曹操
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曹操 | |
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曹操(肖像)
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生誕 | 155年 亳州 |
没年 | 220年3月15日 洛陽 |
職業 | 政治家、軍人 |
配偶 | 下記参照 |
曹操(そう そう、Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日)は、中国後漢末の武将、政治家、詩人。字は孟徳、幼名は阿瞞また吉利。沛(はい)国譙(しょう)県(現在の安徽省亳州市)の人。
後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。
父は曹嵩。曹嵩はもともと夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。彼の挙兵時から従軍した夏侯惇、夏侯淵等は従兄弟にあたる。
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[編集] 経歴
[編集] 治世の能臣、乱世の姦雄
曹操は若くして機知・権謀に富んだが、放蕩を好み素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ大尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。また、橋玄が紹介した月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子將(許劭)から、「子治世之能臣亂世之姦雄」[1]または「君清平之姦賊亂世之英雄」[2]と評した。曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。
20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を歴任した。
洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩(けんせき)の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは曹操追放を画策したが理由が見つからず、逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた[3]。
光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると騎都尉として潁川での討伐戦に向かい、その功績によって済南の相に任命された。済南では汚職官吏の罷免、淫祠邪教を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に東郡太守に任命された。しかし、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰った。若くして隠遁生活を送ることになった曹操だが、その間も文武の鍛錬を怠ることはなかったという。
中平5年(188年)、黄巾の乱平定に功のあった者が選ばれた西園八校尉に任命された。
故郷にいるとき、王芬、許攸、周旌らによる霊帝廃位のクーデター計画に誘われるが、伊尹、霍光、呉楚七国の乱を例に挙げて参加を断った[4]。
[編集] 反董卓連合軍
後漢末期黄巾の乱勃発以前、朝廷の実権を握り、栄華をほしいままにしていた10人の宦官「十常侍」を粛清するため、大将軍何進は諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばしていた。
大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し宦官を排除して天子を補佐することが権力を握るための最短路となったのである。中平6年8月27日(189年)何進が段珪に殺され、袁紹袁術が宮殿を責め宦官を皆殺しし宦官の時代は、こうしてここに終焉を迎える。
しかし、大宦官・曹騰の孫である曹操が安定して出世する事の出来うるはずの未来も同時に失われたのである。
何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛、少帝弁を廃して献帝協を立て、朝廷を牛耳った。董卓は曹操を仲間に引き入れようとするが、董卓の暴虐ぶりを見た曹操は洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った。
- この帰郷の際の有名な逸話が呂伯奢の家族の殺害である。呂伯奢は曹操の知人で、呂伯奢本人は曹操が立ち寄った際には留守であったという。王沈の『魏書』では、呂伯奢の息子達による襲撃に対する正当防衛、『世語』では、呂伯奢の息子達の裏切りを心配した曹操の一方的な虐殺、『異同雑語』では、食器を用意する音を曹操殺害の準備と勘違いしたことによる、事故的な過剰防衛としている。特に『異同雑語』では、曹操が「自分が人を裏切ることはあっても、人が自分を裏切ることは許さない」と言ったとされる。『三国志演義』では、この発言が曹操から陳宮が離れていったきっかけとしており、曹操の悪役のイメージを決定付ける逸話になっている。なお、『三国志』本文には、この逸話の記述はない。
ちなみに、曹操を捕えた中牟県の県令は『演義』では陳宮になっているが、実際には楊原が正しい。 その後、曹操は私財を投じて陳留郡己吾において挙兵した[5]。『世語』では陳留郡の孝廉である衛茲(えいじ)の援助を受けたとしている。とはいえ当初の仲間は夏侯惇や夏侯淵、曹仁や曹洪、曹純といった身内が中心であり、その勢力は小さなものにすぎなかった。
この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。
初平元年(190年)、袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父・曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍は、董卓の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、孫堅を除いて誰も積極的に攻めようとはしなかった。やがて諸侯はお互いを牽制し始める。
董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが、前述のような諸侯の打算により、攻撃命令は下されなかった。業を煮やした曹操は単独(『三国志』では陳留郡太守張邈(ちょうばく)が配下の衛茲に軍を付与して、曹操に従わせたとしている)で董卓を攻撃した。しかし曹操の軍は董卓配下の徐栄との交戦により壊滅的な打撃を受けた。曹操は連合に見切りを付け、故郷に戻って軍の再編を始めた。諸侯もまた撤退、兵力を保持したまま各地に散らばっていった。
[編集] 雄飛
初平2年(191年)、黒山軍の反乱をきっかけに曹操は袁紹によって東郡太守に任命された。この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。
初平3年(192年)、董卓が呂布に暗殺されると、各地で黄巾の残党が暴れ始めた。兗州の刺史・劉岱が黄巾の残党に殺された。そこで鮑信らは曹操を兗州牧に迎えた。 黄巾討伐の詔勅を受け、青州の黄巾軍の残党30万を討伐。これを降して自身の勢力に組み入れ、「青州兵」と名付けた。これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。
初平4年(193年)頃、袁紹と袁術の兄弟が仲違いをした。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。敗れた袁術は寿春に落ち延びていった。
興平元年(194年)春、曹操は袁術の軍を打ち破ったので徐州から帰還したが、前年に陶謙の部将に父・曹嵩や弟・曹徳を含めた一族を殺されていた。
同年夏、その恨みから復讐戦を行うことを決意し、徐州に再度侵攻する。この時曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ無く、死体のため河が堰き止められたと言われるほどの惨状であったといわれる。この虐殺によって曹操は非常に評価を落とし、後世三国志の注釈を編んだ裴松之も批判しているほどである。
同年秋、曹操が飛蝗(イナゴ)のために兵糧を失い、徐州の侵攻を切り上げて帰還した。ところが、親友の張邈が軍師の陳宮と謀って呂布を迎え入れており、領地である兗州の大半は呂布のものとなっていた。
張邈は呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだために袁紹に嫉妬されていた。曹操は袁紹にそのことを言われる度に張邈を庇っていたが、張邈の方は曹操が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切ったのだった。張邈と曹操とは古くからの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見る事を約束するほどの仲だった。それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。
幸い荀彧と程昱が本拠地を守り抜き、イナゴのために呂布も軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。しかしこの戦いで青州兵は大打撃を受け、曹操自身も大火傷を負った。
このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくる。程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、穀物の値段は1石50余万銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。そんな中徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。
興平2年(195年)春、定陶郡を攻撃。南城を陥落させられなかったが、折り良く着陣してきた呂布の軍勢を撃破する。同年夏には鉅野を攻めて薛蘭・李封を撃破し、救援に現れた呂布を敗走させた。呂布は陳宮ら一万と合流して再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、弟の張超を攻撃する。同年秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。同年冬、張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。
建安元年(196年)頃、長安では呂布らを追った李傕らが朝廷の実権を握っていた。しかし、李傕らは常に内紛を続けていた。荀彧と程昱の勧めで、長安から逃げてきた献帝を自らの本拠である許都(現在の許昌)に迎え入れた。
建安2年(197年)春、張繍を宛に攻め降伏させたが、張繍の叔父張済の未亡人を妾にしたために、怒った張繍に攻撃されて敗れる。この敗戦で長男の曹昂・忠臣の典韋を失った。
建安3年(198年)、張繍を穣に包囲した。劉表が兵を派遣して張繍を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。同年冬、呂布を攻める。呂布は下邳城に籠城したが、水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させた。
建安4年(199年)、袁紹は公孫瓚を滅ぼし、河北を平定した。袁術は呂布や曹操に敗北し勢力が衰え、袁紹のもとに身を寄せようとしたが、その途中で病死した。曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繍は再び曹操に降伏し、曹操も過去の恨みを呑んで迎え入れた。
[編集] 官渡の戦い以後
建安5年(200年)に官渡の戦いで最大の敵である袁紹を破り、その死後、華北(中国北部)を統一した。建安9年(204年)、袁氏の本拠である鄴(現在の河北省臨漳(りんしょう))を攻め落とし、ここに本拠地を移す。
建安12年(207年)、袁氏に味方する烏丸(うがん)族を討ち、袁氏一族を滅ぼした。
曹操の勢力は圧倒的なものとなり、残るは荊州の劉表、江東の孫権、益州の劉璋、漢中の五斗米道、関中の馬騰を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。曹操は三公制を廃止し、自ら丞相となり天下統一への道を固めた。
建安13年(208年)冬、曹操は15万の軍を南下させ、病死した劉表の後を継いだ劉琮を降し、長江を下って孫権領へ攻め込もうとした。だが孫権軍の周瑜・黄蓋の策略に引っかかった曹操軍の軍船は火攻めに遭い、疫病に悩まされていたことも重なり、撤退を余儀なくされた(赤壁の戦い)。
建安16年(211年)、馬超をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った。その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。
建安18年(213年)に魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国という形で魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢を背負う形であった曹操だが、最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。
建安20年(215年)、漢中の張魯を降伏させた。その後数年間、益州を制圧した劉備軍と曹操軍は漢中と益州で激戦を繰り広げた。
建安24年(219年)、漢中を守備している夏侯淵が劉備に討ち取られ(定軍山の戦い)、曹操自ら漢中に援軍に出向いたが、苦戦し被害が大きくなったので撤退し、漢中を劉備に奪われた。
建安25年(220年)、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。
[編集] 子孫
子孫は今現在、中国杭州の東図上村に住んでいるとされ、住民1,600人のうち1,500人の姓が「曹」である。
[編集] 人物・事績
『三国志』に登場する人物は、背が高い、見目麗しい、髭が立派、など、立派な外見をしていると書かれている者が多い。そんな中で曹操はあまり風采が上がらなかった。それに加えて、曹家は名臣曹参の裔を称していたものの、祖父の曹騰が宦官である事から、常に士大夫層からその事を馬鹿にされていた。たとえば、袁紹の謀臣であった陳琳は曹操との戦いに向けた檄文の中で曹操を「贅閹の遺醜」(宦官という薄汚い存在の臭い倅、といったような意味)と罵倒している。しかし、そのような逆境が曹操に「家柄などによらず、人が個々の才能に応じて正当に評価される世を作りたい…」という思いを強めさせたのだと思われる(前述の陳琳も後にその文才を曹操自身によって認められ、取り立てられている)。
他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪のような事をしていた当時に、曹操は韓浩・棗祗らに提言された屯田と呼ばれる農政を行っていた。屯田とは戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来たのである。この屯田が曹操が勝ち残った理由のひとつである。
曹操は文章家でもあり、兵書『孫子』を現在残る十三篇に編纂したのは曹操である(演義では、『孫子』に倣って十三篇に編纂した自著の兵法書である『孟徳新書』を張松に笑われた事で怒り焼き捨てているが、これが恐らく『孫子』の注釈書の事ではないかと言われている。勿論焼き捨てられてはいない)。漢詩にも卓越しており、赤壁の戦いの際に歌った「短歌行」は『文選』に収録されている。彼の作品で現存するものは多くないが、それらの詩文からは、民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」(非常な才能の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。
現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」という醸造法は、曹操が発明した「九蒕春酒法」のことである。曹操が後漢の献帝に上奏した九蒕春酒法の上奏文は、現存している。
屯田以外の曹操の政治上の業績は、強制婚姻による兵雇制度の改革、権限の一元化によって朝廷内の意思を統一するため三公を廃止して丞相と御史太夫を設立、有能な人物であれば過去を問わず採用する求賢令、禁酒法、軍閥の抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを見直す合併独立による再編などである。
[編集] 政治家以外の曹操
曹操は政治家としてだけでなく詩人・文人としても大きな足跡を残している。代表的な作品としては『文選』に収録されている「短歌行」である。息子の曹丕・曹植と共に建安文学の担い手の一人であり、曹丕・曹植と合わせて三曹と呼ばれる。なお、現在確認できる曹操作の詩は楽府であり、伴奏と共に歌われた歌詞である。曹操以前の楽府は文学と言うより音楽であり、ここに文学的要素を大きく取り入れた曹操以後に、新しい形式である建安文学が花開く土壌となった。
曹操の詩について後世の評価がいくつか残る。梁の鍾嶸の「古直にして、甚だ悲愁」(『詩品』より)、明の周履靖の「自然沈雄」、陸時雍の「その言、鋒を摧(くだ)く斧の如し」、清の沈徳濳の「沈雄俊爽、時に覇気露わす」など。このうち沈徳潜は曹操の詩には漢の空気が残り、曹丕以後は魏の作品であると記している。また、松本幸男は曹操以後に従軍文学と言うべき作が多いと指摘している。
また、曹操は中国の歴史上初めて「海」を詩で詠じた人物とされる[要出典]。「海」は「晦(暗いの意)」に通じ、不吉なものとされてきた。その海を偉大なものと肯定的に読んだのは画期的なことであった。
詩人としての業績のほかには「孫子」に注釈をつけたことがある。これは「魏武註孫子」と呼ばれ長く読まれることになる。「孫子」自身が曹操の偽作という説も出たが、曹操以前の「孫子」の原本が発見されており否定されている。
また、現存していないものも含めると魏武帝『司馬法注』『兵書接要』『兵書要論』『兵書』『続孫子兵法』などが曹操の著作としてあったとされている。
個人的な武芸にも優れていたらしく、『魏書』には(揚州で兵を徴募した際、多数の兵卒が反乱を起こしたが)「太祖は剣を手に数十人殺したので残りのものは皆恐れをなした」と言う文や「人並みはずれた腕力を持ち、自身で飛ぶ鳥を射たり猛獣を捕らえたりした」と言う部分があり、『異同雑語』にも「(張譲の邸宅に忍び込んで発見された際に)手に持った戟を振り回し土塀を乗り越えて逃げ出した。人並外れた武技で誰も彼を殺害できなかった」と曹操の武術に関する逸話が載る。
そのほかに、武帝記注張華『博物志』には、草書、音楽、囲碁に長けていた当時の人物名をあげた後に、彼らに劣らぬ腕前の持ち主として曹操の名を記している。また、『四時食制』と言う著作があり、現存する部分から食に対する知識も豊富であったようである。なお、陝西省漢中博物館には曹操が書いたと伝わる文字(石刻)の拓本が残る。
[編集] ことわざ
- 曹操の話をすると曹操が現れる(説着曹操、曹操就到)。
- 講談などで、曹操打倒の陰謀を図ると必ずといっていいほど露見してしまうことから、日本語での「うわさをすれば影がさす」と同じ意味で使用される。
[編集] 血縁
[編集] 男子
- 曹昂(初め豊悼公、のち豊悼王、豊愍王と改められる)、母は劉夫人
- 曹鑠(相殤王)母は劉夫人
- 曹丕(文帝)母は卞王后
- 曹彰(任城威王)母は卞王后
- 曹植(陳思王)母は卞王后
- 曹熊(蕭懐王)母は卞王后
- 曹彪(楚王)母は孫姫
- 曹沖(鄧哀王)母は環夫人
- 曹宇(燕王)母は環夫人
- 曹林(沛穆王)母は杜夫人
- 曹袞(中山恭王)母は杜夫人
- 曹據(彭城王)母は環夫人
- 曹矩(范陽閔王)母は尹夫人
- 曹子上(臨邑殤公)母は孫姫
- 曹子勤(剛殤公)母は孫姫
- 曹玹(済陽懐王)母は秦夫人
- 曹峻(陳留恭王)母は秦夫人
- 曹幹(趙王)母は王昭儀
- 曹子乗(穀城殤公)母は李姫
- 曹子整(郿(郿は、眉に阝=おおざと)戴公)母は李姫
- 曹子京(霊殤公)母は李姫
- 曹均(樊安公)母は周姫
- 曹子棘(広宗殤公)母は劉姫
- 曹徽(東平霊王)母は宋姫
- 曹茂(楽陵王)母は趙姫
[編集] 女子
[編集] 甥(従子・族子)
[編集] いとこ
[編集] 出典
- ^ 『三国志』一 魏書巻一 武帝紀第一にある裴松之の註で引用された孫盛の『異同雜語』逸文による。
- ^ 『後漢書』卷68 郭符許列傳
- ^ 『三国志』一 魏書巻一 武帝紀第一裴松之の註『曹瞞伝』逸文
- ^ 王沈『魏書』
- ^ 『三国志』
[編集] 関連書
- 竹田晃 『曹操 三国志の奸雄』(講談社学術文庫、1996)
- 陳舜臣 『曹操 魏の曹一族 上・下』(中公文庫、1998)
- 石井仁 『曹操 魏の武帝』(新人物往来社、2000)
- 中島悟史 『曹操註解 孫子の兵法』(朝日文庫、2004)
[編集] 関連項目
- 孫子:曹操が注釈を付した。
[編集] 外部リンク