劉放
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劉放(りゅうほう、? - 250年)は、中国、後漢末から三国時代にかけての政治家。魏の重臣。字は子棄。
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[編集] 略要・人物
[編集] 概要
涿郡の人。前漢の武帝の第三子である燕刺(らつ)王・劉旦の末裔である。その直祖は刺王の玄孫である西郷侯・劉宏の後裔である。
[編集] 生涯
豪族の家に生まれ、若い頃は漁陽郡(河北省南部)の豪族の王松に仕える。後に主の王松を説いて、曹操が官渡の戦いで袁紹に大勝した時に共に仕官した。曹操からその才能を買われて、参司空軍事・主簿記室などを歴任した。 曹丕が漢を滅ぼして、魏の時代に入ると中書監(秘書郎の長官)に就き権力を振るったという。曹叡の代にその腹心となり散騎常侍に昇進した。彼は達筆で文書の構成に巧みだったことから侍中・光禄大夫に昇った。
また、238年に司馬懿が遼東で謀反を起こした燕王の公孫淵を討伐した時に、献策を提供した功績で方城侯に封じられた。翌239年に明帝が危篤状態になると、孫資と共に緊急に召し出され、皇太子で養子の曹芳の後見役には誰が良いか問うた。その時、劉放は「司馬公が最適でしょう」と進言した。また「武衛将軍の曹爽殿下と共に皇太子を補佐させましょう」とも勧めた。重臣の筆頭である司馬懿と、皇室の中でも特に若い世代である曹爽とを任じることで、政治のバランスを保たせようとの人事であろう(執政当初の曹爽は、自分に政治的な経験が少ないことから司馬懿を尊重していたと伝えられる)。
一説では、燕王曹宇、曹肇(曹休の子)、夏侯献(皇族待遇の夏侯氏)、秦朗(曹操の側室の杜夫人の連れ子)らとしばしば対立していたため、魏の宗室が要職に就くと自分たちの身が危ういとして彼らを妨害したともいわれる。
[編集] 宗族
[編集] 子
- 劉正
- 劉許
- 劉熈