夏侯惇
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夏侯惇(かこう とん、かこう じゅん、ピンイン: Xiàhóu Dūn, 生年不詳 - 延康元年(220年)4月25日)は中国、後漢末から三国時代の武将。字は元譲(げんじょう、Yuánràng)。豫州の沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。前漢の高祖に仕えた夏侯嬰の末裔という。曹操と夏侯淵の従兄弟に当たる(演義では夏侯淵の兄)。また、『三国志』(裴松之注引)の『曹瞞伝』によると、曹嵩(曹操の父)は叔父(父の弟)に当たるという。
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[編集] 人物
[編集] 生涯
14歳の時、学問の師を侮辱した男を殺し、荒い気性を持つ人として知られるようになる。曹操が拳兵した時から武将として付き従い、190年に司馬に任じられた。曹操が董卓配下の徐栄に敗れると、夏侯惇は曹操と共に江東の丹陽郡などへ出向いて、精強な兵士の徴集に当たった。その後、折衝校尉・東郡太守に任じられた。
194年、曹操が陶謙を攻撃すると、夏侯惇は濮陽の守備を任せられる。呂布が陳宮らと謀って兗州を急襲した時、荀彧に呼び出された夏侯惇は、到着したその日の内に、城内で叛乱を企てていた者たちを速やかに逮捕して処刑した。その後、曹操の家族を守るために軽装の兵を率いて鄄城に向かうと、呂布の本隊と遭遇した。呂布は濮陽に入り、部下の将に策をもって夏侯惇を捕らえさせた。夏侯惇の陣営は恐怖に陥ったが、夏侯惇の下に属していた韓浩の、主を人質に取られているも臆しない果敢な対応が功を奏し、結果として夏侯惇が救出されている。曹操が帰還すると呂布討伐に従軍したが、左眼に流れ矢が当たる怪我を負った。王沈の『魏書』によると、このことから、夏侯淵と区別するために盲夏侯とあだ名された。だが夏侯惇は嫌がり、鏡で自分の顔を見る度に怒って、鏡を投げ捨てたという。198年、呂布配下の高順が沛にいた劉備を攻撃すると、その救援に赴いたが、自身も高順に敗れた。
陳留太守・済陰太守を歴任し、また建武将軍を付加され、高安郷侯に封ぜられた。(陳留の)太寿の川をせき止める堤防を築き、自らもっこを担いで稲を植えるよう指導した。このように夏侯惇は将軍の任務の他に、孫権の配下に対して中央の辞令を送ったり、韓浩・衛臻ら忠勇の士を推挙したりするなど、実に幅広く実務をこなしていた。199年には、洛陽の長官である河南尹に転任した。曹操が河北を征伐するとその後詰めを務めた。
劉表を後ろ盾にした劉備が曹操の留守を狙って葉(しょう)へ侵入すると、夏侯惇は于禁・李典を従えてこれを迎撃した。劉備は屯営を焼き払って博望に撤退した。李典は「伏兵があるので追ってはいけません」と諌めたが、夏侯惇はこれを聞き入れずに追撃し、伏兵の中に入り込んだ。夏侯惇の軍は不利だったが、守備していた李典が救援に駆けつけたため、劉備は撤退した。
204年、鄴が平定されると伏破将軍に昇進した。206年、并州の高幹が劉表と結んでいた張晟と共に反乱を起こし、河東の衛固・范先がこれに呼応すると、曹操は夏侯惇を彼らの討伐に向かわせた。河東太守の杜畿は、夏侯惇の軍が着く前に衛固らのもとへ行って油断させ、それから張辟に篭って彼らを防いだ。そこに到着した夏侯惇が高幹・張晟を撃破し、衛固・范先を捕らえて処刑した。
217年、曹操と孫権が濡須口で戦ったが、互いに被害を出したために和睦が成立した。曹操は許昌に帰還する際に、夏侯惇を揚州方面全二十六軍の総司令官に任命。居巣湖辺に留め、曹仁・張遼・臧覇・司馬朗らを率いさせた。その直後、孫権は曹操に対して臣従の意を示した。
220年正月、曹操が亡くなり曹丕が魏王を継ぐと大将軍(三公を凌ぐ軍務・軍政の最高職)に任命されたが、夏4月には曹操の後を追うかのように病に倒れ、この世を去った。諡は忠侯。
長子の夏侯充が後を継いだ。233年(曹丕の嗣子・曹叡の代)には、曹仁・程昱と共に曹操の廟園に祀られた。
『三国志』では夏侯惇の武勲はあまり書かれていないために、一般的には夏侯淵のような派手な戦をせず、地味であったとされている。しかし、明帝紀など他の人物の伝には、具体的ではないものの、武功が非常に高かったということが記されている。
[編集] 人柄
性格は清潔で慎ましやかであり、お金が余れば人に配り、日頃から学問や鍛錬に励んだという。このことは、許昌に最近まで残されていた夏侯惇の陵墓を発掘した際に、埋葬品がたった一振りの剣しかなかったことからほぼ実証されている。また、曹操からの信頼が最も厚かった武将で、車への同乗や、曹操の寝室への自由な出入りが唯一許されていた。また、曹操は『不臣の礼(配下として扱わない特別待遇)』として、夏侯惇に対して魏の官位を与えようとしなかったが(夏侯惇は魏王に即位した後の曹操の配下では唯一漢の官位に就いており、朝廷での立場は曹操と同列であった)、夏侯惇は自分には過ぎた扱いとしてこれを固辞、魏国の前将軍の位を拝命し、臣下の礼を取っている。
[編集] 官位
裨将→行奮武将軍司馬→折衝校尉・東郡太守→建武将軍・陳留太守→建武将軍・済陰太守→建武将軍・河南尹→伏波将軍・河南尹→魏国前将軍→魏国大将軍
[編集] 演義での夏侯惇
『演義』での夏侯惇は、軽率なところがあるものの武勇に秀でた猛将として描かれ、夏侯惇のイメージ像を形作るのに一役買っている。例えば、董卓配下の徐栄を突き殺し、呂布配下の将軍・高順を一騎打ちで追い払うといった活躍を見せている。
一般的に、夏侯惇というと隻眼の将軍といったイメージがあるが、この夏侯惇像をいっそう強くする挿話の舞台となるのは、その後の呂布との戦いである。この戦いの最中、呂布の将を追撃する夏侯惇を陣中から確認した敵将・曹性は、矢を放ち夏侯惇の左目を射抜いた。この時、夏侯惇は刺さった矢を眼球諸共引き抜き、「父之精母之血不可棄也(父の精、母の血、棄つるべからざるなり)」と叫びこれを喰らい、その後に左目を射抜いた曹性を次の矢を番える暇もなく顔を突き刺し、討取ったという。孔融が禰衡を曹操に推挙した際、禰衡は曹操を筆頭に臣下の言行を様々に言い連ねているが、夏侯惇は「五体満足」と皮肉られた、という挿話も演義には見られる。
新野の劉備討伐の為に10万の兵の大将として侵攻した際、敵先鋒の将軍・趙雲を追軍し、博望坡まで深追いしてしまう。副将の李典は「博望坡は火計をしかけるのに優位な地形だ」と勧告するも、諸葛亮の火計にかかり潰走、大敗してしまった。兵の大半を逸した夏侯惇は、自らの処断を覚悟すると体を縛りつけ曹操と対面したが、曹操はこれを赦した。
220年、曹操の危篤に際し枕元へ呼びつけられると、そこでかつて曹操が殺害した人物達の亡霊を見てしまう。これに夏侯惇は昏倒、その後間も無く死去した。
[編集] 宗族
[編集] 子
[編集] 孫
- 夏侯佐
- 夏侯廙(夏侯充の子)
[編集] 曾孫
- 夏侯劭(夏侯廙の子)
[編集] 弟
- 夏侯廉:列侯に封じられた。
この他、吉川英治の『三国志』、及び横山光輝の『三国志』では夏侯恩が夏侯惇の弟として設定されている。夏侯恩は『三国志演義』に登場する架空の人物であるが、演義本編にはそのような記述はされていない。