昭和維新
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昭和維新(しょうわいしん)とは、昭和初期の日本で起こった国家革新の標語。
[編集] 概要
大正末期から昭和初期、国内政治の停滞、国際社会の不安定化などから、軍部の急進派や憂国団体を中心に明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を誤っている(と彼らには見えた)側近達への憎しみも凄まじい。代表的な事柄としては五・一五事件、二・二六事件が挙げられる。
『昭和維新実現』を唱えて数々の事件が起こされたが、そのどれもが『昭和維新実現』のための『討伐』であったり『天誅』であったりで、「彼を暗殺してからどうするのか、その後誰が何をするのか」という部分においては甚だ具体性に欠けるのが特徴である。日本の政治システムを4日間に渡り空白に陥れた二・二六事件でさえ、実行者達は、皇居を占領し天皇に親政を迫る以降の計画を持っていなかった(事件の黒幕の1人とされる真崎甚三郎に新国家の指導者として期待していた者もいたが、彼が動かなかったことで梯子を外された格好となった)。
数々の事件の実行者達は皆「吾は維新回天の捨て石にならん」と唱えるのみで、次に誰が何をどう築き上げるのかは思想の中にのみ、という…見方によっては無責任ともいえる態度であった。結局のところ、連続殺人テロだけが繰り返されたともいえる。
戦後においては「右からの変革」を主張する民族派の右翼の基本路線でありスローガンとなった。
[編集] 思想性
その苛烈な行動性とは裏腹に、思想自体は不可思議さを感じさせるほどの進歩性がある。二・二六事件における精神的指導者である北一輝の著した『日本改造法案大綱』は、男女平等・男女政治参画・華族制度廃止・所得累進課税の強調あるいは私有財産制限・大資本国有化・皇室財産削減など、まるで社会主義者の主張と見間違うほどの政策が並んでいる。また、この事件の主犯である磯部浅一によれば、日本の国体を「天皇の独裁国家ではなく天皇を中心とした近代的民主国家」と定義でき、「現在は天皇の取り巻きによる独裁状態にある」とする。
北や磯部が実際に思い描いていた「天皇親政」とは、天皇の元に権力が一元化される、すなわち天皇の元に議会があり、議会から内閣が発生する、と解釈することが出来る。磯部は「天皇の取り巻きである重臣や軍閥、政党や財閥などが独裁を行っている」と言っていることから、彼らから権力を取り上げ、国民の手に権力を戻すことが必要と考えていたと考えられる。彼らの思想には国家社会主義に加え、反特権階級・反財閥・果ては共産主義や日蓮宗の思想までもが混然としているとされる。
二・二六事件の鎮圧を契機に彼らの思想は否定され、戦争へ突き進むが、この思想の大部分は敗戦後、GHQの指導の元に達成されることになる。