郭皇后 (曹叡)
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郭皇后(かくこうごう、生年不詳 - 景元4年(263年))は、魏の明帝の皇后。諡は元。
西平の出身。河右の豪族の娘であったが、本郡において叛乱が起こったため、連座して後宮に没収された。明帝の即位後、甚だ愛幸せられて、夫人(妃の位の一。皇后に次ぐ)となる。明帝の病が篤くなると、皇后に冊立された。斉王の即位後、郭氏を尊んで皇太后となし、永寧宮と称した。
三少帝の時代、廷臣らは先に皇太后の意を諮ってから政策を施行する、という体制を取っていたが、これは表向きで、実際は司馬懿やその息子達が実権を握っており、皇太后自身にはほとんど権限がなかったと思われる。 毌丘倹や鍾会をはじめとする反逆者達は、皇太后の命と称して叛乱を起こした。また、司馬師が斉王を廃したときも、名目は皇太后の令を理由としていた。
しかし、斉王の廃位後、その後継者を決定するとき、司馬師が彭城王曹據を推したのに対し、皇太后は高貴郷侯曹髦を推した。皇太后は、理由として「彭城王では太廟における昭穆の並びにそぐわない。これに相応しいのは、烈祖の血筋に連なる者である」としたが、あるいは、実力者である司馬師の反対を封じるに最も効果的として「太廟の序列」を挙げたとも取れる。この曹髦という人は、才気煥発で利発な人柄であり、司馬氏が専横としようとするならば、まず敬遠するであろう人物であった。当然ながら皇太后と司馬師は対立したが、ついには皇太后の主張が通り、曹髦が即位することとなった。しかし、曹髦は後年、専権を極める司馬昭を排除しようとして失敗し、司馬昭の側近である賈充の部下に弑された。司馬昭は皇太后の令と称し、「曹髦が皇太后を害しようとしたため殺害された」と理由を付けた。
景元4年(263年)12月に崩御、翌5年の2月、明帝の高平陵の西に埋葬された。