司馬懿
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司馬懿(しばい、ピン音:Sima Yi、179年 - 嘉平三年8月5日(251年))は中国後漢末期から三国時代の人で、魏に仕えた武将、政治家で西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建国されると、高祖、宣帝と追号された。
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[編集] 生涯
[編集] 名門の家柄
河内郡温県孝敬里出身。司馬防の次子で、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬卭の12世孫にあたる。司馬氏は代々尚書などの高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育った。
兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)、司馬馗(季達)、司馬恂(顕達)、司馬進(恵達)、司馬通(雅達)、司馬敏(幼達)らがいる。司馬家の八人の男子は字に全て「達」が付くことから「司馬八達」と呼ばれた。 息子に司馬師、司馬昭らが居る。兄の司馬朗と同様に曹操に出仕した。
司馬懿は若年の頃から博覧強記・才気煥発で知られ、優秀な人物が揃っていた司馬八達の中でも最も優れた人物といわれていた。『晋書』「宣帝紀」によると、司馬懿は苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内心激しい怒りを抱いている時も表面では穏やかに振る舞ったという。
[編集] 曹操への出仕
司馬懿の才能を聞いた曹操によって出仕を求められるが、司馬懿は漢朝の命運が衰微していることを知り、曹氏に仕えることを望まず、病気を理由に辞退した。曹操は刺客を遣わしたが、司馬懿は臥して動かなかったために難を逃れた。その後曹操が丞相となり、懿を文学掾に辟して「捕らえてでも連れてくるように」と命令したため、やむを得ず出仕した。『魏略』によると、曹洪に交際を求められた司馬懿は、訪ねて行くのを恥に思い、仮病を使い杖をついた。恨みに思った曹洪は曹操に告げ口した。曹操に出仕を求められると、杖を投げ捨て応じたともいう。
出仕当初は文官として公子たちに仕えたが、徐々に軍略の献策などで認められるようになる。曹操が漢中を制した際、その勢いで蜀を平定するように進言したが、曹操は「朧を得て蜀を望む(望蜀)」ことはしない、と言って、この意見を退けたという。
217年、太子中庶子に任じられる。曹操は鋭敏に過ぎる司馬懿を警戒していたが、曹丕は司馬懿と親しく、何かと彼を庇っていた。司馬懿の方も、軽挙な行いを慎んで曹丕に仕えたため、絶大な信頼を得るにいたった。この頃、疫病で兄・司馬朗を失う。
219年、関羽が荊州から北上して樊城を陥れようとした。この時、首都の許昌以南で関羽に呼応する者が相次ぎ、曹操すら狼狽し遷都の議も上がった。司馬懿は蒋済と共にそれに反対。孫権勢力を巻き込んで関羽を倒す事を献策し、見事に成功を収めた。
[編集] 蜀との戦い
220年、曹操が死去、曹丕が立つと大いに重用された。
226年、曹丕が死去し、曹叡が皇帝に即位した。曹丕が死ぬ際には曹真・陳羣・曹休と共に曹叡の補佐を託された。曹叡は母后が誅殺されたことで長らく宮廷から遠ざけられており、臣下たちとはほとんど面識がなかった。このため、即位した曹叡は、父の代からの重臣であった司馬懿や陳羣らを引き続き重用し、政事にあたらせた。また襄陽に侵攻した諸葛瑾、張覇らを曹休とともに破り張覇を斬った。この功により驃騎将軍に昇進した。
228年、孟達が諸葛亮と内応して魏に叛いたため、孟達を討った。司馬懿が赴任していた宛から孟達の任地である上庸までは、通常の行軍で一ヶ月はかかった。司馬懿は丁寧な書簡を送って孟達を迷わせた上で、昼夜兼行の進軍を強行し、わずか8日で上庸までたどり着いた。城を包囲された孟達は、同僚や部下に次々と離反され、結局は斬られた。
230年、大将軍に昇進した。
231年、曹真が死ぬと、その後任として蜀の諸葛亮と対戦する。蜀軍は食糧不足により撤退する。
234年、再び諸葛亮が攻めてくる。この戦いで司馬懿は徹底的に防衛に徹した。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣するが、諸葛亮は病死し蜀軍は撤退した。
『漢晋春秋』によると、司馬懿は撤退した蜀軍に追撃をかけようとしたが、蜀軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は引き退いた。その事で人々は諺を作り「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と言った。ある人がこの話を司馬懿に報告すると、司馬懿は「生者を相手にする事はできるが、死者を相手にするのは苦手だ」と言った。
[編集] 公孫淵の征討
238年、遼東に拠っていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は征討を命じられる。このとき明帝は、公孫淵はどのような策を取るか司馬懿に尋ね、司馬懿は「城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。(公孫淵が)知恵者ならば、城を捨てることも有るでしょうが、公孫淵はそんな策を考えつける人物ではありません」と答えた。
司馬懿は毌丘倹・胡遵らとともに公孫淵討伐に出発したが、司馬懿が遼東に到着したころ、遼東では長雨が続いたため、遠征がさらに長引くおそれがあった。廷臣たちは遠征の中止を曹叡に訴えたが、曹叡は「司馬公は機に応じて戦略を立てることのできる人物だ。彼に任せておけば間違いはない」と言い、取り合わなかった。魏の征討に対し、公孫淵は孫権に援軍を求めた。そのとき、孫権は「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しという。そんな人物を相手にせねばならないとは、あなたもお気の毒だ」と書簡を送っている。司馬懿は野戦で公孫淵が派遣した軍勢を破り、公孫淵は籠城した。
この時、公孫淵軍は兵は多いが食料は少なかったが、司馬懿は「兵力が多く兵站の確保が難しいときにはある程度犠牲が出ようとも速戦でかたをつけるべきで、逆に兵力が少なく兵站が安定している場合には持久戦を行うのがよい」と部下に語っている。
司馬懿の思惑通り、公孫淵軍の食料は底をつきた。そこで、人質を差し出して助命を嘆願しに来た公孫淵の使者へ、司馬懿は興味深い発言を残している。「戦には五つの要点がある。戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。貴様らは降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみよ。人質など無用。」
公孫淵は子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して逃亡したが、司馬懿は追撃して公孫淵親子を斬り殺した。そして、城は陥落し、司馬懿は公孫淵の高官たちを斬り、遼東の制圧に成功したが、凄まじいのはその後の処置である。中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の男子を数千人殺し、京観を築いたという。これについて『晉書』は、「王朝の始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。
[編集] 権力闘争
曹叡が死ぬと曹真の長男・曹爽と共に、曹芳の補佐を託された。『漢晋春秋』によると、曹叡は当初曹宇を大将軍に任じ後事を託そうと考えていたが、劉放・孫資の二人の謀略により、彼を罷免し曹爽・司馬懿の二人に後事を託すことになったという。
権力独占を狙う曹爽の画策により、一時名誉職の太傅に転任させられた。ただし軍権を奪われてはいない。この間の241年、呉の朱然らが樊城を包囲すると、自ら進み出て軽騎兵を率いて救援におもむき、朱然を撃退した。243年には呉の諸葛恪を撤退させた。一方、244年、曹爽の蜀漢出兵は失敗に終わった。
その後、中央では隠忍自重し、247年には病気を理由に引退したかに見えた。さらに、曹爽に対しては、その一派の李勝の前で、年老いて衰えたように見せ油断させた(李勝が言っていることをわざと聴き間違える、薬を飲むときにわざとこぼす、など)。249年に曹爽が洛陽を留守にした機会を見計らってクーデターを起こし、郭太后に令を出させて曹爽一派を逮捕させた。そして、降伏した曹爽一派を殺害し、魏における全権を握った。これについて『晉書』は、「これが忠臣の行いと言えようか」と批判している。丞相を与えられるが固辞している。
251年、王淩らの企てた、楚王曹彪を擁立するクーデターを密告により察知した。司馬懿は証拠を握ると、硬軟両面で王淩を追い込み、降伏させた。王淩は司馬懿が自分を殺すつもりであることを悟り、自殺した。また、曹彪も自殺を命じられた。この事件の後、魏の皇族をすべて鄴に軟禁し、互いに連絡を取れないようにした。
こうして全権を握ったものの、司馬懿自身は同年に死去し、遺言に従って首陽山に埋葬された。後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて皇帝となると、「高祖宣帝」と追号された。
[編集] 逸話
「狼顧の相」といい、首を180度後ろに回転させることができたという。この噂を聞きつけた曹操が、本当か試すためにいきなり司馬懿の後ろから名前を呼んだところ、真後ろに振り向いたという。『晉書』宣帝本紀では、曹操がこの相を見て「この男は遠大な志を抱いている」と警戒し、曹丕に「彼はうちに野望を秘めており、一介の家臣として終わるつもりはなかろう」と語ったという。ただし、本来「狼顧」というのは「狼が用心深く背後を振り返るように、警戒心が強く老獪なこと」を指す言葉である。
また、東晋の明帝は西晋の成立の過程を聞くと「ああ、どうして我が国が長続きしようか」と悲嘆したという。
のち、司馬氏の西晋を滅ぼした一人、後趙の石勒は、司馬懿が郭太后を利用したことを、曹操が献帝を利用したことに引き比べて批判している。「大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳(曹操)や司馬仲達(司馬懿)父子のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と、発言した。
中国で売られている三国演義トランプでは、諸葛亮と並んでジョーカーになっている。
[編集] 宗室
- 后妃
- 張春華(穆皇后と追号された)
- 伏夫人
- 張夫人
- 柏夫人
- 子女
- 南陽公主 (母:宣穆皇后)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 晋書 高祖宣帝懿紀(和訳)