金子直吉
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金子 直吉(かねこ なおきち、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は日本の実業家。丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として、大正時代には三井財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ、財界のナポレオンともいわれた[1]。
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[編集] 略歴
慶応2年(1866年)、現在の高知県吾川郡仁淀川町で商家の子としてに生まれる。一家は直吉の幼少期に現在の高知市に移り住む。10歳頃から紙くず拾いや砂糖店や乾物屋、質屋への丁稚奉公へ出た。明治19年(1886年)、20歳で神戸の砂糖問屋、鈴木商店に入る。鈴木商店はすでに神戸八大貿易商の一つに数えられるようになっていた。明治27年(1894年)に当主の鈴木岩次郎が死去すると、未亡人の鈴木よねが金子と柳田富士松の両番頭に委任し、事業を継続する。その直後、金子は樟脳の取引で損失を出すが、鈴木よねはそのままの体制で経営を続ける。
[編集] 世界的企業への舵取り
明治32年(1899年)、金子は当時台湾総督の後藤新平と交渉し、専売制を目論んでいた後藤と通じ、台湾樟脳油の販売権のうち65%を獲得。虫除けの必需品で、欧米にも輸入し大きな利益を上げた。明治35年(1902年)に鈴木商店が鈴木合名に改組されたときには、社員(出資者の意味)に加えられた。明治36年(1903年)に住友樟脳製造所を買収。福岡県に大里製糖所を設立した。明治38年(1905年)、神戸製鋼所の前身の小林製鋼所を買収、大正4年(1915年)には米沢の織物工場を買収し人造絹糸の事業を始める(のちの帝人)。
大正3年(1914年)、第一次世界大戦が始まると、世界中で投機的な買い付けを行う。金子同年11月に当時ロンドン支店長の高畑誠一に宛て『BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE.』と電報を打ったという[2]。国内は鉄不足であったが、アメリカ向けに完成した船と引換に鉄で支払いを受けるとの交渉をまとめ大きな利益を得た。この利益で多くの企業を系列傘下に収め、工場を増やし、海外にも支店網を広げて、鈴木商店を一大コンツェルンに築きあげた。これらの事業拡大の資金を提供していたのは台湾銀行であった。
貿易を日本人の手にという情熱が初期の金子の原動力となっていたが、後に、その情熱は日本国内の三井、三菱という既成財閥に向かう。大正6年(1917年)11月に高畑に宛て書いた手紙では『戦乱の変遷を利用し大儲けを為し三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、是鈴木商店全員の理想とする所也、小生、是が為生命を五年や十年縮小するもさらに厭うところに非ず』と記している[3]。
[編集] 時勢の急変、暗転へ
大正7年(1918年)7月23日から始まった米騒動の際は、米を買い占めているというデマが原因で、鈴木商店の焼打ちに発展する。この時、金子の首に10万円の賞金が掛けられたといわれている(鈴木商店焼打ちをテーマにした小説が城山三郎『鼠』)。この際に、金子は外国産米を輸入しようと奔走しており、まさに濡れ衣であったが、一切の弁明を行わなかった。しかし、この態度が一層の誤解を生む原因ともなった。
第一次世界大戦後の反動で株価、工業製品価格、船舶運賃がのきなみ下落。ワシントン軍縮会議の影響で日本海軍の艦船の建造が中止された影響も受けた。株式を上場せずに銀行からの借り入れのみで、運転資金をまかなっていた鈴木商店は大きな打撃を受ける。鈴木商店の資本金1億3000万円に対し、借入金が10億円を超えていた。
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生すると、政府は震災手形割引損失補償令を公布。これは震災前に銀行が割り引いた手形のうち、決済不能になった損失を日本銀行が補填するというものであった。この制度成立には、金子から政治家への働きかけがあったといわれている。鈴木商店と台湾銀行はこの制度を利用し、損失の穴埋めを行う。政府も黙認の態度をとっていた。
昭和2年(1927年)3月、金融恐慌が起こると、台湾銀行は、鈴木商店への新規融資を打ち切りを通告。三井物産や三菱商事のように系列銀行を持たなかったため資金調達が不能となり、4月5日、鈴木商店は事業停止・清算に追い込まれた。
高畑誠一らは鈴木商店の商社部門を引継ぎ日本商業(のち日商)として再出発したが、金子は高畑らとは別に、主家である鈴木家の再興を図って昭和6年(1931年)に太陽曹達の取締役に就任。後に太陽産業と名称を変えて、一時は神戸製鋼所などの20社以上を系列に持つなどした。台湾銀行の担保に取られていた帝人株を買戻したが、これに関連した汚職の疑惑が持ち上がった(帝人事件)。晩年まで北海道や南洋での開発事業を進めようとしていた。
[編集] 評価
金子自身は私財を蓄えることはなく、鈴木商店全盛時も借家住まいであり、常に数人の書生に学費を援助し、亡くなったときにはわずかな現金しか残っていなかったという。金子は『鈴木商店はある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきた。鈴木の宗旨を広めるために(店に)金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗っ人だ。死んだ後に金(私財)をのこした和尚はくわせ者だ』と言ったという[4]。
加護野忠男神戸大学大学院経営学研究科教授は、金子直吉について以下概略のように評している[5]。
- 後藤新平をはじめとする政治家との接近によって政商とみられることもあり、鈴木商店崩壊のきっかけとなった米買い占めの汚名から社会的配慮に欠ける商人と解されることもあった。一方で現場主導の分権的経営という『日本的経営』の一つのモデルを試みた起業家の一人であり、また強引と見られる事業の拡張も、貿易の主導権を日本人の手に、という明治のナショナリズムに突き動かされたものであり、倒産後に私財蓄財がなかったこともその表れである。しかし、そのような私欲がなかったことが、かえってリスクに鈍感になり独走に歯止めがきかなかった。
[編集] 参考文献
- 辻本嘉明 『行け!まっしぐらじゃ - 評伝・金子直吉』 郁朋社、1999年
- 城山三郎 『鼠―鈴木商店焼打ち事件』 文藝春秋、1988年、ISBN 4163106308
- 福沢桃介 『財界人物我観』(経済人叢書) 図書出版社、1990年
- 江上剛 『我、弁明せず。』 PHP研究所、2008年