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高句麗 - Wikipedia

高句麗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高句麗
三国時代の地図、5世紀終わり頃
各種表記
ハングル 고구려
漢字 高句麗
平仮名
(日本語読み仮名)
こうくり
片仮名
(現地語読み仮名)
コグリョ
ラテン文字転写: Goguryeo
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朝鮮の歴史
朝鮮の歴史
伝説時代
(檀君朝鮮)
(箕子朝鮮)
衛氏朝鮮
漢四郡 高句麗 弁韓 辰韓 馬韓 三韓時代
高句麗 (伽耶) 新羅 百済 三国時代
渤海 統一新羅 南北国時代
渤海 後高句麗 新羅 後百済 後三国時代
高麗
李氏朝鮮
大韓帝国
日本統治時代
連合軍軍政期
朝鮮民主主義人民共和国 大韓民国

高句麗(こうくり、Goguryeo、紀元前37年頃 - 668年)は扶余系民族による国家であり、最盛期は中国東北部(満州)から朝鮮半島の大部分を領土とした。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。煬帝太宗による遠征を何度も撃退したが、唐と新羅の連合軍により滅ぼされた。後述の王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。

目次

国名

「句麗」は土着語で「城」の意味らしいことは有力説として多くに認められているが「高」の解釈は諸説あって一定しない。またすべての県城はみな城であるのに高句驪県だけが「城」の意味をもつのは不可解である。かつては「高句麗」の三字とも純然たる漢語で解釈する説もあった。

中原高句麗碑などの碑文によれば5世紀中頃には「高麗」と自称していたことがわかる。中国の王朝がこの自称を公認したのは520年が最初であることが、歴代正史の冊封記事から明らかになっている。以後は「高麗」が正式名称として認められていた。中国・日本の史書においては高麗と表記される例があるのはそのためである。後世(現在)、「高麗」の正名を廃してもっぱら「高句麗」の旧称を用いるが、これは王氏高麗と区別する便宜のためで、『三国史記』から始まる表現である。

歴史

漢の支配

紀元前1世紀中頃のこととして、漢の支配による玄菟郡・高句麗県は後退し、現在の集安市付近には扶余系の族による高句麗の勢力が固まってくることとなったことが確認される。又、高句麗を形成した扶余系民族は中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主としてその他に牧畜狩猟を生業としていたとみられる。

建国神話

三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。朱蒙の母は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙というのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く脱出して卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。広開土王碑にもほぼ同じ内容が書かれている。詳細は東明聖王#建国神話を参照。

卒本城時期

朱蒙が建国したとされる卒本の地は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)に当たり、都城の卒本城は五女山山城に比定される。しかし建国後まもなく、西暦3年には第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられる。高句麗の本拠地が実質的に丸都城への移動した時期については2世紀末から3世紀初めにかけてのころだと見られている。

丸都城時期

丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっていった。国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、とくに遼東方面への進出に積極的であり、玄菟郡をさらに西に追いやった。後漢の統制力が黄巾の乱により弛緩すると、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。

公孫氏が司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍丘倹により246年に首都を陥落させられた。東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。このときに築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである[1]

その後も遼東半島への進出を目指し、西晋八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を滅ぼし、更にこの地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に首都を落され、臣従せざるを得なくなった。355年には初めて前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封され、中国の国家が朝鮮諸王を冊封する態勢の嚆矢となった。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶仏典仏像などを伝えられた。

391年に即位した19代広開土王後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王に臣従を誓わせた。その後、百済がと結んで新羅を攻めたので援軍を送り、倭を追い返して新羅を朝貢国にした。領域を南方に拡げた高句麗は、長寿王の時代になって平壌城に遷都した。

平壌城時期

遷都直後は大城山城を拠点とし、しばらくしてから平壌城を居城とした。長寿王は西へ進出して遼河以東を完全に勢力下として手に入れた。更に475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害し、百済は南に遷都した。この時期には遼東半島朝鮮半島の半ば、満州を領有するに至り、高句麗の最盛期とされる。しかし5世紀末になると盟下にいた新羅の勢力が大きくなり、百済と新羅の連合軍により領土を大幅に削られる。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両面に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。この頃の高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や遊牧民族突厥などとも手を結びながら包囲していく戦略を採ろうとしていた。

中国で北朝系のを滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するために突厥と結びつこうとした。そのために隋からの4次にわたる遠征を受けるが、全て撃退することに成功し、却って隋の滅亡の原因を作った(このときの英雄が乙支文徳である)。隋が倒れてが興ると、今度は唐からも遠征を受けることとなった。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍国主義的政権によって唐の侵略に対抗しようとした。唐の太宗による2回の遠征、さらに高宗期の3回の遠征も撃退し、唐と争いながらもその間で百済と結んで新羅を攻める動きをとった。新羅と同盟関係にあった唐は長年の宿敵・高句麗討伐の為に再度兵を起こし、660年に高句麗と友好関係にあった百済が滅亡、663年白村江の戦いで百済残存勢力が事実上壊滅、高句麗は孤立する格好となった。また淵蓋蘇文の死後にその子らの間に内紛を生じると、唐・新羅は連合して高句麗の都の平壌を攻め、668年に宝蔵王らは投降して滅んだ。

滅亡後

高句麗の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。

また北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられるが、その中の粟末靺鞨系高句麗人の指導者(乞乞仲象)により唐の支配を逃れ、その息子の大祚栄が東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)で独立し震国(大震)を建てた。後の渤海である。渤海は8世紀から9世紀にかけて繁栄を遂げた後、926年に新興の契丹国(遼)によって滅ぼされた。末裔は数度にわたって再興を目指したが全て失敗し、失敗のたびに指導者や領民のほとんどが高句麗の後継を掲げる高麗に亡命した。旧領に残った者は、後に勃興した女真において大いに重用され、その中で女真に取り込まれていき、歴史から姿を消した。

朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。後高句麗及び高麗は、同時期に滅亡した渤海の難民を同胞として積極的に迎え入れた。

また、高句麗の遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市飯能市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社高麗川などの名にその名残を留めている。

日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗国とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。

民族系統

  • 高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」)
  • 高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」)

という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる扶余と同じ民族と見られることが多い。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[2]。但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・百済(王族)などが朝鮮半島に広く分布し、高麗王朝以降、「朝鮮民族」のアイデンティティーが確立されてゆく中で、半島南部の韓族とともに民族を構成していった一部とみられている。

文化

高句麗の文化は石の文化だといわれる。石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。起源は中国の古墳壁画に求められうるが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。前期古墳については中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳については朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界文化遺産に登録されている。

朝鮮半島国家では最も早く仏教を受容し、『三国史記』高句麗本紀では小獣林王の5年(375年)に肖門寺・伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮での仏教の始まりとされている。既に東晋の僧・支遁366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の仏教受容については国家的な取り組みであったことと見られる。広開土王の時代(5世紀初頭)には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。高句麗の仏教は老荘思想を媒介として、神仙信仰と習合していたと見られている。神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも伺える。栄留王の7年(624年)にはに願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士を派遣してもらい、高句麗の国内で道教の講義を開きもしている。また、仏教寺院を道観に転じることもあった。

国際関係

北方民族との関係

高句麗は鴨緑江中流域の中国郡県内に建国し、漢人地域に対する略奪や侵略で強大化したため、当初から中国文化の影響が強く、匈奴柔然との関係はそれほど強くはなかった。しかし4世紀になって中国が五胡十六国時代の混乱に陥り、遼西に興起した鮮卑慕容部が前燕を立てると高句麗はその攻撃を受けて丸都城を落とされ、臣従するようになった。だが華北に進出した前燕は前秦によって滅ぼされ、華北の混乱は高句麗に有利に作用した。この頃、高句麗はシラムレン河流域の契丹や北部満州の黒水靺鞨にも勢力を延ばしている。また北燕の天王には高句麗人が擁立されたこともあった[3]

6世紀に入ってモンゴル高原突厥が興起すると、契丹や靺鞨など弱小民族の支配権をめぐって突厥と対立関係が生じた。『三国史記』には突厥が高句麗の新城を攻撃した記事が見え、突厥の「ビルゲ可汗碑」にも初代突厥可汗が東方のボクリ可汗を攻撃した記事がみえる。しかしが中国を統一すると巧妙な外交で突厥を分裂させ、一部の契丹や靺鞨が隋に帰付するようになると、高句麗と隋の関係が緊張し、高句麗嬰陽王が隋の営州を攻撃して戦争に発展した。

やがて突厥が復興の兆しを見せると、高句麗は対隋戦略の必要から突厥に接近した。この時期には突厥を通じて西域諸国とも通好したようである。だが高句麗と突厥の通好は隋の疑心を招き、煬帝の大遠征に発展した。隋は高句麗を征服することができず、かえって国内の反乱によって滅ぶ。突厥はこの機会に乗じて再び勢いを盛り返した。その後高句麗がに滅ぼされると、突厥に亡命した高句麗人もいた。

日本との関係

長野県には5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が多数分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とされる。また狛、巨麻の古代地名は以下の例のように日本各地に分布する。

4世紀末から5世紀にかけて倭国(日本)と高句麗は敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。しかし、6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭国と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。7世紀前半までの高句麗と日本との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に訪れて後に聖徳太子の師となった恵慈610年に訪れて顔料や紙墨を伝えた曇徴は有名である。7世紀後半には文化交流に留まらず、淵蓋蘇文のクーデターを伝えるなど、政治的な関わりをもつようになった。

668年に高句麗が滅亡すると倭国に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。

  • 狛人…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
  • 狛造…高麗国主夫連王より出(山城国諸蕃)
  • 狛首…高麗国人安岡上王の後(右京諸蕃)
  • 狛染部…高麗国須牟祁王の後(河内国未定雑姓)
  • 大狛連…高麗国溢士福貴王の後(河内国諸蕃)
  • 大狛連…高麗国人伊斯沙礼斯の後(和泉国諸蕃)

歴代王については朝鮮の君主一覧#高句麗を参照。

王家の姓

三国史記』高句麗本紀・始祖東明王紀には、高句麗の王族の姓を「」(こう/コ)としている。しかし、建国の当初から中国式の姓を称していたわけではなく、当初の5代慕本王までは夫余の氏族名である「」(かい/ヘ)を本姓としており、後に王姓が「高」とされたことからの遡及記述であると見られている[4]。高句麗の王は中国史書には長らく名だけで現われており、「高」姓とともに記録に残ったのは『宋書』における長寿王が最初であるが、高姓の由来としては、元は高姓であった北燕王慕容雲との同族関係の確認によるものと見られている[5]。長寿王以後は「高句麗王・高璉」というように中国式に姓名表記がされるようになった。それ以前には中国式の姓をもっていなかったか、自民族の固有語・土着語による姓(部族名)のようなものがあった可能性はあるが、記録からは確認できない。

王と五族

高句麗には有力な地縁的集団が5つあり、これを五族(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)という。王は消奴部(後に桂婁部)から立てられ、王妃は絶奴部から出されていた。これら五族は一定の地域を地盤とする部族国家であり、初期の高句麗は部族連合の態をなしていたと見られている。2世紀末、故国川王の死後の発岐・延優(後の山上王)の兄弟争いに公孫氏が介入したことにより、高句麗の本拠地が丸都城(集安市)に移ると、基盤となる地域からの移動のために五族の力が薄れていく契機となった。3世紀前半の東川王の時代にはの攻撃を受けて逃亡した王を支えたのは直属の五部であり、王都を回復した後の褒賞は五族には与えられず、五部にのみ与えられることとなった。平壌に遷都した後は五族は内・東・西・南・北(或いは黄・前・後・左・右)の五部に改称された。この改称については地縁的部族に由来する貴族勢力の衰退とも見られるが、貴族層の構成要員が地縁的部族の有力者から王の直属の官僚へと移り変わったことによるものであり、新しい貴族層によって中央集権化が強められたものと見られている。この後に五部は高句麗の王都付近及び地方の軍政・行政のための区画となった。高句麗の滅亡時点では五部の下に176城があったといい、部の長官を褥薩、部の配下にある城主を道使といった。これらの王都の区画の制度は高麗の五部坊里、李氏朝鮮の五部へと受け継がれた。

官制

三国史記』によれば、古くは左輔・右輔の官名が最高位のものとして見られ、百済でも同様に左輔・右輔を最高位の官名としていた。高句麗では第8代新大王のときにその上に国相という官を新設し、王の即位に功績のあった明臨答夫が始めてその位についた。

三国志』や『後漢書』などの表記・序列に異同はあるものの、3世紀には以下の10段階の官制が整っていたものと考えられている。ただし相加、対盧、沛者、古鄒加については五族の有力者が称したものであり、必ずしも王権の元に一元化された官制だったわけではないとされる。

  1. 相加(そうか、상가、サンガ)
  2. 対盧(たいろ、대로、テロ)
  3. 沛者(はいしゃ、패자、ペジャ)
  4. 古鄒加(こすうか、고추가、コチュガ)
  5. 主簿(しゅぼ、주부、チュブ)
  6. 優台(ゆうだい、우대、ウデ)
  7. 丞(じょう、、スン)
  8. 使者(ししゃ、사자、サジャ)
  9. 皁衣(そうい、조의、チョウィ)
  10. 先人(せんじん、선인、ソニン)

隋書』や『新唐書』に見られる官位名についても異同は著しいがそれぞれ12階とし、第15代の美川王(在位:300年-331年)の時代に王権の下に、以下のような一元的な13段階の官制に整備されたと考えられている。

  1. 大対盧(だいたいろ、대대로、テデロ)
  2. 太大兄(たいだいけい、태대형、テデヒョン)
  3. 烏拙(うせつ、오졸、オジョル)
  4. 太大使者(たいだいししゃ、태대사자、テデサジャ)
  5. 位頭大兄(いとうだいけい、위두대형、ウィドテヒョン)
  6. 大使者(だいししゃ、대사자、テサジャ)
  7. 大兄(だいけい、대형、テヒョン)
  8. 褥奢(じょくしゃ、욕살、ヨクサ)
  9. 意侯奢(いこうしゃ、의후사、ウィホサ)
  10. 小使者(しょうししゃ、소사자、ソサジャ)
  11. 小兄(しょうけい、소형、ソヒョン)
  12. 翳属(えいぞく、예속、イェソク)
  13. 仙人(せんにん、선인、ソニン)

高句麗の末期に大対盧の位にあった淵蓋蘇文はクーデターを起こし、莫離支(ばくりし、막리지、マンニジ)の位について専権を振るった。莫離支そのものの名称は『三国史記』職官志では『新唐書』を引いて12階のうちの最下位の古雛大加の別名としている。(ただし『新唐書』高麗伝にはそのような記載はない。)

高句麗の歴史帰属をめぐる問題

詳細は東北工程、及び中韓「高句麗・渤海」歴史帰属紛争を参照。

後継となる渤海と同じように、韓国中国との間で高句麗史はどちらの歴史に帰属するかについて論争が起きている(朝鮮民主主義人民共和国も参加しているが韓国ほどには積極的でない)。以前までは高句麗は数千年間朝鮮史の一部だったが[6]中国社会科学院2002年より中国東北部少数民族の歴史研究プロジェクト「東北工程」を開始し、2004年には高句麗が中華民族の一部であり自国の地方政権であるとの認識を打ち出した。中国側から言えば実証できる古朝鮮衛氏朝鮮が中国の燕 (春秋)の者が造った国家であり[7]、それを「前漢」が滅ぼして楽浪郡などの漢四郡を設置した。

これに対して韓国は激しく反発し、外交問題に発展しかけた。高句麗は満州と朝鮮半島北部を領有した国家であり、高句麗人の多くは後に朝鮮人を形成する母体となったこと、満州が漢民族化したのは清朝中期以降であることから中国の政権とするには不適当だという意見が韓国などの見方である。

一方で古代国家を直接近現代の国家に結びつけるのは不適当でもあり、そのため厳密に言えばどちらの国の歴史でもあり、確定することは無理であるという意見もある。

日本の学会では高句麗・渤海史は朝鮮史であるが、中国史とは言いがたいとする意見が主流である。高句麗が朝鮮歴史と言う点は過去から日本歴史学界でも認められた事実で日韓併合時代に日本で発刊になった教科書と朝鮮史官撰史料等でも高句麗は朝鮮の歴史として明確に記録されている。 [8]ただし、日韓併合時代においては、日本は高句麗の帰属問題に対しては「当事者」であり、「公平な第三者」ではない事には留意すべきである。

高句麗遺跡のユネスコ世界遺産登録問題

北朝鮮は2000年頃から、平壌市南浦市に所在する高句麗後期の遺跡の世界遺産登録を働きかけていた(高句麗古墳群)。2003年には登録される見込みであったが、中国も吉林省集安市を中心に分布する高句麗前期の遺跡の登録申請を行った(高句麗前期の都城と古墳)。この経緯によって、両遺跡は2004年に同時登録という形で決着をみた。

脚注

  1. ^ 平壌付近には当時は魏の楽浪郡が存在するために、平壌城築城記事について丸都城の別名と考えられている。→(井上訳注1983 p.116 注23)
  2. ^ 武田編著2000 p.50
  3. ^ 北燕の慕容雲は祖父が高句麗の支族であり元は高氏であったが、後燕慕容宝の養子となって慕容姓を賜ったという。
    『三国史記』巻第十八・高句麗本紀第六・広開土王紀 :「十七年(408年)春三月。遣使北燕。且叙宗族。北燕王雲、遣侍御史李拔報之。雲祖父高和、句麗之支属、自云高陽氏之苗裔。故以高爲氏焉。慕容寶之爲太子。雲以武藝侍東宮。寶子之、賜姓慕容氏。」
  4. ^ 鮎貝1987 pp.70-74. 夫余の王解夫婁、朱蒙の父とされる解慕漱などに共通する「解()」については、太陽・日輪を意味する古朝鮮語を転写したものと推測されており、また解氏は同じ扶余系の百済において有力な氏族となっていることを指摘している。
  5. ^ 井上訳注1983 p.24 注3。ただし、前述の鮎貝1987では、早くから中華文明に接触していた高句麗自身が高陽氏の苗裔として高氏とする付会を行なったものと見ている。(→鮎貝1987 pp.78-80.)
  6. ^ 1963年周恩来中国総理 -古朝鮮, 高句麗, 渤海史は朝鮮歴史
  7. ^ 建国に関しては考古学的実証を得られていない。
  8. ^ これを示す日韓併合時代の資料として、以下のものがある(いずれも国立公文書館 アジア歴史資料センター 収録)。
    • 『朝鮮史のしるべ』 p.21 高句麗の強盛、朝鮮総督府、昭和14年11月30日(1939年11月30日)、A06032004200。
    • 『調査資料第三十四輯』 朝鮮総督府、昭和7年4月28日(1932年4月28日)、A06032013300。
    • 『大韓彊域考下巻 2』 外務省、B03041214900。
    • 『大韓彊域考下巻 3』 外務省、B03041215000。

関連項目

参考文献

  • 鮎貝房之進『朝鮮姓氏・族制考』国書刊行会、1987(原著 1937、『雜攷姓氏攷及族制攷・市廛攷』1973復刊から「姓氏攷及族制攷」を独立させ改題再刊したもの)
  • 井上秀雄『古代朝鮮』 講談社〈講談社学術文庫〉、2004 ISBN 4-06-159678-0(原著『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972)
  • 三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5(新羅本紀)
  • 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X(高句麗本紀)
  • 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3(雑志)
  • 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社〈新版世界各国史2〉、2000 ISBN 4-634-41320-5

外部リンク


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