魏志倭人伝
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魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の正史『三国志』のうちの『魏書』(全30巻)の最後に書かれている烏丸・鮮卑・東夷伝の三伝中の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称である。
正式な名前は「『三国志』魏書巻三十、烏丸鮮卑東夷伝倭人条」である。全文で1988(又は2008)文字からなっている。著者陳寿の死後正史の扱いを受ける。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年-290年間)に書かれた。原本は散逸しており、写本のみが残る。
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[編集] 概要
まず、留意しなければならないのは、『三国志』の中に「倭人伝」という列伝が存在したわけではなく、あくまでも「烏丸・鮮卑・東夷伝」の中の東夷の記事の更にその一部分に倭及び倭人の記述があるということに過ぎないということである。従って東夷伝の中に記された「東夷」の概念には当然倭人の事も含まれていると考えられるため、倭人伝のみならず、東夷伝全体を通読しなければ意味がないという考え方もある。
中国正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれているとされる[1]。当時の倭(後の日本)に、邪馬台国(『三国志』では邪馬壹國、ここでは通称の邪馬台国を使う)を中心とした小国(中国語でいう国邑=囲われた町)の連合が存在し、また邪馬台国に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書により当時の倭人の風習や動植物の様子がある程度判明しており、弥生時代後期後半の日本を知る第一級史料とされている。
しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと、多様な解釈を可能とする記述がなされていることから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。 また一方で、岡田英弘など魏志倭人伝の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。彼らは位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける点を根拠として挙げている。
「倭人伝」は、大きく分けて3段落から構成されている。細かな分け方についてはいくつかの説がある。
[編集] 倭国の様子と邪馬台国までの行程
「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では三十カ国が使者を通わせている。
[編集] 邪馬台国までの国と行程
国名や官名には諸説がある。
- 帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。
- 始めて海を1000余里渡ると対馬国(つまこく)に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸数。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
- また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000ばかりの家。田畑はあるが足りず、市へいく。
- また海を1000余里渡ると末盧国(まつろこく)に至る(「又渡一海千餘里、至末盧國」)。4000余戸。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
- 東南へ500里陸行すると伊都国(いとこく)に到着する(「東南陸行五百里、到伊都國」)。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸。王が居る。皆は女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
- 東南に100里進むと奴国(なこく)に至る(「東南至奴國百里」)。長官は?馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。2万余戸。
- 東へ100里行くと不弥国(ふみこく)に至る(「東行至不彌國百里」)。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離。1000余の家。
- 南へ水行20日で投馬国(とうまこく)に至る(「南至投馬國水行二十日」)。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。5万戸余。
- 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る(「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」)。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳碑があり、人口は7万余戸。
[編集] その他の国
邪馬台国の北方にある国の、対馬国から投馬国までの国の他に、国名のみが記される斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[2]があり、邪馬台国はこれら20数カ国を支配していた。日本列島の全てを支配した訳ではなく領域外の国々もあり、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。
女王国の北方の諸国には「一大率(或るいは一支率)」という官が置かれて国々を監視している。一大率は伊都国にあり、魏の刺史のような役目を果たしている。伊都国は外交の中心地で魏や韓の国々の使節はここに停泊して文書や贈物の点検を受けて女王に送っている。
租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられている。国々には市場が開かれ、大倭という官がこれを監督している。 帯方郡から女王国に至るには、1万2000余里ある。
[編集] 倭人社会の風俗、生活、制度など
- 「皆面黥面文身」というように男子はみな墨や朱や丹を顔や体に入れたり塗ったりしている。
- 古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。
- 男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
- 着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
- 兵器は矛・盾・木弓を用いる。
- 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
- 人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
- 倭の者が船で海を渡る時は持衰が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
- 特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
- 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
- 女は慎み深く嫉妬しない。
- 盗みはなく、訴訟も少ない。
- 法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
- 宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
[編集] 倭と魏の関係
[編集] 卑弥呼と台与(『三国志』では壹與)
元々は男子を王として70~80年経たが、倭国全体にわたって長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼を女王に共立することによってようやく混乱を治めた。
卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、年老いても夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。 正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年247年頃、卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族の13歳の少女の台与が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって台与を諭しており、台与もまた魏に使者を送っている。
[編集] 魏・晋との外交
- 景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た(魏が帯方郡を治めたのは景初2年8月23日(238年)に公孫淵が司馬懿に殺された(『三国志』魏志公孫淵伝)後であるため、姚思廉は『梁書』で景初3年(239年)とし、『日本書紀』では神功皇后39年(年の干支は太歳己未)分注に明帝景初3年6月とする。)。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝(景初2年説では明帝(曹叡景初3年1月1日死亡)。)はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
- 正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣して、倭王の位を仮授し、下賜品を与えた。
- 正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
- 正始6年(245年)、皇帝(斉王)は詔して、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
- 正始8年(247年)、女王は太守王(斤+頁)に載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
- 女王位についた台与は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、魏志のクライマックスである魏書三少帝紀にによれば、この年、東夷が朝貢して、禅譲革命の準備がなされたという記事があるので、この女王は台与と考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。
[編集] 倭人のその後
3世紀半ばの台与の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる(ただし、晋の南遷以前には具体的な種族名を記載しない「東夷」朝貢記事が複数存在しており、その中には倭国の朝貢もあった可能性もあるが、今日ではそれを確かめる術はない)。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。日本の歴史では4世紀は「空白の世紀」と呼ばれている。
[編集] 論争
道程を、文字どおりに距離を測ると日本列島を飛び越えて太平洋の海の上になってしまうため、邪馬台国の位置や道程の比定を巡って論争が起きている(#邪馬台国に関する論争を参照)。位置についての有力なものに畿内説と九州説がある(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#道程に関する論争を参照)。
卑弥呼に関する記述から、卑弥呼は鬼道を司る巫女(シャーマン)である人物であり、邪馬台国は呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述もあり、巫女の卑弥呼が祭祀を司り、実際の政治は男子が行う二元政治とする見方もある(後の推古天皇と厩戸皇子との関係が例として挙げられる)。女王を戴いてたことから邪馬台国を女系国家と論じる者もいるが、卑弥呼以前は男王が立ち、卑弥呼の死後もまず男王が立ったと記述されていることから、異論も持たれる。
[編集] 「魏志倭人伝」と「後漢書倭伝」との関係
范曄が著した『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に、倭についての記述がある。 その内容は『魏志』倭人伝に酷似する。したがって范曄の『後漢書』倭伝は、陳寿の『魏志』倭人伝を基に書かれたとするのが今日の通説である。しかしその内容は微妙に異なり、『後漢書』倭伝には『魏志』倭人伝に書かれていない事も記す。このことから『後漢書』倭伝の典拠は『魏志』倭人伝ではなく、魏志倭人伝の典拠となった史料を参照しているとする説がある。