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諸葛亮 - Wikipedia

諸葛亮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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諸葛亮肖像画
諸葛亮肖像画

諸葛 亮(しょかつ りょう、ピンイン:Zhūge Liàng、181年 - 234年 )は、中国後漢末期から三国時代蜀漢政治家武将軍略家発明家孔明(こうめい)。

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。

妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄でに仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、に仕えた諸葛誕諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原(景春)らがいる。なお、諸葛八卦村という村の住民は諸葛亮の子孫と言われている。


目次

[編集] 略伝

[編集] 書生時代

琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(の副長官)を勤めた人だが、諸葛亮が幼い時に死去している。生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。後漢の献帝と同年の生まれである。

まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓(朱儁の子)が豫章太守として派遣され、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安二年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。

その後諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで『梁父吟』を歌っていたという。この時期には自らを管仲楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はいなかった。ただ親友の崔州平や徐庶だけがそれを認めていたという。 また、この時期に地元の名士・黄承彦のを娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを孔明の嫁選びと呼ぶようになった。

[編集] 三顧の礼

この頃華北では、200年曹操袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。一方劉備は袁紹の陣営を離れた後、曹操に追い散らされて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。荊州では、北の曹操の強大化によってこれまで平和であった荊州も危険になるのではないかと話し合われていたが、高齢の劉表は病気がちな上、長男・劉琦と次男の劉琮との間で激しい後継者争いが起こって、有志たちの失望を買っていた。

諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。 裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「臥龍」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「『出師表』には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。

この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる天下三分の計を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを孔明の出廬と呼ぶ。

[編集] 赤壁の戦い

208年、劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。

観念した諸葛亮は春秋時代文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。

同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は手勢を連れて夏口へ逃れた。

孫権陣営は情勢観察のために魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。

[編集] 入蜀

戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の四郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、四郡の内の三郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。

211年、荊州の次に取る予定であった益州劉璋より、五斗米道張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。
劉備は、龐統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛趙雲らを連れて長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した。

214年に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また、伊籍、法正、李厳劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。

[編集] 夷陵の戦い

その後、劉備は曹操に勝って漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。

220年には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、を建てた。翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。

劉備が関羽の弔い合戦として呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は上手く行って、途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはめられて大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、諸葛亮は「ああ、法正が生きていれば、主君を諫めたであろう。彼が居れば、たとえ戦になっても、これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた(法正は220年に死去している)。

劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城223年に死去する。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取」(君の才曹丕に十倍し、必ず能く国を安んじ、終に大事を定めん。若し嗣子輔くべくんば、之を輔けよ。如し其れ不才ならば、君自ら取るべし:君の才能は曹丕の十倍である。きっと国を安定させて、最終的に大事(=中国統一)を果たすだろう。もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい)と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死」(臣敢へて股肱の力を竭(つく)し、忠貞の節を効(いた)し、之を継ぐに死を以てす:私は思い切って手足となって働きます)と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。

[編集] 北伐

223年、劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は、武郷侯・開府治事・益州になり、蜀の政治の全てを任されることになる。諸葛亮は呉に鄧芝(鄧は登におおざと)を派遣し、関羽の死によりこじれた関係を修復すると、魏に対する北伐を企図する。魏の側は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆王朗陳羣、許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけた。諸葛亮は返事を出さなかったが、のちに『正議』を発表し、彼らを批判した。

益州南部で雍闓高定らが反乱を起こしたが、諸葛亮は225年に益州南部四郡を征討し平定した。この地方から得た財物で軍資を捻出し、国を富ませたという。この時にいわゆる七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。

227年、準備を調えた諸葛亮はいよいよ北伐を決行する。北伐にあたり上奏した『出師表』は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章規範』の評語)と称賛されている。「表」とは公表される上奏文のことである。

一回目の北伐に際し、諸葛亮はかつて蜀から魏へ降った新城郡太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、異常なまでに曹丕に寵愛されていたが、226年の曹丕の死後はそれまでの寵愛を失い、極めて危うい状況にあった。その情勢を偵知していた諸葛亮は孟達に調略の手を伸ばし、孟達もこれに応じて魏に反乱を起こした。しかし蜀の援軍が到着する前に、孟達は魏の司馬懿に討ち取られてしまった。

最初に躓いたものの諸葛亮の作戦は続行され、翌228年に漢中より北へ進軍を開始した。この時魏延は、分隊を率いて一気に長安を突き、その後に諸葛亮の本隊と合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを受け入れなかった。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。

諸葛亮は宿将である趙雲をおとりに使って曹真の裏をかくことに成功した。このため、魏の西方の領地である南安・天水・安定の三郡(いずれも現在の甘粛省に属する)が蜀に寝返った。

これに対し、魏は宿将の張郃を派遣した。諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、その才能を評価していた馬謖を任命したが、馬謖は諸葛亮の指示を無視して山上に布陣したため、張郃により山の下を包囲され、飲み水を確保できず撃破された。街亭の敗北によって進軍の拠点を失った蜀軍は、全軍撤退を余儀なくされる(街亭の戦い)。

撤退後、諸葛亮は馬謖を処刑した(「泣いて馬謖を斬る」の語源)。諸葛亮は自分自身も三階級降格して丞相から右将軍になったが、蜀を運営していける人材は他におらず、引き続き丞相の職務を執行した。

同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行した。この時に上奏したとされるのが『後出師表』であるが、これは偽作説が有力である。二度目の北伐は曹真に作戦を先読みされて上手く行かず、食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた王双を討ち取った(陳倉の戦い)。

更に翌年、第三次の北伐を決行する。武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。これに対して魏将郭淮が救援に向かったが、諸葛亮自身が出撃して彼の退路を断たんとしたために撤退。陳式は無事に二郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰する。

231年、第四次の北伐を行い司馬懿と対戦したが、長雨が続き、食糧輸送が途絶えたことにより撤退する。この撤退の時に魏の張郃を討ち取っている。食糧輸送の一切を監督していた李平(李厳から改名)は、諸葛亮を呼び戻させる一方、彼が帰還したところで「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」と聞き返すなど、自らの失敗をごまかそうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を出して李平の嘘を見破り、彼を庶民に落とした。

この戦いは、張郃が戦死した事を除くとどちらが優勢であったかは『三国志』に書かれておらず、蜀軍が撤退した理由も兵糧不足となっている。『三国志』蜀書諸葛亮伝注に引く『漢晋春秋』では蜀軍が魏軍を圧倒しており、『晋書』では魏軍が蜀軍に圧勝している。『漢晋春秋』で諸葛亮が司馬懿を破ったと書かれている戦いは『三国志』蜀書王平伝にも書かれているが、王平伝では勝敗については書かれていない。

234年、第五次、最後の北伐に出た。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣する。しかし、頼りにしていた荊州合肥方面の戦いにおいてに敗れ、司馬懿は大軍を擁しながら防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。病に侵されていた諸葛亮は、秋8月23日、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。

諸葛亮の死後、蜀軍は全軍退却することになったが、その途中で魏延楊儀との間に争いが起こり、楊儀が勝って魏延は殺された。蜀軍が引き揚げた後、陣地の跡を検分した司馬懿は「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。

諸葛亮は、漢中の定軍山に魏が見えるように葬られたという。遺言により質素な墓とされた。

諸葛亮が死去したという知らせを聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去したという。また同じく官位を剥奪された廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうのだ」といって涙を流したという。李厳・廖立の両者は、いずれも失態を演じて諸葛亮によって平民に落とされたが、諸葛亮ならば罪があっても最終的には才能を評価して再び起用してくれると考えていたのである。このことから部下の諸葛亮への信頼の大きさが分かる。

劉禅は民衆や異民族が諸葛亮の廟を作って祀りたい、もしくは成都に諸葛亮の廟を建立したいとの希望を一度は却下した。しかし、民衆が勝手に廟を立てて密かに祀っているという事実と、習隆・向充の上奏を受けて、成都ではなく沔陽に廟を立てている。(『襄陽記』)

[編集] 評価

諸葛亮を評したものは、前述の司馬懿のほか、『三国志』の撰者である陳寿による評、『三国志』に注をつけた裴松之の「諸葛亮が魏に仕えて能力を発揮していたら、陳羣や司馬懿でも対抗できなかっただろう」、あるいは北宋蘇軾の「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」(『東坡全集』前集巻43「諸葛亮論」)や南宋朱熹の「孟子以降の人物としては張良と諸葛亮がいるのみである」(『朱子語類』巻163・歴代3)等、数多い。

陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。みなこれを畏れつつも愛し、賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。しかしその一方で「応変の将略はその長ずるところにあらざるか」(臨機応変さは孔明の得意とするところではなかったのだろうか)とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。また、『三国志』に収録されている『諸葛氏集目録』で陳寿らは「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなく、敵のほうが兵数が多かったので、魏に対する北伐は成功しなかった。」と評している。

陳寿の評について「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝に載るが、信憑性は極めて薄い(詳しくは晋書の項を参照)。

裴注所引の『袁子』は「諸葛亮は基本を守る人間で、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面(状況の変化に対応する事)で無理をしなかったのである。不得手な点を知って無理をしない事こそ賢者の偉大なところである」と評している[1]

また、西晋司馬炎は「(諸葛亮を)自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と宰相としての諸葛亮を賞賛している(諸葛亮伝・裴注所引『漢晋春秋』)。一方、北魏の崔浩は「曹氏と天下を争う事もできず劉璋から国を奪い辺境で皇帝を僭称させた」と極めて辛口の評を述べている(『魏書』毛脩之伝)。

劉璋が支配していた益州を奪ったことに関しては、蘇軾は「劉璋をだまし討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能・兵力・領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。(劉璋をだまし討ちにして)これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い」と述べている(前掲「諸葛亮論」)。

これに対し、代の学者・王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統・法正である事、また劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している(『読書後』巻2「書蘇子瞻諸葛亮論後」)。

[編集] 『三国志演義』中の諸葛亮

三国志演義』の本文中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである。この他に関羽も字あるいは「関公」と呼んで敬意を表しているが、これは演義が成立した時点で関羽は神格化されており、諱を記述することが憚られたためと思われる。ここから、劉備と諸葛亮がこの物語の主人公であると暗に示されている。特に諸葛亮の場合は『三国志演義』後半の主人公と言われる。

『三国志演義』の成立は明初と考えられているが、その前身である講談などの民衆文化は北宋代から広がっていったと考えられる。それらのなかで孔明は、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。以下、諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。

『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に十万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。

赤壁の戦いに於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては、この戦いの主人公は諸葛亮である。

  • 非戦論に傾いていた孫権・周瑜を説得して交戦に向かわせる(『三国志』に徴すれば、周瑜は最初から抗戦を主張していた)。
  • 戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った(裴松之注に見られる孫権の逸話を利用したもの)。
  • 曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたことになっている。

赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛亮はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛亮に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛亮に看破され、再び怒った周瑜は「既生瑜、何生亮!?」(天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!?)と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』にはない。

北伐で馬謖の失策により蜀軍が総崩れで敗北し、魏軍の追っ手の司馬懿らを目の前に諸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「空城の計」を使い、城壁の裏に大軍がいると勘違いした司馬懿が諸葛亮を恐れて撤退した。これも『演義』の創作である。

『演義』では北伐中、諸葛亮が魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その後の最後の北伐に於いて、病状が悪化した諸葛亮は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去した。諸葛亮の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て諸葛亮の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。ところが蜀軍には諸葛亮の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。だが実はこの諸葛亮は木像であった。後に現地の人間は「死諸葛嚇走活仲達」(死せる孔明、生ける仲達司馬懿の字)を走らす)と言ったという(この台詞は裴注に引く『漢晋春秋』に見えるが、木像に狼狽したというのは演義の創作である)。

その清廉潔白さに対する民衆の期待や弱小な王朝に対する判官びいき的心情が混ざって、このような人間として描写する原動力となったのであろうと考えられる。また、『三国』説話の成立時期(北宋期あるいは明初)から考えて、王朝に忠なる臣の理想像として過剰に持ち上げられた人物との評もある。

[編集] 著作等

諸葛亮の著作としてはもちろん『出師表』が最も有名である。漢詩などはまったく残しておらず、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして『出師表』の他には李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが現存していない。

『後出師表』は『三国志』本伝に見えず、の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が引用している(裴松之も「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記している)。しかしこの文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲がなぜかすでに死んでいる事にされており、偽作の疑いが強い。

また『三国志』本伝によれば、兵法を応用して八陣の図を作成し、ことごとく要領を得ていたという。

諸葛亮は発明家でもあり、諸葛亮に関係した物として、晋時代に普及した筒袖鎧・連発式のを工夫した元戎(『魏氏春秋』によれば、この弩は十本の矢を同時に発射することができた)・一説には一輪車の起源とされる木牛・一説に四輪車と言われる流馬・駐留時栽培させた諸葛()・織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦・字を知らない民の教育に使用した紙芝居(日本の紙芝居とは起源が異なると思われる)・諸葛亮が考案したおもちゃ孔明鎖・現在雲南地方に諸葛亮発明の物として孔明灯なるものなどがあるとされる。

なお「饅頭」という食品は、諸葛亮が南蛮征伐の際、人頭を祀るという風習の代りに、人頭の代替食品として、小麦の練り物の内部に肉団子を包み込み、人頭に見立てて考え出したものであるという話がある。ただしこれは宋代の類書『事物紀原』に「小説に曰く」と前置きして引かれている話であり、史実とは考え難い。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽書の書名が散見する。

[編集] その他

[編集] 諸葛亮の子孫たち

中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省蘭渓市にあり全員の名字が「諸葛」となっている。近年になって諸葛亮の家系図(彼らの先祖は諸葛亮の孫の諸葛京の家系とされる)が見つかるが、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である。

-- 諸葛八卦村 -浙江省観光局公式ページより

張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質という息子がおり(故事巻一「雑記」)、また諸葛懐という息子・諸葛果という娘がいたとされる(故事巻一「朝真観記」)。 諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。

[編集] 脚注

  1. ^ また、袁子は「諸葛亮の行軍は安定・平静で行動しやすく、堅重で進退に便であり、法令は明快にして信賞必罰を旨としていたため、士卒は勇んで戦った。亮が行軍中に作った軍営・井戸・かまど・厠・防衛設備などは規則に適い、撤退する時はそれらをすっかり取り去っていった。また諸葛亮は役所・宿場・橋・道路の修築を好んだ。これらは急務ではなかったが、袁子によれば、亮は国家の根幹を確立することで末端も治まるとの方針に基づいてこれらの工事を勧奨した。諸葛亮の統治により、田畑は開墾され、武器の性能は良くなり、貯蓄は豊富になった。」と評している。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考書籍


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