魏 (三国)
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魏(ぎ (Wei)、220年 - 265年)は中国三国時代に華北を支配した王朝である。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。
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[編集] 歴史
後漢末期、黄巾の乱(184年)が起きた後皇帝の統制力は非常に弱まり、それに代わって台頭したのが曹操であった。曹操は198年に、呂布を劉備等と共闘し倒し、200年には官渡の戦いにて袁紹を打ち破って、中国北部を手中に収め、後漢の丞相となる。その後、統一を目指して南征(大きな戦いは赤壁の戦い)を行うが、周瑜などの活躍によって大敗を喫し、曹操・劉備・孫権の三者鼎立の様相を呈した。
その中で曹操は、213年に十州を持って魏公(ぎこう)に封じられ、さらに216年、曹操は王に進んだ。当時、皇族以外には「王」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操が王位に就いたということは、すなわち簒奪への前段階であった。しかし曹操は存命中は皇帝位を奪わずにいた。
220年、曹操が死ぬとともに、曹操の子である曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。この年、曹丕は、後漢最後の皇帝の献帝から禅譲を受け、洛陽を都とし、魏の皇帝となった。翌年に蜀の劉備も対抗して皇帝を名乗り、さらに229年には孫権も皇帝を名乗り、一人しか存在できないはずの皇帝が三人並ぶという異常事態になった。
即位した文帝(曹丕)は外征では捗々しい業績を上げられなかったが、内政では九品官人法を実施、中書省の設置など諸制度を整備して魏の体制を完全なものへと移行させた。
曹丕は226年に死去し、後を長男の曹叡(明帝)が継ぐ。この時期に蜀は丞相諸葛亮自ら軍を率いて魏へと侵攻してきた。明帝は曹真、司馬懿に命じてこれを撃退させ、更には蜀との盟約により攻めてきた呉軍に対しては自ら指揮を執って呉軍を敗北させる。司馬懿に遼東で謀反を起こした公孫氏を滅ぼさせて魏の最盛期を作り出した。 この時代の237年には邪馬台国の卑弥呼が朝貢にやってきたことが『魏書東夷伝倭人条』いわゆる『魏志倭人伝』に記されている(魏志倭人伝中の景初二年は、現在は景初三年の誤りだと分かっているので、西暦の239年が正しい)。しかしその一方では九品官人法の影響により、後漢から形成されてきた豪族層が貴族化し、官職の独占を行うようになってきた。この時点ではこの問題はまだ端緒が見えた程度であるが、後の西晋になってから深刻化する。更には諸葛亮が死去した後より、国家の脅威が去った安心で気が抜けてしまったのか、曹叡が宮殿造営や酒にのめり込んで国政が疎かになり、国は疲弊してしまった。
その明帝も239年に早世し、その後を養子の曹芳(斉王芳)が継ぎ、明帝は死去するに際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託した。244年には毌丘倹を派遣して、高句麗の首都を陥落させるなど武威を振るったが、内部では曹爽と司馬懿の対立が起こり、曹爽が司馬懿を排除して専権を振るった。司馬懿はこれに逆襲してクーデターを起こして権力を掌握し、曹芳は傀儡となる。司馬懿の死後もその子の司馬師が権力を引き継ぎ、これに反抗した曹芳は権力奪還を目論むが、事前に発覚して254年に廃位され斉王とされた。
その後に曹髦が擁立される。255年に司馬師が死に、その権力を弟の司馬昭が引き継ぐ。曹髦は全くの傀儡であり、司馬氏の専権に反対する毋丘倹や諸葛誕などの反乱が起きるが、短時間で鎮圧され司馬氏の権力はますます高まっていった。曹髦はこれに不満を抱き、側近数百名を引き連れて自殺的なクーデターを試みるが、賈充により殺される。
その後に擁立されたのが曹操の孫にあたる曹奐であった。司馬昭は263年に鄧艾・鍾会を派遣して蜀を滅ぼしたが、265年に死去。
その権力を引き継いだ司馬炎により曹奐は禅譲を強要され、魏は滅びた。司馬炎は新たに西晋を建て、280年に呉を征服し、三国時代を終わらせた。
[編集] 魏の成立の年代について
厳密に言えば、曹丕が、禅譲を受けて皇帝になった220年を魏の成立とするべきである。しかしながら、曹操の存命中も曹操が皇帝のように君臨して万事を動かしていたのだから、曹操が権力を手に入れてからを魏王朝の成立と見ることもできる。その場合、次のような時期が事実上の魏王朝の成立と捉えられる。
また、文学史的にいえば、後漢の建安年間(196年 - 220年)は曹操を中心とした文学サロンが形成され、新しい文学の形を作っていた(建安文学)。この建安文学の流れが、魏の時代のみならず、魏晋南北朝時代全体にわたって続いていく。それゆえに建安年間も魏の一時期と考えた方が、文学史的にはわかりやすいと言える。
[編集] 魏の皇帝の一覧
廟号 | 諡号 | 姓名 | 在位 | 元号 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
太祖 | 武帝 | 曹操 | 216年 - 220年、曹操は、後漢に封ぜられた「魏王」であった。文帝に武帝と追号された。 | ||
世祖 | 文帝 | 曹丕 | 220年 - 226年 | 黄初 220年-226年 | 武帝の子 |
烈祖 | 明帝 | 曹叡 | 226年 - 239年 | 太和(227年-233年) |
文帝の子 |
廃帝 (斉王) |
曹芳 | 239年 - 254年 | 正始 240年-249年 | 済南王・曹楷(武帝の孫)の子? | |
廃帝 (高貴郷公) |
曹髦 | 254年 - 260年 | 正元 254年-256年 | 文帝の孫 | |
元帝 | 曹奐 | 260年 - 265年 | 景元 260年-264年 | 武帝の孫、高貴郷公の父の従兄弟 |
[編集] 邪馬台国
魏志倭人伝によれば「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である。・・」などとある。 卑弥呼を女王とする邪馬台国はその中心とされ、三十国のうちの多く(二十国弱=対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという。