ミハイル・ボロディン
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ミハイル・マルコヴィチ・ボロディン(Mikhail Markovich Borodin、1884年7月9日-1951年5月29日)はコミンテルンの工作員。本姓はグルーゼンベルグ(Gruzenberg)。
白ロシア(現・ベラルーシ)のヤノヴィチ生まれ。1903年に帝政ロシアでボルシェビキ党に入党した。1907年、彼は逮捕され、1908年、アメリカ合衆国への追放を選んだ。在米中はバルパライソ大学で受講している。10月革命の後、1918年に帰国し、外交関係部門で働き始めた。1919年から1922年の間、彼はコミンテルンの工作員としてメキシコ、アメリカ合衆国、英国で活動した。
1923年から1927年まで、ボロディンは中国広東における中国国民党政府に対してのコミンテルン及びソビエト連邦の代表であり、その時期には孫文の主要な政治顧問となっていた。彼の進言により中国国民党はマルクス・レーニン主義を受け入れ、共産主義者の入党が認められ、黄埔軍官学校が設立された。
1925年の孫文の死後、ボロディンは中国国民党政府の政治顧問を続けたが1927年4月、蒋介石は上海クーデターを起し、共産主義者たちを追放し、彼を逮捕しようとした。また1927年7月、汪兆銘率いる武漢国民政府も、共産党を受け入れていた政策を破棄し、共産党の言論取り締まりを決定し、ボロディン等ソ連から来た顧問を罷免した。ボロディンはその年にソビエト連邦に帰国し、しばらく英字新聞紙モスクワ・ニュースの編集者として働いた。
ユダヤ人だったため、1949年にソビエト連邦の敵であるとして逮捕された。シベリアの強制収容所に送られた後、そこで2年後に亡くなった。
ケネス・レクスロスは、彼の詩Another Early Morning Exerciseにおいて、アンドレ・マルローは1928年に発表された彼の最初の小説 Les Conquérantsにおいて、ボロディンに触れている。
[編集] 関連項目
- グリゴリー・ヴォイチンスキー - 中国共産党を設立させるために中国に派遣されたコミンテルンの工作員
- アドリフ・ヨッフェ – 1923年、孫文とヨッフェは、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携を宣言した