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陶謙 - Wikipedia

陶謙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陶謙とうけん、Táo Qiān 132年 - 194年)は、中国後漢末期の将軍政治家恭祖揚州丹陽郡余姚県[1]の人。

目次

[編集] 略要

[編集] 生涯

幼いころから好んで学問をしたので[2]、やがて太學に行った。地方に戻ると郡、州の官僚となり、やがて茂才に推挙されて県令から幽州刺史に昇進した。

184年黄巾の乱が起こると徐州刺史となり、黄巾軍を敗走させた。

185年、中央に召還されると、車騎将軍張温の下につけられ、韓遂・辺章らを討伐するため涼州に遠征した[3]

190年、反董卓の義兵が各地で挙兵されるが、陶謙は事態を徐州から静観した。董卓が長安に逃れると貢物を送ったので[4]、安東将軍、徐州のに昇進した。やがて揚州に食指を伸ばし、二州にまたがって割拠するようになる。

193年、闕宣[5]と結託して泰山郡の費県・華県において略奪行為を働いた[6]。同年、曹操に攻め込まれたので、陶謙は曹豹を迎撃に出すが撃破された[7]。敗戦寸前のところで、曹操の本拠地で張邈張超兄弟と、その客将呂布陳宮らが謀反を起こしたため、曹操は軍を撤退させた。この結果、陶謙は九死に一生を得ている。

194年、陶謙は病で重篤に陥り、自らの息子陶商・陶応がそろって不出来であるという理由から劉備に徐州を譲り、間もなく死去した。齢63だった。

[編集] 人物

陶謙が取り立てた人物には王朗朱治陳登など後々活躍する人物が多数いた。その反面、笮融、曹宏、闕宣などの奸物と結託したり、忠義に厚い趙昱を起用せず、張昭呂範など、自分の招きに応じなかった人物たちを全て捕らえて幽閉するなど、人物の起用やその処遇を誤る事があった。 また、孫堅の長男の孫策を忌み嫌っていたともいう[8]

[編集]

陳寿の評
「あるべき規範を守らず、感情に任せて行動したので、司法と行政の連携が取れず、多くの善良な人々が被害を被り、これらによって生じた乱れは時を追うごとに大きくなった」[9]
「訳も分からないままに憂いの中で死んでいった」[10]
「州郡に拠って立ったが、凡人でもここまで酷い事にはならないだろう。論じるに値しない」[11]
甘公[12]の評
「良い面構えをしている。将来必ずや大きな成功を収めるに違いない」[13]
評者不明[14]
「陶謙の性質は剛直で、世の規範を守って行動する人物だった」
張昭の評[15]
「美徳と武勇と知性を兼ね備え、性質は剛直であり、その統治は恩愛をもって行われた」

[編集] 血族

  • 甘氏

  • 陶商
  • 陶応

[編集] 脚注

  1. ^ 現在の浙江省余姚市
  2. ^ 陶謙伝・注『呉書』によると、陶謙は幼くして父を亡くした。誰の世話にもならず生計を立てたことで評判が立ったという。その一方で、14歳(成人直前)になっても近所の子供達を集めてガキ大将のように振舞って遊んでいた。
  3. ^ この時、上官の張温を侮辱し、激怒させた。『三国志』魏書董卓伝、『三国志』呉書孫堅伝によると、張温の人物については、その指揮ぶり、優柔不断さについて、同僚の董卓、武将の孫堅ともに、少なからず不満を抱いている。
  4. ^ 『呉書』士燮伝では、交州に割拠した士燮 (三国志)も朝廷に貢物を送り、官職を手に入れている。
  5. ^ 皇帝を名乗った宗教指導者。『三国志』魏書武帝紀によると、曹操には朝廷から闕宣追討の勅令が出ていた。後に陶謙と仲たがいして殺害された。
  6. ^ 同時期、曹操の父曹嵩とその一族が領内を通行した時、死亡する事件が起きている。曹嵩殺害の経緯についてはいくつか説が有るので載せる。
    陳寿による『三国志』魏書武帝紀本文
    曹操の父、曹嵩は退官して一度故郷に戻ったのだが、董卓との戦いが始まると、戦禍を避けて瑯耶に逃れた。そこを陶謙が襲って殺害した。
    魏書武帝紀・注『世語』
    曹嵩は泰山郡の華県に居た。曹操は迎えを出したが、陶謙が先回りして兵を出したのでみな殺されてしまった。
    魏書武帝紀・注『呉書』
    陶謙は、曹嵩が領内を安全に通行できるよう、、張闓を護衛につけた。しかし、泰山郡にある華県と費県の間を通行中、張闓は曹氏の莫大な財産に目が眩み、曹嵩らを殺害して財産を持ち逃げした。曹操は陶謙に責任を取らせるため、攻め込んだ。
  7. ^ この時、曹操が徐州の人民を無差別に殺害したため、多くの被害が出たとされる
  8. ^ 『三国志』呉書孫策伝に記述
  9. ^ 原文「背道任情、刑政失和、良善多被其害、由是漸乱」
  10. ^ 原文「昏乱而憂死」
  11. ^ 公孫サン公孫度張楊とあわせての評価。
  12. ^ 『三国志』魏書陶謙伝・注『呉書』によると、甘公は陶謙の。同郷の人で、名士でもあり、後漢の蒼悟太守だった。14歳の陶謙を一目で気に入り、婦人の反対を押し切り、成人したら娘を嫁にやると決めた。
  13. ^ 原文「有奇表、長必大成」
  14. ^ 魏書陶謙伝・注『呉書』による
  15. ^ 魏書陶謙伝・注『呉書』記載の、張昭が書いた陶謙への哀悼の辞による。

[編集] 参考文献


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