伊東巳代治
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伊東 巳代治(いとう みよじ、1857年5月29日(安政4年5月7日) - 1934年(昭和9年)2月19日)は、明治、大正、昭和期の官僚、政治家。従二位勲一等伯爵。長崎県出身。
[編集] 経歴
早くから英語を修め語学を修得。兵庫県訳官を経て明治4年(1871年)に上京、伊藤博文の知遇を得て明治政府の工部省に出仕。
1882年(明治15年)に欧州憲法調査に随行、帰国後伊藤の秘書官として井上毅、金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画。1889年(明治22年)に首相秘書官、1890年(明治23年)貴族院議員に勅選され、1892年(明治25年)第2次伊藤内閣の内閣書記官長、枢密院書記官長、1898年(明治31年)第3次伊藤内閣の農商務大臣等の要職を務め、政党工作に力を振るった。
また、1891年(明治24年)には、経営が傾いた東京日日新聞(現在の毎日新聞)を買収、在官のまま第3代社長を勤め、日清戦争から日露戦争にいたるまでの日本の政治・外交において、政府擁護の論陣を張った。1904年(明治37年)、加藤高明に売却するまで13年間社長を務めている。
日清戦争以降は山縣有朋の知遇をも得て、1899年(明治32年)枢密顧問官となり枢密院でも大きな影響力をもった。1900年(明治33年)伊藤の立憲政友会結成に際してその準備過程には参加しながら入党せず、政党外部に身を置きつつ気脈を通じてしばしば政界の表面に登場し、「憲法の番人」を自任して官僚勢力のために種々の画策を講じ、枢密院の重鎮として昭和初期まで政界に影響力を保った。
1917年(大正6年)に臨時外交調査委員となり重要な対外政策の決定に関与し、常に積極的な対外策を主張した。協調外交を進める憲政会・立憲民政党内閣、幣原外交に批判的で、1927年(昭和2年)枢密院で台湾銀行救済緊急勅令案を否決させ若槻禮次郎内閣を総辞職に追い込み、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約締結時には浜口雄幸内閣を苦しめた。
帝室制度審議会総裁なども務め、1907年(明治40年)に子爵を授爵、1922年(大正11年)に伯爵に陞爵。明治天皇の母方のいとこでもある。
[編集] 著作
- 伊東巳代治日記・記録 : 未刊翠雨荘日記 : 憲政史編纂会旧蔵:全7巻(書籍情報:ISBN 4-89714-752-2)
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