上海クーデター
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上海クーデター(しゃんはいクーデター)は、1927年4月12日、中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧した事件のことを指す。四・一二事件とも言う。中国国民党は清党と称する一方、中国共産党は四・一二反革命政変、四・一二惨案と称す。
- 日本語版では中国国民党、中国共産党のどちらの立場にも立たず、日本でよく使われる用語として上海クーデターを用いる。
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[編集] 背景
1923年、孫文はソ連が中国革命の最大の支持者であると認めた。そして、コミンテルンと中国共産党の李大釗らの援助の下、孫文は国民党を改組し、広州で国民政府を樹立し、連ソ容共政策を提出し、翌1924年には黄埔軍官学校を開校した。大量の共産党員が身分をそのまま保持したまま、国民党に加入し、幾人かは要職を得た(周恩来など)。
しかし、1925年孫文没後、汪精衛が政治的指導者となる一方で、黄埔軍官学校校長の蒋介石は軍権を掌握した。7月になると群衆運動が最高峰に対し、土豪たちと争うようになった。
1926年政治顧問のミハイル・ボロディン(鮑羅廷)の影響により、国民政府と国民党内における共産党の勢力は日増しに強くなり、新たに農林部(譚平山)と労工部(蘇兆徴)が成立し、共産党員が部長を担当した。また、別に武漢総工会は向忠発、劉少奇、李立三を指導者とし、武装蜂起した。
3月、蒋介石は武力を用い中山艦事件を収拾させたので、共産党員との間に齟齬が生まれた。7月、国民革命軍は北伐を開始し、蒋介石を総司令に任命した。11月になると北伐軍は既に長江流域を抑え、国民政府は武漢遷都を決定したが、蒋介石は彼が勢力下に収めた南昌遷都を主張した。11月22日コミンテルンはモスクワで第7回大会を開催し、中共代表の譚平山は、北伐は農民革命の契機であると示し、北伐の後に共産革命と国民革命を起こす策略が採択された。12月9日、国民政府は武漢に遷都し、一ヵ月後、南昌国民党中央政治会議は、党中央が南昌に留まることを議決した。
1927年国民党三全大会(国民党第3回全体会議)の後、スターリンは羅亦を派遣し、ミハイル・ボロディンが組織した織農工階層展開群衆運動、農民協会や土地委員会を、武装した権力組織に改組するよう援助した。東路軍を率いる白崇禧の上海入城直前の3月22日には、上海の労働者は、共産党の周恩来などの指導の下、2700人からなる工人糾察隊を組織し、警察や守備隊に対して攻撃を行い、上海に自治政府を成立させたのであった。
蒋介石など国民党右派は共産党員が国民党内部で日増しに膨張し、「党内党」になっており、早いうちに災いの芽を摘まないと後々、コントロールできなくなると認識していた。加えて、北伐軍が攻撃した地方で「土豪を打倒し、田地を分ける」という共産党の政策を国民党右派は反対していた。
また、中国共産党の台頭に不安を抱く外国人[1][2]や資本家の団体である上海総商会[3]は、3月26日に上海に入った蒋介石に対し、中国共産党を排除して早期の治安回復を要求した。
そこで、蒋介石は「清党」を発動の為、租界における外国の支配は現状のままである事を保証しその見返りに、諸外国の援助を受けたのであった。
[編集] 事件の経過
1927年4月2日、蒋介石は李宗仁、白崇禧、黄紹竑、李済深、張静江、呉稚暉、李石曾等を招き、上海で中国国民党中央監察委員会会議を招集し、会議の中で「共産党が国民党内部で共産党員と連結して、謀反する証拠がある」ことで検挙する案を会議で提出し、広州政治分会主席の李済深はその意見に賛同した。そして会議で「清党原則」及び「清党委員会」を定め、反共清党準備工作が進行した。
4月6日、蒋介石は軍楽隊を派遣し、「共同で戦闘に備えよう(共同備闘)」という錦の旗を掲げ、上海総工会工人糾察隊に送り、油断させる一方、同時に蒋介石は青幇、洪門の頭目である黄金栄、張嘯林、杜月笙等のところに顔を出し、右派団体「中華共進会」と「上海工界連合会」を組織し、上海総工会に対抗した。
4月9日、蒋介石は淞滬戒厳司令部の成立を命令し、白崇禧に、周鳳岐を副司令にするよう任命させ、合わせて戦時戒厳条例12条を頒布した。同日、中央監察委員の鄧沢如、呉稚輝、黄紹竑、張静江、陳果夫等と連名で『護党救国通電』を発表し、武漢国民政府の容共政策を非難した。4月11日、蒋介石は各省に「一致して清党を実行せよ」と密令を出した。
4月12日夜明け、蒋介石の指揮を受けた「中華共進会」と「上海工界連合会」は上海の租界から出撃し、上海総工会糾察隊の駐屯する、閘北、南市、浦東、呉淞等を攻撃した。その後、蒋介石は淞滬戒厳司令部に国民革命軍第26軍に所属するよう命令を下し、「労働者が内輪もめしている」ということを口実に工人糾察隊に対して武装解除を強行し、300人余を殺傷した。
翌4月13日、上海総工会は労働者大会を開催し、蒋介石討伐を言明した。大会の後に10万人余の労働者や学生が宝山路に行き、国民等第26軍第二師団の周鳳岐に請願したが、軍隊は群衆に掃射し、その場で100人余りが死に負傷者は数知れなかった。そして、蒋介石は上海特別市臨時政府、上海総工会及び共産党の組織一切全ての解散を命令し、共産党員及びその支持者を捜索し、1000人余を逮捕し、主要なメンバーは処刑された。15日には、300人余が殺され、500人余が逮捕され、5000人余が失踪した。著名な共産党員の汪寿華、陳延年、趙世炎らが害を受けた。
これより後に、地方で清党が開始された。4月14日、李済深は広州の陸海軍の将校を主宰しており、会議を開き共産党員の粛清(「清共」)を決め、二日目には、広州全域に大捜索を行った。厦門、福州、寧波、南京、杭州、長沙等でも共産党員が殺害された。共産党員は「白色テロ」と称した。4月28日、北京では蒋介石とは戦争状態にあったはずの張作霖が李大釗ら20人の共産党員を殺害した。
この事件の後、武漢にて中国共産党と中国国民党左派は蒋介石討伐運動を発動した。4月20日、中共中央は「蒋介石は既に国民革命の敵へと変化した」と発表し、群衆に、「新しい軍閥から寝返り、軍事専制を打倒する」号令をかけ、戦闘準備に入った。4月22日、宋慶齢、鄧演達、何香凝、譚平山、呉玉章、林祖涵、毛沢東ら39人は国民党中央執監委員、候補執監委名義で連名で蒋介石打倒を通電し、全国の民衆及び革命同志に、「(孫文)総理の叛徒、国民党の腐敗分子(敗類)、民衆に対し有害な人物(蟊賊)である蒋介石の打倒」を呼びかけた。
[編集] 結果
4月18日、蒋介石は南京にて国民政府を樹立し(南京国民政府)、共産党を受け入れている汪精衛(武漢国民政府)と対立した(寧漢分裂)。
だが、1927年7月、汪精衛率いる武漢国民政府は、ソ連からの顧問であるミハイル・ボロディンが国民政府を分裂させることにより中国共産党が武漢政府の権力を奪取することが分かり、共産党の言論取り締まりを決定し、「共産取締議案」を通過させ、ミハイル・ボロディン等ソ連から来た顧問を罷免した。その後、武漢では7月15日に清党が開始され、第一次国共合作は7月中旬に完全に崩壊した。
また、上海クーデターは中国共産党に大きなダメージを与えた。そして、中国共産党は蒋介石の武力による清党に対して全くの準備がないということを認識させられた。上海クーデターの後、8月7日、漢口で会議が開催され、共産党内部から陳独秀らが排斥され、新たに瞿秋白らが指導者となり、中国国民党への武力闘争が決議された(八七会議)。会議に前後して、8月1日、朱徳が率いる中国共産党と中国国民党左派は南昌で暴動を起こした(南昌起義)が失敗に終わった。また、毛沢東は1927年9月、湖南省と江西省の境界で少数の農民を率いて蜂起した(秋収起義)が失敗に終わり、その後井岡山を拠点に抵抗する端緒となった。
一方、蒋介石の軍功が武漢・南京の両政府の合流への障壁となり、また北伐軍が徐州で敗戦したことも相俟って、1927年8月蒋介石は一旦権力の座から退き、翌9月、武漢国民政府は南京国民政府に合流した。
その後、同年11月17日国民党内部の政変である広州張黄事変(広州張黄事変)が勃発した。これにより蒋介石は政権に復帰し大権を掌握、そして、翌1928年には北伐を完成させ数十年に渡る中国の統治を開始したのであったが、この過程で李宗仁、白崇禧率いる新広西派(新桂系)の勢力が国民党内で拡大した為、蒋介石はかつての味方と政治闘争を繰り広げることになった。
尚、上海クーデターで蒋介石を助けた杜月笙の事業は順調に発展し、日中戦争収束後には上海市長になる直前にまでになったが、1949年国共内戦で中国国民党が敗北し台湾に逃亡すると、上海クーデターにおいて中国共産党を迫害したことによる訴追を避ける為、杜月笙は香港に逃亡したのであった。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 菊池秀明[2005] 『中国の歴史 10 ラストエンペラーと近代中国』講談社 ISBN 4-06-274060-5