程イク
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本来の表記は「程昱」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
程昱(ていいく、141年 - 220年)は字を仲徳といい、後漢末期から三国時代の魏に活躍した人物である。子は程武・程延・他一名、程克・程暁の祖父、程良の高祖父。身長は八尺三寸(約191cm)、見事な髭を蓄えていたという。
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[編集] 概略
[編集] 曹操の参謀として
初めは程立という名前であったが、日輪(太陽を意味する古語)を掲げ持つ夢を見たことで程昱と改名し、曹操に軍師として仕えた。
張邈(ちょうばく)と陳宮が呂布を引き込んで謀叛を起こした時は、兗州のほとんどが奪われたが、荀彧や夏侯惇らとともに三城を守り抜いた。その後、呂布に敗北した曹操が弱気になり、家族を人質に差し出して袁紹と連携しようとした時は、それを押しとどめた。
劉備が曹操のもとに身を寄せていた時は、郭嘉とともに劉備を殺すように進言したが、曹操は聞き入れなかった。その後、程昱が予期したとおり劉備は裏切った。
また程昱が兵七百で鄄城(けんじょう)を守っていた時、袁紹の大軍が近づいてきた。これを知った曹操が兵二千を増援しようとしたが、程昱はこれを断った。兵が少なければ相手は見くびって見逃すであろうが、増援されれば黙って通過しないだろうというのがその理由だった。はたして程昱の読みどおり、袁紹は攻撃してこなかった。曹操は感嘆して「程昱の度胸は、孟賁・夏育(戦国時代、秦の武王に仕えた勇士)をしのぐものがある」と言った。その後程昱は、山や沼沢に隠れていた人々をかき集めて、精兵数千人に編成し、曹操と合流した。
[編集] 曹操の中原制覇以降
劉備が孫権のもとに向かった時、孫権が劉備を殺すという意見があったが、程昱は孫権が劉備を引き入れて抵抗する事を予測し「もう劉備を殺すことは不可能だろう」と言った。
曹操が馬超討伐に向かった時、程昱は留守をあずかる曹丕に軍事参与を命じられた。この時、田銀・蘇伯らが河間で反乱を起こし、将軍の賈信を派遣して彼らを討伐した。このとき賊のうち千余人が降伏を願い出たが、旧法の通り処置する(処刑する)という意見が圧倒的だったが程昱は次のように反対した。
「投降者を処刑したのは、天下に雲のごとく英雄がわき起こった騒乱の時代の事。包囲後に投降した者を許さぬ事によって、天下に威光を示し、賊にとるべき道を悟らせ、包囲するまでもなく降服させるためです。今天下はほぼ平定され、しかも今回は領域内のことです。降伏する以外ない賊を殺しても、震え上がる者もおりません。わたくしは処刑すべきでないと考えます。たとえ処刑するにしても、その前に曹操さまの承認を受けるべきでしょう。」
強硬派はなおも「軍事では専断が許される。判断を仰がなくてもよい。」と言い、これに対して程昱は返答しなかった。そこで曹丕は奥に入り、程昱を引見して尋ねた。「まだ言い足りない事があるようだが。」「そもそも専断というのは、事が緊急で、息をつく間もない場合にのみ許されます。今この賊らは完全に賈信の手中にあり、事態が急変する恐れもありません。だから老臣は将軍が強行することを望まないのです。」
曹丕は程昱の意見をもっともであるとして、曹操に判断を仰ぐと、曹操はやはり処刑を許さなかった。曹操は帰還後、事の次第を聞いて喜び「そなたは軍略に明るいだけではないな。わが家の父と子の間もうまくさばいてくれた」と言った。
[編集] 晩年
その後、曹操の「兗州での敗北の折り、おぬしの諫言を無視しておったら、今日のわしはなかっただろう」という言葉に満足し、「満足することをわきまえておれば、恥辱を受けない(「老子」の言葉)。退く潮時だ」と言って引退した。
魏国が建設されると、程昱は衛尉(皇宮警察長官)となったが、中尉(憲兵隊指令)の刑貞と儀礼をめぐって争い、免職となった。しかし曹丕が即位すると衛尉に復職し、安郷侯に昇進した。そして三公に抜擢されようとする矢先、八十歳で死去した。曹丕は涙を流し車騎将軍を追贈した。粛侯と諡された。
[編集] 人物
程昱は、強情で自説を曲げない性格で他人とよく衝突し、謀反の疑いありと讒言された事もあったが、曹操の待遇は逆にますます厚くなっていったらしい。かつて曹操の軍勢が食糧難に陥った際に、程昱は略奪を行い食料を確保したが、その中の干し肉には人肉も混じっていたのだという。程昱はそれによって声望を失い、ついに公の位までのぼらなかったのだという逸話が『世語』に記されている。
[編集] 創作・伝承
[編集] 三国志演義における程昱
袁紹との戦いで十面埋伏の計略を用いるなど、曹操軍団の参謀として活躍する。また、後には劉備配下であった徐庶の引き抜きを進言。徐庶の母親を人質とし、彼女の筆跡を真似た偽手紙を書いて徐庶を無理やり招きよせる事に成功したり、赤壁の戦い敗走時に義に厚い関羽が曹操を斬れないことを知り命乞いを提案するなど、他人の仁義を悪用する陰謀に長けた人物として描かれる事が多い。