陳羣
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陳羣(ちんぐん、?-238年)は、魏の重臣。字は長文。豫州・頴川郡許昌(現在の河南省許昌)の出身。祖父は清流派に属し、清廉高潔な官僚と知られた陳寔、父は陳紀、子は陳泰。荀彧の娘婿に当たる。魏の法制度の整備に従事した。特に九品官人法はその後隋代に科挙が本格的に施行されるまで、各王朝の人材登用の基本方式となった。
幼いころから祖父陳寔に将来を期待され、傲岸で人を見下すきらいのある孔融とも交友があった。一時期豫州に滞在していた劉備に登用されて仕えた。194年、劉備が刺史陶謙死後の混乱する徐州を領有しようとした際には、「南に袁術、西から呂布が徐州を狙うなか、危険である」として反対したが聞き入れられなかった。まもなく劉備が呂布に敗れて領地を失うと野に下り、父とともに徐州で避難生活を送った。198年、曹操が呂布を滅ぼすと登用され、その後は同郷で曹操の片腕として活躍していた荀彧の娘婿となるなど、政権内での地歩を固めていった。214年御史中丞に任ぜられた。
陳羣の人となりは謹厳実直、常に公正な態度で物事を判断し、道徳に外れた行いは決してしなかった。若いころの曹丕は、こうした陳羣の人柄に敬意を表し、臣下ではなく友人の礼を以て接した。
陳羣は主に内政面で活躍し、特に法整備に従事した。曹操が肉刑を復活させようとした時には、不適切な死刑を減らすという観点から鍾繇とともにこれに賛成したが、王朗らの反対にあい結局沙汰やみになった。220年には九品官人法を制定した。この制度は、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を、法律として再度整備してそうした余地が入り込まないようにする狙いであり、同時にまもなく起こる後漢から魏への易姓革命に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材のふるい分けを狙うものであった。
まもなく曹丕(魏の文帝)が皇帝に即位して魏帝国が成立し、陳羣はその成立に尽力し、その功績から曹丕にも重用された。曹丕は、太子時代から陳羣と仲が良かったため、陳羣を厚く信頼しており、官職は尚書令に上り、さらに鎮軍大将軍に任ぜられた。226年の曹丕の死に際しては、曹真や司馬懿と共に後事を託された。次の曹叡(明帝)の時代にも重職を担い、司空に任ぜられた。238年に死去した。