昭和恐慌
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昭和恐慌(しょうわきょうこう)とは、世界恐慌の影響を受けて1930年に発生した恐慌である。戦前に日本で起こった恐慌の中で最も深刻なものであった。
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[編集] 背景
第一次世界大戦中は大戦景気に湧いた日本であったが、戦後欧州の製品がアジア市場に戻ってくると、戦後恐慌が発生し、関東大震災後それはいっそう悪化した(震災恐慌)。
以後も、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した昭和金融恐慌(1927年)に代表されるように、日本経済は慢性的な不況が続き、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。このような状況下で成立した立憲民政党の浜口雄幸内閣は、日本製品の国際競争力を高めるために産業合理化政策を進め、中小企業の多くが倒れることとなった。また、井上準之助蔵相は徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金解禁を行うことによって為替の安定を図ろうとした。
[編集] 恐慌の発生
緊縮財政によって約3億円の正貨が準備され、日本は1930年1月に金解禁を行った。しかし、前年の11月にアメリカ合衆国のニューヨーク・ウォール街で起こった株価の大暴落による恐慌は既に世界中に波及しており(世界恐慌)、日本の金解禁はその影響をまともに受けることになってしまった。しかし、金禁輸前の旧平価での解禁であったため、実質的には円の切り上げとなり、井上蔵相の狙いとは裏腹に輸出は激減した。更に正貨は海外へ大量に流出し、解禁後僅か2ヶ月で約1億5000万円もの正貨が流出した。1930年3月には株式・商品市場が暴落し、生糸、鉄鋼、農産物等の物価は急激に低下した。また、中小企業の倒産が相次ぎ、失業者が街に溢れた。当時現在よりも遥かに価値が高かったはずの大学・専門学校卒業生のうち3分の1が職がない状態であった。 都市にも大きな打撃を与えた恐慌であったが、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。生糸の対米輸出が激減したことに加え、デフレに豊作が重なり米価が激しく下落したことで農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、「米」と「繭」の二本柱で成り立っていた農村は、その両方が倒れることとなり、困窮のあまり欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった。
[編集] 日本政府の対策
浜口雄幸首相が、ロンドン海軍軍縮条約調印に伴う統帥権干犯問題により右翼に狙撃され、内閣が倒れると、同じく立憲民政党から第二次若槻礼次郎内閣が成立したが、有効な対策を講じることができないまま早々と倒れ、立憲政友会から犬養毅内閣が成立した。犬養内閣の高橋是清蔵相は、ただちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行した。高橋蔵相は民政党政権が行ってきたデフレーション政策を180°転換し、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った(この政策には軍拡的な政策も含まれていたが、景況改善後の資源配分転換と国際協調の流れに併せた機動的軍縮を、肥大化した軍部に阻まれる。以後も満州事変・日中戦争の最中にあった軍部の発言力が増していくことになる)。金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増に伴い景気も急速に回復し、1933年には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準を回復した。
[編集] 影響
日本は円安を利用して輸出を急増させたが、米英などからは「ソーシャル・ダンピング」だと批判を受けた。米英仏など、多くの植民地を持つ国は、日本に対抗するため、自らの植民地圏でブロック経済を構築した(英:スターリング・ポンド・ブロック、米:ドル・ブロック、仏:フラン・ブロック)。ブロック経済化が進むと、一転して窮地に立たされた日本もこれらに対抗することを余儀なくされ、日満支円ブロック構築を目指して大陸進出を加速させることとなる。日本と同じ後発資本主義国であり、植民地に乏しいドイツ・イタリアも自国通貨の勢力拡大を目指して膨張政策へと転じた。こうした「持てる国」と「持たざる国」との二極化は第二次世界大戦勃発の遠因となった。
昭和恐慌として特筆されるのは、当時世界恐慌に見舞われた他の資本主義国と違って実質国民総生産や工業生産高はほとんど減少せず、先の金融恐慌の処理で信用不安の問題が殆ど解決されていたことなど、恐慌とともに起きる筈の経済現象が世界恐慌の波及時には殆ど起こらなかったことである。その代わり、農産物の価格低下、労働者賃金の低下、内需不振によるデフレは深刻なものとなった。国家や財閥は海外に目を向けることで打撃を最小限としたが、その分農民や労働者など国内の問題については積極的な対策を打ち出された訳ではない。こうした政府と一般の感覚のズレが満州事変や昭和維新に対する国民の共感を得る一因となっていった。