラトリアム終了後も混乱無く金融恐慌を沈静化させた。
[編集] 事後処理
[編集] 休業銀行
休業した銀行は、そのまま他の銀行に救済合併されるものと、整理後に営業を再開したものとがあったが、預金の額は削減された。
[編集] 評価
[編集] 性質
一般的な恐慌に対して、個人(預金者)の金融に対する不安から取り付け騒ぎが起きたが、産業そのものが壊滅には至らなかった点が特異であると言われる。
[編集] 比較
前述の様に金融システムの不備と、危機への対処を誤った点でバブル景気との類似点を挙げることがある。
[編集] 影響
この取り付け騒ぎに国民は小さな銀行に預金を預けていては危ないと考え、財閥系などの大銀行に対して預金を預けるようになった。そのため、大銀行(特に三井、三菱、住友、安田、第一=これらは五大銀行とも呼ばれる)に預金が集中するようになり、財閥の力はさらに強大化した。
経済的混乱をうけて金解禁は延期された。
政界では、憲本提携から6月に本格的に立憲民政党が発足した。
[編集] 参考文献
- 塩田潮『バブル興亡史 昭和経済恐慌からのメッセージ』(日経ビジネス人文庫、2001年) ISBN 4-532-19070-3 ( 2007年9月現在 絶版 )
- 大阪朝日新聞経済部 編『昭和金融恐慌秘話』(朝日文庫、1999年) ISBN 4-02-261249-5 ( 2007年9月現在 絶版 )
- 高橋亀吉、森垣淑『昭和金融恐慌史』(講談社学術文庫、1993年) ISBN 4-06-159066-9 - 背景から事後の影響まで全般に網羅している
- 佐高信『失言恐慌 ドキュメント銀行崩壊』(角川文庫、2004年) ISBN 4-04-377501-6 - 東京渡辺銀行関係者の視点からの記述も多い
- 現代日本経済史 7 武田晴人 - 政治的視点からの記述がある
- 大正法制史序説 中村 吉三郎 - 大正期を概観
- 昭和法制史稿 -昭和13年「国家総動員法の制定まで」中村 吉三郎 - 前後も含めて概観
- 神戸大学新聞記事文庫 - 著作権の切れた新聞記事をデータベース化したもの。
- 新聞記事文庫 切抜帳一覧 - 上記を分野別に整理したもの。
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- 震災手形関連
- 手形(貨幣及金融) 第3巻 - 手形に関する記事を集めたもの。1922年1月~1926年8月。
- 3月の恐慌 - 震災手形整理
- 手形(貨幣及金融) 第4巻 - 手形に関する記事を集めたもの。1926年9月~1930年4月。
- 3月の恐慌 - 失言の後
- 『片岡蔵相の失言から東京渡辺銀行が不安に陥る』 1927年3月15日付 大阪朝日新聞 -「失言」翌日の状況。片岡蔵相の主張が見える。
- 『問題を起した蔵相 渡辺銀行に関する失言 遂に政治問題と化す』1927年3月16日付 大阪朝日新聞 - 東京渡辺銀行側の当日の事情が見える。
- 『二通の顛末書 田次官から発表』1927年3月17日付 大阪朝日新聞 - 3月14日当日の状況について次官が認めた顛末書の内容が見える。
- 『渡辺銀行の休業 自発的の休業か? 渡辺専務の発表と竹内常務の言葉は矛盾する』1927年3月16日付 大阪朝日新聞 - 蔵相と専務の発言の矛盾を指摘している。
- 『破綻せぬ銀行を破綻したと声明 片岡蔵相口をすべらす』1927年3月15日付 大阪毎日新聞 - 片岡蔵相の主張と、大蔵次官が差し入れたメモの内容が見える。
- 後世から回顧する
- 『金融恐慌後十年 (上)』1937年4月25日付 大阪毎日新聞 - 恐慌の10年後に事件を回顧する。データベースには(下)も併せて掲載されている。
[編集] 備考
- ^ 殊、士族は商いを蔑視し金勘定をさげすんだ。
- ^ 1890年制定の銀行条例では「第五条 一人又は一会社に対し資本金高の十分の一を超過する金額を貸付又は割引の為に使用することを得ず」と規定されていたが、銀行の強い反対を受けて1895年に撤廃された。
- ^ 後の分析では、1920年の大反動が真の戦後不況と考えられている。
- ^ 特定政商としては、具体的に鈴木商店を念頭においていたと言われる。
- ^ 合意文書の中に盛り込まれた「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」が若槻内閣の退陣と、立憲政友会への禅譲を表していると言われる。
- ^ 尚、当時の制度では会期中に予算案の成立を見なかった場合には、前年の予算と同額で執行する事になっていた。これは予算の硬直化に繋がり、殊に積極財政を志向する立憲政友会にとっては、次に政権を獲得した際に不自由な政権運営を強いられる事から受け入れ難く、予算案を通すために妥協を迫られた。
- ^ 法案上程の4~5日前と言われる
- ^ 先の三党首会談では立憲政友会に政権を譲ると合意していたにも関わらず斯様な策を弄するのは立憲政友会にとって許しがたい行為と映った。一方で憲政会側は禅譲の合意などしていないとシラをきった。
- ^ 具体的に震災手形の内情を把握し、その情報を流して攻撃材料を提供したのは財界であると言われる。
- ^ 実質的に鈴木商店を指す
- ^ 実際に次官は銀行休業の善後策につき東京渡辺銀行の専務に担当官を紹介している。
- ^ 正午に支払いを停止した旨と、預金残高等の情報が書面に記載されていた。
- ^ 具体的には「喜色満面であった」というが、これを伝えたのは大蔵官吏の一人であり、他には類似の伝聞は無いと言われる。
- ^ 枢密院と内閣が対立した場合には、必ずしも内閣が辞職をする必要は無い。しかし、若槻は最早混乱収拾の手立てを見出せないとして辞職を選択した。
- ^ 乙二百円券 裏が白いところから俗にウラシロと呼ばれた。一部は実際に預金者に支払われたが、裏面の印刷が無く、作りも粗悪であったこと、そして、当該銀行券の発行が警察当局に周知されていなかった事から市中で行使しようとしたところ贋札と疑われ、贋札行使の罪で逮捕された事例も伝えられる。この札は事後に日本銀行が回収につとめ、市中にはほとんど残っていない。尚、同時に裏が白い急増の50円札も刷られたが、こちらは使用されなかった。
- ^ 丙二百円券 裏に赤の紋様が刷られ、俗にウラアカと呼ばれた。これは預金者に渡らずにそのまま回収、日本銀行に保管され、昭和20年8月16日以後に使用に供された。
[編集] 外部リンク
- 「貨幣に見る近代日本金融史」 3-3 昭和2年金融恐慌 - 日本銀行金融研究所 貨幣博物館内『金融研究』巻頭エッセイ、片面印刷の乙二百円券(ウラシロ)と、使用されなかった片面印刷の五十円券のイメージがある
- 貨幣の散歩道 第51話 金融恐慌と裏白紙幣 - 日本銀行金融研究所貨幣博物館内 貨幣玉手箱