関中
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関中(かんちゅう)とは、中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯を指す言葉である。函谷関の西側の地域を指す。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。
その範囲については時代によって異なっている。『史記』においては、戦国時代当時の秦の領国(函谷関以西)を漠然と指しており、隴西・漢中・巴蜀に至る現在の中国北西部から西部一帯にかけての広範な地域を指す場合もある。狭義においては、函谷関より西、隴関(ろうかん)より東の平野部である渭河平原を指す言葉としても使われるようになり、古い時代には両方の使い方が併用されていたものの、後世においては後者に対してのみに用いられるようになる(ちなみに、中華民国時代に渭水盆地地域に短期間のみ「関中道」という行政区が置かれていたことがあるが、これが行政区分として関中の語が公式に使われた唯一の例である)。ちなみに、東の函谷関、西の隴関・大散関、北の簫関、南の武関に囲まれていることからその名があるともいうが、前述の経緯から見ると後付であると言わざるを得ない。
四方を険しい山で囲まれていて守備に適し、しかも渭水盆地の生産力は関中の人口を養うのに十分だった。『史記』の中の関中を評した言葉として「関中は沃野千里」「王城の地」「秦(関中)は敵の百に対して一の兵力で対抗できる」という言葉がある。秦や漢が天下を統一できた要因の一つとして、関中の地の利が必ず挙げられる。
しかし、新末期の赤眉の乱や魏晋南北朝時代の大動乱によって次第に荒廃し、同時に華北の動乱を避けた人々が長江流域に移住し、開発を進めたことで江南の経済力が飛躍的に上昇すると、関中の経済的な優勢は覆された。とは言え、西域への交通の要所としての重要性は変わらずにいたために、隋・唐は長安に都を置き、西域との交流を続けた。だが、「百万人」と言われたかつてない規模の大都市に成長した長安の人口を狭い関中地域の生産だけで支えていくことは、たとえ戦乱による荒廃が無かったとしても不可能な話であった。
さらに、安史の乱・黄巣の乱によって再び荒廃すると、唐を滅ぼした朱全忠は東の開封へ都を移した。その後は航海術の発達もあって中国の中心は東へ移り、明末には関中を含めた陝西一帯が李自成率いる反乱軍の発生拠点になるほどまでの衰退ぶりを見せた。しかし現在でも、中央アジアへの玄関口としての役割は失っていない。