北伐
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北伐(ほくばつ)とは、中国の歴史上北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。
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[編集] 概要
中国は地理上の条件から南北に分裂しやすく、しかも北には漢民族の文化的故郷とも言うべき黄河があり、南は経済的に北を圧する力を持っていた。故に北に割拠した国は南を征服する事を望み、南に割拠した国は自分達の故郷を取り戻す事を望んだ。中国の歴史上、北伐と名乗る戦争は歴代にある。
[編集] 蜀の北伐
これは、初代皇帝・劉備の漢王朝復興の遺志に基づくものであったが、当時の蜀の国力及び軍事力からすれば、かなり無理なものがあった。ゆえに諸葛亮の北伐は、魏への侵攻を目的としたものではなく、拠点となる漢中の防御などあくまで蜀への侵攻を未然に防ぐ防衛戦としての役割が強いという説もある。
第一次北伐は、最初の内こそ上手く行っていたものの、先鋒の馬謖が張郃に撃破され、その後蜀軍は撤退。 第二次北伐は、攻めあぐねてるうちに食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた王双を討ち取っている。 第三次北伐は、武都・陰平の両郡を平定した。 第四次北伐は、食料不足により撤退する。撤退時に追撃してきた張郃を討ち取っている。 そして第五次北伐の途中に、諸葛亮は陣中で病没した。 第四次北伐と五次北伐の間に益州南部で反乱が起こっている。譙周伝によれば、益州南部は反乱が多く統治の難しさから従来は税が課されてなかったという。だが以前、諸葛亮が益州南部の反乱を制圧したのち益州南部に租税を課した。この事を考えれば反乱が起こったのは必然とも言えるだろう。
諸葛亮の死後、北伐は一時期中止されて国力の回復が図られる。諸葛亮の後継者であった蒋琬もその遺志を継いで北伐を計画したが、実現を見ぬまま病死した。その後、姜維が軍権を握ると、再び北伐が大々的に行われることとなった。しかし、度重なる北伐と宦官の黄皓を重用した劉禅の悪政により、蜀の国力は急激に弱体化し、滅亡への道をひた走りに走ることとなった。
なお、魏と蜀の位置関係だけを考えると「北伐」という言葉は成り立つものの、蜀と魏の中心地域との間には秦嶺山脈が遮るために、実際の侵攻経路は一旦魏の西側に回ってから東に向かって侵攻する「東進」ルートが取られていた。これが補給路を長くして北伐を困難にした要因の1つであるとも言われている。
[編集] 明による統一
元末、湖北・淮南・江南を統一した朱元璋は、1368年1月に南京で即位し、国号を明とした。
朱元璋はさらに、徐達を河南・河北へと向かわせた。元の内紛もあり、徐達はココ・テムル率いる元軍を破った。同年8月に、トゴン・テムルは大都を放棄した。
モンゴル高原・甘粛へと逃れた残存勢力とは、ココ・テムルの子アユルシリダラが1378年に死ぬまで、戦争が続いた。
[編集] 太平天国の北伐
- 北伐 (太平天国)を参照。
[編集] 国民党による北伐
辛亥革命後の軍閥割拠状態になった中国において、孫文や蒋介石指導の国民党による全国統一を目指して戦われた北京政府や各地軍閥との戦争。特に1926年から1928年のものを指すことが多い。
1921年5月、広東地方の軍閥陳炯明の勢力を基盤として広東護法政府非常大総統に就任した孫文は、中国の統一をめざして北伐を図った。しかし、大規模な軍事行動は、広東地方への経済的負担を強いるものであり、広東の安定を最優先に考える陳炯明の反乱を招き失敗する。
1923年2月、広東を回復した孫文は第3次広東軍政府を組織すると、急速にソ連との関係を深め、その助言をうけ中国共産党との合作、革命軍の中核を担う人材を養成する黄埔軍官学校を設立するなどして軍閥に依存しない自身の勢力強化につとめ、1924年9月18日に「北伐宣言」を発表し北京政府に対抗した。しかし、同年10月23日、北京政府内で全国統一をかかげた馮玉祥が政変(首都革命、北京政変)を起こし孫文に北上を要請、これに応えた孫文が北京に入るなど平和的統一の機運が高まり北伐は立ち消えになる。この平和的統一の流れは1925年3月12日に孫文が北京で客死すると頓挫した。
孫文亡き後の国民党は広東に国民政府を組織する。この中で中山艦事件を契機に、急速に台頭してきた蒋介石が中心となり、1926年7月1日、国民政府は「北伐宣言」を発表、北伐が開始された(第1次北伐)。北伐軍は、統一を望む輿論を背景に北京政府や各地軍閥を圧倒、翌1927年には南京、上海を占領した。
しかし、中国国民党内部で中国共産党が勢力を拡大したこともあり、4月12日蒋介石は、党内の中国共産党員の粛清を行った(上海クーデター)。その後、上海クーデターから中国国民党の武漢と南京分立(寧漢分裂)、武漢国民政府の中国共産党と決別及び南京国民政府との合流、広州張黄事変に至るまでの間は中国国民党内の混乱によって北伐は一時停滞をみせた。
蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、1928年4月8日に北伐を再開した(第2次北伐)。日本(首相田中義一)は、中国にある既得権益を維持するため、山東省に軍を派遣して介入する動きもあった(山東出兵)が、蒋介石は日中間の衝突を回避した。また、北洋軍閥の閻錫山、馮玉祥らを傘下に加え進撃した。そして、6月4日奉天派の首領である張作霖が北京を撤退した後、6月15日に北京を占領した(その後、張作霖爆殺事件が起こった)。父のあとを継いだ張学良が12月29日に降伏したこと(易幟)をもって、北伐は完了し一応の全国統一を果たしたのであった。
しかし北伐において、地方の軍閥を残存させたまま中国を統一したため、1929年3~6月の蒋桂戦争、1930年5~11月の中原大戦で蒋介石は嘗ての味方と勢力争いをすることとなった。